第49話 海野幽斉 麦酒道場

海野幽斉うんのゆうさい 麦酒道場?」


 純一は、思わず二度見した。何がどうなっているのか頭が混乱して、あとに言葉が続かなかった。


 歴史保護区にふさわしからぬ波トタン貼りのバラックの壁に、母屋の茶屋よりもはるかに大きな木彫りの看板が掲げてあった。いかにも安っぽいアルミサッシの引き違い戸があって、そのガラス越しに、中の様子が見えている。思わず彼は目をこらした。ステンレス製の大きな作業台が、部屋の真ん中にひとつ置かれていて、壁際には流し台やコンロ、奥には業務用のプレハブ冷蔵庫のドアがある。モーター付きのモルトミルらしき機械も、すみに置いてあった。


 純一は引き戸に手をかけた。鍵はかかっていない。「ごめんください」と声をかけながら戸を開けて、彼は中に入った。真正面の壁の高い所には、外の看板よりはるかに小さいものの、墨書きされた木製のプレートが吊してあった。しかしよく見ると、こちらは〈麦酒道場〉ではなく、〈蕎麦そば打ち道場〉だった。この看板を掲げるさっきの老人が、青海忠彦なのか? 宇宙人から一目置かれ、杉山からは絶大な尊敬を受ける、伝説のビール職人なのだろうか?

 偉大なカリスマ的イメージだったのが、なんだか急に安っぽく思えてきた。その印象のギャップをどうすることもできず、彼はただ、その場に突っ立っていた。


 ゴトゴトと足音がして、ガラガラと奥の戸が開いた。純一には一瞥もくれずに、『道場』と称する作業部屋に入ってきたのは、件の老人だった。純一が見てきたよりも、ひと回り小さな麦芽用の紙袋を両手に提げている。一見すると歳は六十代後半くらいに見えたが、足取りはしっかりして、ズッシリ重そうな薄茶色の袋を持つ腕力にも、不足はなさそうだった。紙袋をドサリと置くと、顔を上げて彼は訊いた。

「杉山君は元気だったかな?」

「あ、はぁ……。あの、失礼ですが、青海……忠彦さんで、よろしいでしょうか?」

「ワシか? ワシはただの世捨て人だよ」と、なぜか標準語のアクセントで話している。さっきのは、一体なんだったんだ? 純一にはこの老人が、ますます怪しく思えて仕方がなかった。

「それじゃ、青海さんじゃないんですね?」

「誰が違うと、いったね?」

「それじゃ、やっぱり青海さん」

「ワシは海野幽斉じゃ。そういうことにしといてくれんかの?」

「わ、わかりました」


「まぁとにかく、遠いところをよく来たの。掛けなさい。今なにか……」 ぶつぶつと独り言のようにつぶやきながら、老人は辺りを見回した。「で、なんの用だったかの?」

「え? あ、用といいますか……、あの、お願いがあって来たんですけど……」

「だから、なんの用かと訊いておる。杉山君がなにか話しておったが、最近忘れっぽくてな」

「すみません。ざっくりいいます」 純一は背筋を伸ばすと、伝説のビール職人を見つめて言った。「ロイヤル・セゾン・プレミアムを造ってほしいんです」

「ロイヤル・セゾン? そんな話だったか?」

「はい、そうです。サンライズで造っていたロイヤル・セゾン・プレミアムを、もう一度造って頂きたいんです……」


「断る」と、老人はにべもなく答えた。「ワシはもう、ビールは造らん」

 純一は思わず、ガラス戸の外を指さしていた。「ビールを造らんって、おもての看板に『麦酒道場』って書いてありますけど……」

「あ、あれか。あれはサケのビールではない」

「え? サケじゃないビールがあるんですか?」

「あるとも。ノンアルコールに低アルコール、麦芽から造ればどれも立派なビールじゃよ」

「でも、ビールは造らないんでしょう?」

「うむ」

「でも、ビールを造るんですよね?」と、しつこく外を指さす純一だった。

「あん?……やかましい。アルコールありのビールは造らんと、いっとるんじゃ。それに第一、ロイヤル・セゾン? ワシャその名前からして気に食わん。大仰で、カッコつけおって……」

「ええ? なぜですか? 良い名前だと思いますけど」

「バカも休み休み、いいなさい。〈プレミアム〉はともかく、〈セゾン〉は別のビアスタイルじゃないか。〈ロイヤル〉なんざおこがましいにも程がある。ワシはもっと飾らない名前で行けと、いったんじゃ」


 なんとか話を終わらせまいと、純一は食い下がった。「な、なんで、〈セゾン〉になっちゃったんですか?」

「タンクが空く冬の間だけ造る〈シーズンビール〉だからだそうじゃ。まったく、語感だけで適当に名前つけおって。あれは〈ベルジャンスタイル・ストロングエール〉というカテゴリーに入るビールなのじゃ。〈ベルジャン・アビィトリペル〉でもよい。それが、ロイヤル・セゾン・プレミアム? これではシロウト丸出しではないか。恥ずかしい……。とにかくだ、蕎麦ならいくらでも打ってやるが、ビールはやらん」


