第4話 弔いのビール

 そのビールは、まず舞衣の前に出された。それが純一には気に入らなかった。運ばれてきたグラスをやぶにらみして、彼は「いらない」と言った。マスターは困った顔をして、「それなら私が頂きます」と言った。


 舞衣は気分を害したようだった。「ちょっと、なにスネてるのよ」

「スネてるじゃねえよ」と彼は言った。「なんだよさっきから。僕は二時間も待ってたんだぞ。それなのに、そっちとばっかりしゃべって。こっちは無視かよ」

「男のジェラシー、最低」と言いながら、舞衣はビールに口をつけた。「ふ~ん、美味しい……。ベルジャンのストロングエール? アビィトリペル? ……リンゴのような、フルーティな香り。勿論オフフレーバーじゃなくて、ふふ……。引き締まった苦味と、フルボディなんだけどドライな口当たり。年数がたっているのね……でも辛いだけじゃない、よく練れてる……。芳醇で奥深い味……」

 横から純一が突っ込んだ。

「なに言ってんだよ。『芳醇で奥深い味』? 説明になってないじゃん」

「どっかほかに行ってくれる?」と、不快感もあらわに舞衣は言った。「今夜は私、このビールと、とことん向き合いたいの。焼き餅焼きのとなりになんかいたら、ビールの香りがわからなくなる……」

 純一の脳内にも香ばしい香りが立ちこめた。舞衣のとなりでは、何やらジェームズがつぶやいている。

「ぶつぶつぶつ……ぶつぶつぶつ……」


「あのさ、舞衣。再来週の土日なんだけど……」と、やおら純一は切り出した。

「静かに」と、念を押すように舞衣。

「ぶつぶつぶつ……ぶつぶつぶつ……ぶつぶつぶつ……ぶ~つぶつぶつ……」 念仏のような声が聞こえてくる。

「聞いて。前から行きたがってた箱根。予約がとれそうなんだ……」

「そんな話、こんなとこでしないでよ」

「ぶつぶつぶつ、ぶ~つぶつぶつ……、ぐぴっ。ぷはっ……」

「そんなって…… 二日続けて休みとるだけでも苦労したんだよ。会社のケータイもスケジュール帳も全部預ける約束してさ……」

「泊まりはイヤって言ったじゃない。もう、その話はオシマイ!」

 純一は顔を上気させた。

「だから……」

「げふっ! ううむ……、ぶつぶつぶつ……ぶ~つぶつぶつ……、ぶつぶつぶつ……ぶつぶつぶつ……ぶっ……ぶっ……、おお、うおお……」 天を仰ぎ、今にも泣き出しそうなジェームズだった。


(この……クソ野郎! もう我慢がならん)


 おもむろに純一は立ち上がった。会計が済んでないことも忘れていた。ふらつく頭を戸口へ向けて、歩き出そうとしたその時、舞衣に話しかけられて、ばつの悪そうなジェームズの横顔が目に目に入った。彼の中で、なにかが切れた。

 ここはきっちり話をつけた方がいい。僕だって男だ。舞衣は僕の彼女なんだ――


 いきなり純一は、ジェームズのとなりの席に乗り込んだ。椅子に片膝をかけ、喧嘩っ早い若い衆のように、肩を怒らせて突っかかった。

「ちょっとアンタさ。悪いんだけど、その念仏みたいなの、やめてくんない?」

 ジェームズは、顔を向けた。「念仏?」

「そう、念仏! ここはそういう陰気な場所じゃないの! それから、となりの彼女に話しかけるのもやめてくれないかな」

 ジェームズは、少し驚いた風な顔をした。


 舞衣は慌てて身を乗り出した。辺りをはばかってか、声を絞って純一をたしなめた。

「ちょっとやめてよ。ほかの人に絡まないで!」

「舞衣は黙ってなよ。これはオレとコイツのことなんだからさ」と、思わず舞衣に合わせて、声を絞る純一。

 すると、ジェームズは意外にも、詫びの言葉を口にした。

「それは、すまないことをしたね」

 しかし純一には、詫びているようには見えなかった。男は無表情に見つめただけだった。


「カッコつけてんじゃないよ。お弔いだかナンだか知らないけどさ、ひとの彼女にちょっかい出して、どういうこと? 説明してくれる?」

「ちょっと、みっともないからやめて!」

「みっともないだって? 冗談じゃない。いいよ、オレがこれ、代わりに飲んでやるからさ。お弔いはこれで終わりにしなよ。それから、そっちの子とは金輪際、話をしないでくれよな」

 いきなり彼は目の前のグラスを鷲づかみにした。そして、ドスンと椅子に尻を落とすと、勢いよくビールをのどに流し込んだ。味なんてわからない。腹立たしいこともバツの悪さも、全部飲み込んでしまいたかった。


