第50話 忘我の反則技
ブツブツつぶやきながら、納品書の冊子に青海は何か書き込んでいた。そしてその中から伝票をひと組切り取ると、二つ折りにして胸のポケットにねじ込んだ。話しかけるキッカケをつかみあぐねたまま、純一はその様子を黙って見つめていた。老人は純一のことなど、気にかけるそぶりもない。彼は小型の台車を一台引っ張り出すと、折りたたみハンドルを立てて、プレハブ冷蔵庫のドアの前に置いた。
青海が冷蔵庫の中から運び出したのは、数本の十リットル・ステンレス樽だった。入り口の敷居の前まで重い台車を押した彼は、引き戸をいっぱいに開いてから、樽の取っ手を両手でつかんで持ち上げた。外に止めてあった軽ワゴン車まで、生樽を運ぼうとしていたのである。
「あ、僕が運びますよ」と、純一は申し出た。この手持ち無沙汰がもたらす言いようのない居心地の悪さに、彼の自律神経が悲鳴を上げていたのだった。
「余計なことはせんでいい」と、老人は言った。「ワシはこれから配達に出るが、腹をこしらえたのなら帰ってくれ。杉山君にはよろしく伝えてほしい」
「待ってください」 すがるように、純一は言った。「どうしてもお願いしたいんです。ロイヤル・セゾン・プレミアムを……あ、名前が違うんでしたら、ストロング・ビールを、造って頂きたいんです」
「ノン・アルで良いのなら、こしらえんでもないが……」
「それじゃダメです。本物じゃないって、すぐにわかってしまいます。この間も、それでダメになってるんですから」
「何がダメになったのかね? ……そういえば杉山君が、いっとったな。ロイヤル・セゾンのレシピで造られたビールがあったと」
「はい。でもダメでした。これじゃない、違うって……」
「杉山君は参加しとらんのか? 彼ならうまくやるだろう?」
「ビールが再現されることを、杉山さんは知らなかったんです。レシピをどこかに持っていって、知らない間に試作されちゃったみたいなんです」
「無茶をするのう。一回や二回試作したくらいでは難しかろうに。だが、何度かやれば、かなり近い物にはなるはずじゃ。私の所へ来るより、その、どこだか知らんが造ったところに行って、頼んでみるといい」
「それが、青海さん自ら造ったものじゃないとダメなんです」
「だからワシャ造らんと、いっとるだろうが。ここで造ったら、密造になるっちゅうんじゃ」
「それなら、免許のあるどこかのブルワリーで……」
「イヤじゃ! ワシはここを動かん。もう、面倒くさいことに付き合うのは、まっぴらじゃ」
「なぜですか? ちゃんとお礼の方もさせて頂きますよ」
「断る! 安請け合いしてくたびれ損は、もうたくさんじゃ。いいように振り回されるのはウンザリなんじゃよ。それでなくても知らぬ間に、勝手に名前を使われて迷惑しとる。名前を変えといて正解だったわい」
「え? なんで名前を変えたんです? 借金か何かあるんですか? それなら相談に乗ってもらえますよ。その人お金持ってるみたいだから……」
いきなり青海は激高した。
「馬鹿をいうな! 失礼なヤツだな、おまえは。だれが借金で名前を変えるんじゃ!」
「あぁ、ごめんなさい……」と、謝ってみたが遅かった。老人は「帰れ!」と言い放つと、ビール樽を提げて、憤然と道場を出て行った。
「すみません、待ってください」 台車の上に残る樽に、純一は手を伸ばした。
「ワシの樽に触るな!」と、老人は吠えた。
「お願いします。話を聞いて下さい!」
すっかり嫌われてしまったようだった。それでも純一は、ビール樽の取っ手を両手でつかみ上げて、後を追おうとした。そして戸口の敷居に足を引っかけた。転びそうになった彼は、樽を落とすまいと腕に抱えた。そしてそのまま、砂利の地面に横倒しになった。
「ああ!」
ズシリと砂を押しつぶすような音。胸ポケットからスマートフォンが転がり落ちた。
「すみません……」
慌てて立ち上がった彼は、横倒しの樽を縦に戻した。そして、スマホを拾おうと手を伸ばした。しかし、思わず手を止めた。
「あぁ……」
タッチスクリーンの表面に、縦に幾筋もの亀裂が走っていた。
慌てて拾い上げてみたが、舞衣のスマホは沈黙して、起動の気配もない。がっくりと、彼は膝を落とした。傷だらけのスクリーンの上を、純一の手を握りしめる佳奈の笑顔と、ちょっと複雑な笑みを浮べた舞衣の面影がよぎっていった。
そのとき突然、息が止まるほどの痛みが胸を突き抜けた。それが悲しみだとわかったのは、一瞬遅れてのことだった。
――失うとは、こういうことか。大切なひと、いつもそこにいてくれるひと、かけがえのないひと、そんな愛すべき存在が、永遠に失われようとしている。二度と会うことも、言葉を交わすことさえも、できなくなるということなのだ。なのに自分は、なにもできない…… ――
こみ上げてくる情動にあらがうこともできず、彼は片手で顔を鷲づかみにした。だが、こらえようにも、こらえきれない。そのまま彼は、ほとばしるほどに泣き出した。
「ちょっとアンタ!」
女将の声が飛んだ。こだまになって返ってきそうな声だった。
「なにやってるの! 話を聞くくらい、いいじゃない! あぁあぁ、擦りむいちゃって可愛そう。今
樽に手をかけて、老人は言った。「あ~あ~、樽が傷だらけじゃないか」
仁王立ちになって、女将は吠えた。
「あきれた! ちょっと若い人、あんたも男ならメソメソしないの! この人だって大して立派じゃないのよ。アメリカの弁護士から〈離婚の慰謝料の請求〉突きつけられて、逃げ回ってるだけなんだから!」
「馬鹿! なにをいうか」
「すぐに帰るとかうまいこといっといて、ビール造りの道楽三昧。全部巻き上げられたって、文句はいえないでしょう!」
「ビール造りが道楽だと? なんてことを……。どっちの味方なんだ、おまえは」
「アンタ! この人困ってるんだから話を聞いてあげなさい! 私だって困ってるアンタを拾ってあげたでしょう?」
「『拾ってあげた』とはなんだ。『男手が足りんから手伝え』と最初にいったのは、おまえだろう」
「所帯持ちだったなんて、アンタひと言もいってないからよ! 四の五のいってると、ガラクタごと追い出すよ! 話を聞いてあげなさいっ!」
「な……」
老人は、横目でじとっと純一を睨んだ。
「……だからワシはイヤだったんじゃ。泣くのは反則だろうが……」
老人と若者は、無言のまま、残りの樽を軽ワゴン車に積み込んだ。
「乗れ」と、老人は言った。
何を思ったか、純一は荷台に上がり込んで正座をした。
「そこじゃない」と、老人は言った。
若者はなにも返すことはなく、そのまま両手をついて土下座をした。老人は、さらに仏頂面になって、荷室のドアをバタムと閉めた。
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