第三章 海野幽斎麦酒道場
第48話 信州へ――
―― 僕はヘタレだ。
なんであのとき、舞衣を連れて帰らなかったのだろう。カプセルごとだって良かったじゃないか。ゆっくり話をすれば、彼女だって出てきてくれたかもしれない。そうすれば今頃……。いや、それでは地球が救われない。
……救われないって? なにを夢みたいなことを言ってるんだ? いや、夢じゃなかった。あのカプセルも、ゴキブリを大きくしたような宇宙船も、夢じゃないんだ。舞衣の話にしたって嘘じゃないし、彼女は
ベッドの上の純一は、首をよじらせて時計を探した。カーステレオのようにはめ込まれたデジタル時計の表示が、午前七時三分を示していた。
見慣れないカーテンのすき間から、灰色の光が漏れていた。思い出したように彼は、サイドテーブルの上のスマートフォンに手を伸ばした。起動させるとすぐに、舞衣と佳奈の笑顔が浮かび上がった。思わず彼は、眉をしかめた。何も手を打たなければ、自分も佳奈も死ぬことになる。しかし、理屈では分っていても、実感が湧かない。切迫した情動が湧き上がってこない。彼の心を支配していたのは、心の痛みすらも麻痺するほどの重苦しい諦めの感情だった。
まだ少し眠り足りない気がしたが、頭のどこか興奮していて、これ以上眠れそうもなかった。ふと見ると、舞衣のスマホは、バッテリーの残量が残り少なくなっていた。どこかで充電器を手に入れなければならない。彼は起き上がるでもなく、そのままスマホを、サイドテーブルに伏せて置いた。
サンライズ・ブルワリーを卒業した彼は、そのまままっすぐに、都内のアパートへ戻っていた。久しぶりの自宅を改めて見ると、昨夜までの社員寮と比べて、その外観は見た目も新しく今風に見えた。借りていた部屋は二階だったが、広さ五畳半という変則的な洋間で、狭い代わりに家賃もソコソコ安い。キッチンやユニットバスなども一通り揃っていて、建物自体も古くはない。しかし彼は、両隣の住人の、テレビ番組や音楽の趣味を熟知しているし、週末の夜半になると床下から聞こえてくる、あの怪しい声から安眠を守るための耳栓も持っている。雨露をしのげるという点では何の文句もないけれど、とてもではないが誰かお招きする気にはなれない、そんな住処だったのである。それを思うと、あのかび臭い寮が、妙に懐かしく思われて可笑しかった。
自室に入った彼は、耳を澄ませて両隣の不在を確認すると、会社と舞衣の両親のもとへ電話を入れた。長くなりそうなのを何とか切り上げた彼は、まずは銀行へ出向いて、定期預金を解約した。次に途中のGSで給油を済ませてから、アパートに戻って荷物をまとめた。そして、ひと抱えもあるスポーツバッグを肩から提げて、部屋を出た。
アパートの前に停めてあった車に、いつもと変わらない様子で彼は乗り込んだ。そして、シートベルトのタングをバックルにカチリと差し込み、エンジンをかけようと手を伸ばした。その時、彼の脳裏に、ドライブデートの日の朝の情景が、ふと蘇った。休日のお出かけはいつも、舞衣が借りる駐車場まで彼が電車で出向き、この車を運転して、彼女を家まで迎えに行くのが習いとなっていた。奨学金という名の学生ローンの返済に追われ、結婚資金の積み立てもあって車を持たない純一だったが、舞衣にしてみれば、ドライブデートの朝くらいは、彼に迎えに来てもらいたかったのである。だから彼がスペアキーを預かっていたのだが、行方不明のオーナーの車を乗り回すというのも、それはそれで誤解を招くリスクがあった。ビール職人を探すのはそれとして、途中、検問などで職質されないことを、彼は祈る思いだった。
中央自動車道を名古屋方面へ、純一はひらすら車を走らせた。幻のビール職人を求めて目指した先は、信州南部の街・稲田市だった。南信州を流れる天竜川沿いに、古くから栄えた城下町である。