 いざ商品化の段で力が入りすぎて、その由来やビアスタイルにまで、思いが至らなかったのだろう。高級感や特別感を演出しようとして、企画サイドでということらしい。ぶつぶつ文句を言いながら、青海老人は冷蔵庫のドアを開けた。棚が取り払われた庫内には、直付けの簡易サーバーを取り付けた、五リットルの樽が置いてあった。彼はサーバーのレバーをカチリと押し込むと、冷蔵庫の上からグラスをとって何か注ぎ入れた。


「これがワシの造っているビールじゃ。飲んでみぃ」と言って、彼はグラスを純一に突きつけた。幾分ヘイズ気味の黄金色の液体が白い泡の下で揺れていた。

「い、いただきます……」 道場と呼ぶには余りにみすぼらしいの中で、怪しさ満点の老人がこしらえたビールもどきである。お腹に入れても大丈夫だろうか? 見ただけで、なんだか下っ腹がムズムズしてきた。だが、断るわけにはいかない――。お毒味役を拝命したばかりの若侍のように、純一は覚悟を決めて、恐る恐る、その怪しげな液体を口に含んでみた。

 口いっぱいに広がったのは、ゴールディング・ホップのフラワリーな香りだった。

「あれ?……」

 純一は意外な顔をした。何かの間違いかと、もうひと口飲んでみた。。ミディアム・ボディで苦味もしっかりしている。それでいて清涼感も申し分ない。やや軽めのイングリッシュ・IPAといった感じだった。その味はなぜかパンチに欠けていたが、純一にとってそれは、ビール以外のなにものでもない飲み物だった。思わず彼は訊いた。

「これって、コッソリ造ったんですか?」


 眉を上げて青海は言った。

「馬鹿をいうな。ワシャ密造はやらん。それはな、アルコール分でいえば0.5%、よう行っても0.7%を越えんように設計したものじゃ。酒税法でいうところの〈酒類〉には当たらんよ」

「い、1%を越えなければ良いんでしたよね」

「そうじゃ。どうしてもサケにしたければ、これ……」と言って、彼は棚の上から透明なボトルを一本取り出した。「火気厳禁・スピリタス。アルコール分96度のウォッカじゃ。そっちのビールと〈スピリタス〉を20対1で割ってやれば、大体5%位のビールになる」

「へぇ~、そういう方法もあったんですね」

「ここで混ぜて出荷すれば、酒類の製造になるから『アウト』じゃ。だが、消費者が自分で混ぜて飲む分には全然問題ない。バーテンダーが、カクテルのように混ぜて出してもOKじゃ……」


「アウト……ですか」と、純一はつぶやいた。『アウト』とはすなわち、法律違反という意味である。彼はボソっと「お酒造りの免許を取るのって、難しいと聞きました」と言った。

「まぁ、それはそうじゃのぅ」と、戸惑い気味に青海は同意した。「それでなくてもビール造りは装置産業だからな。酒税法が求める条件でやろうとすれば、余程の金持ちでもない限り難しい。ワシはな、むしろそのような法律のしばりからは離れて、自由にやりたいんじゃよ。役所にいちいちお伺いを立てなくてもいいようにするには、法律に触れない方法論を確立して、それを粛々とやることじゃ」 彼は、壁に掛けた額縁を指さした。「食品総合研究所で品質検査をしてもらった。アルコール分が0.5%台だろう? 原料から何から記帳はきっちりしているからな。いわゆるサケ造りをしていないことは、シロウトでもない限り、すぐにわかる」

「神経質になってるんですね」

「当然だろう。ここは出荷もするから尚更じゃ」と、その表情に緊張感を漂わせて青海は言った。「こと酒造りについていえば、この国は他の先進国とは違う。明治三十年代、日露戦争の時代からずっと原則禁止のまま、ここまで来たのじゃ。他の食品のようにはいかんよ……」


 と、その時だった。ふいに、食堂に通じる戸口の向こうで電話が鳴った。弾むような女将の声が聞こえてきた。

「あの電話は松川酒店だろう」と、一転満足げに青海は言った。「今ではワシのビールを扱ってくれるお店が、稲田の市内に増えてきた。アルコールが苦手な若い衆にも、喜ばれているそうじゃ。お陰なことだが、スピリタスもよく売れるらしい。酒屋も、まんざらでもないはずじゃ」

「すごい……。地場産業として、成立しちゃってるんですね……」

 ほがらかに笑って、老人は言った。

「そのうちに、ポーランドから表彰してもらえるかもしれんのぅ……」

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