第9話 工学部の姫は電子タバコに夢を見る
ショップを出た俺たち――というより佐伯先輩が向かったのは、値段の割に量が凄まじいことで有名な地元発祥の喫茶チェーン店。
お洒落と言うよりはどこかレトロで落ち着いた店内。あちこちで談笑するマダムの笑い声。そしてなにより全席喫煙可。喫煙者に残された最後のオアシスである。
オーダーを取った店員が立ち去るや否や胸ポケットから煙草を取り出す。
ああ、社会の敵だ、健康に害だ、言いたくば言えばいい。ついさっきお預けされたニコチン欲は止められないのだ。さもあらん。
火をつけて一息、ふと前を見ると同じようにして紙巻きを咥え、口を突き出す佐伯先輩の姿。
「ライター貸して。忘れちゃった」
「……いいですけど。iQOSはどうしたんですか」
「んー?……あれはあれ、これはこれってやつよ」
曖昧な返事を聞きながら、胸元にしまったライターを取り出し、点火して先輩の口元へ。煙を吐き、続けて言う。
「やっぱ水蒸気じゃだめね、煙じゃなきゃ」
「それには同意です……この瞬間に電子タバコの意義が完全に失われましたけどね。安い買い物でもなかったでしょうに」
「――意味はあるのよ。長い目で見れば、ね」
いつもの軽口かと思いきや真面目なトーンでそう言った佐伯先輩の表情は読めないものだったが、不覚にもドキッとさせられた。外見は本当に正統派美少女なのだ、この人は。
「紙巻のが好きだけどね、夢を見るには妥協しなければいけないこともあるのよ」
「紙巻がダメな理由……
「さあ、どうかしら」
ふふっ、と表情を崩さず笑う佐伯先輩。いつもの雰囲気と違うためか妙にいたたまれない気持ちになる。
「禁煙すれば万事解決なんじゃないですか」
「あら、大瀬崎くんは私に死ねと言っているのかしら?」
「大袈裟すぎる!」
「じゃあ大瀬崎くんは私が禁煙しろと言ったら?」
「俺に死ねと言うのですか……」
「ほらやっぱりそうじゃない」
いつもの調子で軽口を言い合ううちに、佐伯先輩の雰囲気も元に戻っていた。
※※※
「この時期なのに暖房入れる講師がいて。参っちゃいますよ」
「それってもしかして白川教諭の事かしら?」
「そうなんですよー……先輩も経験が?」
「大絶賛今年も苦しめられてるわよ。GW前までは続くでしょうね」
「また来年も……この地獄……」
コーヒーと煙を交互に摂取しながらの取り留めのない雑談。
会話の区切りで手元の灰皿に目をやると、こんもりと築かれた吸殻の山に目がいった。
「あー、流石に吸いすぎましたかね」
「……流石に長居しすぎたわね。そろそろお暇しようかしら」
「そうですね、なんやかんやいい時間ですし」
伝票を取って立ち上がり、会計に向かおうとした瞬間――その動きは伝票を持つ手を掴まれて止められる。俺の手を握る白くほっそりとした腕の持ち主は……当然対面に座っていた佐伯先輩。
「言ったじゃない、「お姉さんの奢りだ」って」
「その
「…………大瀬崎くんからそんな言葉が出てくるとは思わなかったわ」
ちょっと格好をつけた返事だったが、佐伯先輩の顔にはまるで素で驚いたような表情。失礼な。
「けど今日は私の我儘に付き合ってくれたから。そのお礼ってことで」
「……まあ、そこまで言われたら。今日はご馳走になります」
こういう時の「奢る・奢られる」論争は永遠に平行線を辿りがちだが、あまり長々とやっていると個人的には見苦しく感じてしまう。ここはありがたく好意に甘えておこう。
「久しぶりによく喋ってよく吸って、いい気分転換になったわ。ありがとう、大瀬崎くん」
「いえ、こちらこそ。想像以上に楽しかったです」
「なによその含みのある言い方……ま、気が向いたらまたやりましょう。その時は……また、呼んでいい?」
佐伯先輩の雰囲気が、保護欲を掻き立てる明るいそれに変わった。所謂「姫」モードだ。分かっていてもグッとくるものがある。男だもの。やめていただきたい。
「その顔は効きません……いつも喫煙所に居る時間なら暇してるので」
微妙に失敗した照れ隠しは、佐伯先輩のニヤニヤとした顔を見れば筒抜けだったようだが――
けれども、その笑顔は心の底から楽しそうな笑顔だった。
※※※
「……………………」
楽しげに店を出ていく男女。それをじっと見つめる視線があったのを、本人は気づく由もなかった。
「あんなに鼻の下伸ばしちゃって……悠斗のあほ……」
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