インターチェンジを降りた彼を、ご当地自慢リンゴのモニュメントが彼を迎えてくれた。だが旅情を味わうゆとりなどあるはずもなく、営業車で訪れたビジネスマンそのままに、彼は一般国道へとハンドルを切った。脇目も振らずに走ってきたが、その頃すでに、街はすっかり夜のとばりが降りていた。
彼が投宿したのは、予約しておいた市内のビジネスホテルだった。街中に出かけることもあるかと、『丘の上』と呼ばれる旧市街に宿をとったのである。しかしこの日の彼は、酒も飲まず、テレビも見ず、そのまま泥のように眠りに落ちた。起きていられないほど、とても疲れていた。
鉛のような心に鞭を打ち、やっとの思いで起き出した彼は、まずシャワーを浴び、カミソリを当てて身なりを調えた。そして遅めのチェックアウトのあとホテルのロビーを出て、初めて訪れたこの街の空気を胸一杯に吸った。
――針葉樹の森と水の匂いがする――
それは都内の住宅街では味わえない、冷涼な空気だった。
杉山からもらったメモに目を落として、彼は大きく息を吐いた。
(オレに何ができるかって? 悩んでみたって、しょうがないんだよ)
とにかく今は、ロイヤル・セゾン・プレミアムをなんとかするしかない。自分に出来ることは、それだけなのだ。
「うえぇ……、げほっ、げほっ……」
深山を縫うように走る細い道の脇に、舞衣の車が止まっていた。その向こうに、ガードレールを両手で握りしめたまま、うつむいて苦しむ純一の姿があった。辺りは陽光も眩く、鳥の鳴き声と木の葉擦れの音も涼やかな、新緑の森の中だった。だが、無粋な闖入者のお陰で、せっかくの景色が台無しだった。
と、その時、一台の車が路肩に寄せて停車した。所々に錆の浮いた、ありふれた白の軽ワゴン車だった。開けたままだった助手席の窓越しに、ひとりの老人が声をかけた。
「どうした? 大丈夫かな?」
純一は振り向いて、軽く手を挙げた。
「気分が悪いのかぁ?」
「ええ。曲がり道ばかりで車に酔ってしまって……」
「めずらしいなむ、自分で運転していて酔うとは。戻したのなら、土か葉っぱをかけておきなぃよ。この道は観光客も大勢通るでな」
老人は地元の人らしく、独特の
「大丈夫。戻してないです」
「空きっ腹だと酔いやすいからなむ、この先に手打ちの
「あ、ありがとうございます……」
南信州・
南信地方の伊那谷から木曾谷へ抜けるその道は、
苦労の末に、なんとか目的地にたどり着いた純一だった。彼は道路脇の駐車場に車を止めると、ハンドルに額を押し当てて体調の回復を待った。高原のリゾートやスキー場へはよく出かけたが、これほどまでに曲がりくねった『街道』というのも、あまり記憶になかった。。旅人が
たまたま居合わせた電力会社の社員から、純一は蕎麦屋の場所を教えてもらった。街道から少し奥へ入った場所に、食堂があるという。『手打ち蕎麦』というならそこではないか、ということだった。
明治―大正時代を思わせる古風な民家がまばらに建つ中、アスファルト舗装の道を少し行った先に、『手打ち蕎麦』と墨書きされた小さな看板の立つ辻があった。車を止めて見ると、枝道の先は途中から舗装が途切れていて、
戸口の脇にかけられた墨書きの木札は、『支度中』だった。
その古風な建物は、屋根は墨のような
どうしたものかと迷っていた純一だったが、開店がまだなら、せめて話だけでもと意を決して、まだ新しい木枠の引き戸に手をかけた。
「こんにちわ……」
ガラガラと引き戸は開いたが、店に人の気配はない。おずおずと、彼は敷居をまたいで土間に入った。すると、燻された木の匂いが、真っ先に彼を出迎えてくれた。それは、いつもの都会暮らしではほとんど嗅ぐことのない、香ばしくもどこかすえた、懐かしい古家の匂いだった。思わず彼は、店の中を見回した。店内は柱も板壁も年季の入った焦げ茶色をしていたが、天井の太い梁はすすけて色も濃く、焦げ茶色というよりは真っ黒に近かった。リニューアルした古民家再生の店にはたまに立ち寄るが、ここまで昔そのままの雰囲気を残す古民家は初めてだった。おそらく、ある時期まで土間の奥に板の間があって、そこには囲炉裏があったのであろう。いつの頃か、上がり