「あ~……なんてことを……」 マスターが顔を引きつらせた。

「ちょっと……」 言葉を失って、舞衣は見つめた。

 まだビールの残るグラスを、ちょっと乱暴に回しながら純一は言った。

「これで『お相子あいこ』だろ?」

 彼は気分が良さそうだった。怪しげなセレモニーをぶちこわしにしてやったからだ。

「純一さん、そのビールは特別な一杯なんですよ」と、マスター。「ジェームズさんが、亡くなったお友達のために今日……」

「関係ないね。友達のお弔いならひとの彼女口説いていいわけ?」

「そんなことは言ってませんよ」

「だったらマスター、僕が一杯おごってやるからさ。注いで注いで、早く……」

「無理ですよ。もう終わりです。ないんです!」 マスターは空のボトルを振って見せた。

「品切れ? だったら取り寄せてよ。酒屋さんに電話すれば来るでしょ?」


 一本五万円したことを、彼はすっかり忘れていた。訴えるようにマスターは言った。

「無理です。第一、このビールは今造られていないから、手に入らないんですよ」

「それは残念!」と、純一は言い放った。そしてクルリと椅子を回した。

 颯爽と立ち去るつもりだった。しかし彼は、勢い余って椅子から滑り落ちそうになった。手にグラスを持ったままだった。置いて帰れば良さそうなものだが、酔っ払いに理屈は通じない。結局彼は、バランスを崩して椅子からズリ落ちた。グラスが大きく振られ、残っていたビールがまき散らされた。あろうことかそれは、無情にもジェームズの顔と、フランネルのジャケットにかかった。


「たいへん……」 舞衣は慌てて立ち上がった。「マスター、おしぼりをちょうだい!」

「はいはい! ジェームズさんも、おしぼり……」 マスターは慌てて、舞衣とジェームズにおしぼりを手渡した。


 無表情のまま、ジェームズは真っ白なおしぼりで顔の汚れを拭い取った。と、突然彼は、ディスペンス・タワーの向こうに声をかけた。

「マスター、デュベルを三本くれ」 

「デュベル? ベルジャンの?」

「そうだ。三本出してくれ」

 それはあたかも、ガンショップで銃弾を注文する帰還兵のようだった。デュベルとは、アルコール分9%を超えるベルギーのストロング・エール(ビール)である。 


「ダメですよ。一本にして下さい」と、目力を込めてマスターは言った。

「それと、ジョッキをくれ。マースクルークだ」(Mass Krug :1リットルのジョッキ)

「それはおきて破りですよ……」

「掟うんぬんならコイツに言ってやれ。客の頼みを聞けないのか?」

「ダメです。ベルギービールは、それぞれ専用のグラスで出さなきゃいけないことになってるんです」

「カネなら倍払う。早くしてくれ」

「お金の問題ではありません。ダメです」

「それなら三倍出そう。これ以上はないぞ」

「三倍ですか?」 と、マスターは真顔で訊いた。一瞬の思案の後、彼は言った。「そこまでおっしゃるなら……」

 純一は焦った。

「マ、マスター……」

 にわかに顔を引き締めると、店の主人はかしこまって言った。

「その心意気、承りました……。少々お待ちを……」


 ドイツ製の1リットルジョッキに自ら注いだビールを、ジェームズはぐいぐいと飲み干した。その様子はまるで、砂漠から今戻ったばかりの探検家だった。

「謝りなさい!」

 舞衣に叱られて小さくなっていた純一だったが、ジェームズの豪快な飲みっぷりに表情をこわばらせた。店の中に、張り詰めた空気がみなぎった。

「詫びる必要はない……」

 どすんとジョッキを置いて、彼は言った。

「このビールはいつ飲んでもうまいな。素晴らしい……」

「そ、そうでしょ? そうですよね」と、マスター。一気に飲み干すとは、本当に思っていなかった。

 にこやかに純一を見つめて、異邦人の男は言った。

「ジュンイチ、表に出ろ」


 笑みが消えていた。とたんに、辺りの空気が凍りついた。

「ジェームズさん、お願いしますよ……」

 マスターの懇願も空しく、椅子から立ち上がってジェームズは言った。

「いいんだ、マスター。騒がせたことは申し訳なく思っている。みんな、楽しい夜を続けてくれたまえ」

 ネクタイを締めた純一の後ろ襟を、彼はいきなりつかみ上げた。体が浮きそうなほど強い力だった。

「放せよ!」尻が椅子から離れた。シャツの襟に指をかけて、苦しそうに身をよじる純一。こうなっては彼も、為すすべがない。その様子はまるで、悪戯をしてつるし上げられた子犬だった。


「やばい、目が据わってる……」 マスターがつぶやいた。

 慌てて舞衣が言った。「やめて下さい、ジェームズさん。ごめんなさい。このひと酔ってるんです。私から謝ります」

「こいつと相談があるんだ。マイ、君も来てくれないか?」と、ジェームズ。

「いけませんよ、ジェームズさん」と、マスター。「相談ならここでできるでしょう?」

「ここではできない。マイ、君も一緒に来てくれたまえ」

 ジェームズは純一をカウンター席から引きずり出すと、脱走兵を連行する憲兵のように、彼をぐいぐい押しながらトイレのある廊下へ向かった。

 テーブル席の男が、「ミスター・ジェームズ、そっちは外じゃないよ」と、冷やかし半分に言った。

 ジェームズは、「OK、わかっている……」と、誰にともなくつぶやいた。

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