珍しそうに辺りを見回していた彼だったが、思い出したように店の奥へ声をかけた。
「すみませ~ん、ごめんください……」
墨書きの
「すみませ~ん、どなたかいませんか~?」
最後と思い、純一はカウンター越しに声を掛けた。厨房の
「は~い」と声がした。ガラガラと引き戸の開く音がして、
「あら、すみませんねぇ、山菜の
「すみません」と詫びながら、純一は近くの椅子に腰を下ろした。
「うちのダンナが寝坊してね、今っ頃帰ってきたんですよ。お蕎麦の天ぷらにする山菜なんですけどね、取れたてじゃないと美味しくないもんで……」
「すみません。準備中なのに……」
「いいんですよ、のんびりやってますから……」
ポットからほうじ茶を湯飲みに注ぐと、店の
「お蕎麦とおでん、あとはご飯とお漬け物くらいしかないけど、なににします?」
壁の品書きを指さして、純一は言った。「その、〈山菜の天ぷらと盛り蕎麦〉って、お願いできますか?」
「まぁ! もちろんですよ。ちょっと待ってくださいね」 彼女は厨房に入ると、奥へ声をかけた。「アンタ、天ぷら入ったよ」
「ああ~~、そうか。わかったわかった」と、声がした。どこかで聞いた声だった。
「あれ?」 純一は顔を向けた。山菜を盛った竹ザルを手に厨房へ入ってきたのは、先ほど軽ワゴン車から声をかけた老人だった。思わず彼は、「あの、さっきはお世話になりました」と、声をかけていた。
白髪交じりの老人は、「おや、あんたか。気分は直ったか?」と、ほがらかに訊いた。
「はい。お陰様で、蕎麦も食べれそうです」
「あれ、お知り合いだったの?」と、女将が訊いた。
「はい。ここに来る途中、気分が悪くなって。でも、なにかお腹に入れれば楽になるからって、こちらのお店を教えてもらったんです」
老人の腕を、女将はパチンと叩いた。
「もう、この人は……。弱ってる人に商売っ気出して……」
「ありゃぁ……」
蕎麦は挽きぐるみの黒い蕎麦で、田舎風らしく太切りにしたものだった。天ぷらは、老人によれば、タラの芽は終わってしまったが、コゴミやウドならまだ採れるという。タケノコ、ヨモギ、カボチャなどのほか、親指ほどの大きさのアマゴの天ぷらも盛られていた。
香り豊かな蕎麦と天ぷらを残さず平らげて、最後に出された濃厚なそば湯をすすっていた純一だったが、思い切って彼は、用件を切り出すことにした。
「すみません。あの、実は、ある方を訪ねて来たんですけど、ご存じかなぁと思いまして……」
「この辺りですか?」と、女将が訊いた。
「はい。ここにいるって聞いてきたんですけど」
「この辺りなら、住んでる人少ないから、わかると思いますけど……。お名前は、わかる?」
「わかります」と、純一。思わず拳を握りしめて言った。「元ビール職人で、
一瞬、音が途切れた。
「青海さん? 青海さんねぇ……。アンタ……」と言って、女将は振り向いた。
「さて、そんな人がおったかなむ」と言いながら、老人は厨房を出て行った。
純一は落胆の色を隠せなかった。これほどの小さな集落でも知られていないとなると、杉山の情報が間違っていたか、それとも自分が訪れる場所を間違っていたか、どちらかしかなかった。
その時だった。女将がクスリと笑いを漏らした。
「すみません。あなた、藤沢さん?」
「え?……、あ、はい……」
「店を出て、右の奥へ行ってみてください。お代はいいから、早く……」
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