第3話 ジェームズという男

―― 舞衣によると、その男は彼女がこの店に通うようになる前からの客だという。外国人風の男とよく飲みに来ていたが、ここしばらくは誰と待ち合わせる訳でもなく、女と来ることもない。カウンターのいつも決まった席で、数杯のビールを黙って飲み、普段は静かだが酔うと急におしゃべりになった。はじめの頃、マスターが名前を聞こうとしたけれど、流ちょうな日本語で「なんという名前だと思うかね?」と訊くばかりで、笑って答えようとしない。そんなとき、となりにいた酔っ払いが茶化して言った。

「オマエ、地球を調査に来たジェームズだろう」

 もちろん、超有名俳優の名前と取り違えている。だが、彼は笑って「そうだ」と答えた。それから彼は、ジェームズと呼ばれるようになったという(なんだかなぁ……)――



 カウンターの仕切りに置かれた小さなアクリルスタンドを、男は壁際に追いやった。そして、左手に持った灰色の紙包みをマスターの前にゴトリと置いた。

「マスター、頼まれていたものだ」

 その包みは三角形に膨らんでいて、拳銃が入っていても不思議のない形をしていた。

「お、できましたか。どうもありがとうございます」と言って、マスターは包みを受け取った。彼は養生テープを剥がして包み紙を開けると、中のものを取り出した。

「なに? それ」と、身を乗り出して舞衣が訊いた。

「ガス・リリースヘッドですよ」とマスターは答え、金属の光沢を放つそれを自慢げに見せた。「樽の中の圧力を抜くための器具です」


 それは、ビール樽の口金に取り付けてビールを汲み出す〈ディスペンスヘッド〉と呼ばれる器具によく似ていた。円筒形の本体ボディの先端に、樽の口金にフィットする接合金具があって、その反対側の末端(石附)にはアナログ式の圧力計が埋め込まれている。本体ボディを挟み込む梃子てこの先に握りレバーが着いていて、その反対側からは小さなバルブ越しに透明なビニルチューブが伸びていた。だが、ディスペンスヘッドには必ずある、ビールを汲み出すチューブがなかった。


「圧力を抜くの? なんで?」と、舞衣が訊いた。

「それは……ですね」マスターは、ひとつ咳払いをして言った。「ご存じの通り、樽生の場合、炭酸ガスで樽に圧力をかけますね。樽は密閉みっぺい容器なので、ガスの圧力で、ビールが押し出されてくるというわけです。それはいいんですけれど、このガスは、ビールを押し出すだけじゃなくて、ビールに溶け込むこともあるんです」

「溶け込むの?」と、不思議そうに舞衣。「つまり、元のビールよりも、溶存量ようぞんりょうが上がっちゃうんだ」

「はい。勿論、ビールの泡は元々炭酸ガスですし、押し出すガスも食添しょくてん(食品添加物)なので問題ありません。ただそれも、一日二日のうちに売り切ってしまうんならいいんです。けれど、サーバーに合わせてガスの圧力を上げるとか、売り切るまでに何日もかかるとか、そうなった時にですね、樽の空きスペースの炭酸ガスが、残ったビールに、過剰に溶け込んでしまうことがあるんです。そうなると、ビールを注ぐとき、フキの原因になってしまうんですよ」

「泡だらけになっちゃうんだ。それで抜いてあげるのね……」


「ええ。営業が終わったあと樽の内圧を一定のところまで下げてやると、溶け込みが少ないんです。……あとは、このところ増えたPET樽の圧抜きとか。リサイクルに出すのに、中の圧力が高いままではダメなんです。その他にも、炭酸ガスの溶け込みが多いビールのガス抜きにも使えます。――つまり、樽ビールを最適な状態に保つツールというわけですね」

「ふ~ん。そういう専用工具が、なかったということなのね……」

「まぁ、私の知る限りでは……。これまでは普通のディスペンスヘッドを流用してたんですけど、それを見て、圧力計の付いた専用ツールを作ってくださったんですよ」


「防水だ。そのまま水洗いできる」と、男はぶっきらぼうに言った。「内圧を抜きすぎないよう、一定圧力で放出を止めるオートストップを付けた。不具合があれば、いって欲しい」

「不具合なんてとんでもない。大切に使わせてもらいます」と、拝むようにマスター。

「すご~い……」とつぶやきながら、マスターが手に持つ器具を舞衣は見つめた。さすがバリバリのリケジョである。食いつくところがひと味違う。

「どうでもいいよ……」 経済学部という、文系の中でもそれほど実用的でない学部卒の純一としては、その男を横目で睨んでぼやくしかなかった。 


「そうそう、マスター、今日のオススメは?」と、舞衣が訊いた。

「そうですね……」 黒板のような壁のメニューボードにマスターは目をやった。「今日のお奨めとしては、ヘルビアーの『デスメタル・IPA』か、『ハードボイルド・ドライスタウト』……。あとはサンライズ・ガーデンの『ラズベリーエール』辺りでしょうか……」

「なんかイマイチね……」

 舞衣は小首を傾げた。その時、となりでジェームズが訊いた。

「マスター、例のビールはあるかね?」

 マスターは振り向いて、「ええ。ちゃんとキープしてありますよ」と答えた。

 微笑を浮かべてジェームズは言った。「マイ、マスターが、特別の日のために用意してくれたビールがある。もしよかったら、共に味わってもらえないか?」

「もしかして、あのビール? もちろん!」


 となりの席のコースターを指さして、ジェームズは言った。「マスター、例のビールを頼みたい。かけがえのない友人のために……」

 舞衣は振り向いて、純一にささやいた。「今日は、ジェームズのお友達の命日、一周忌なの。ビール好きだったお友達のために、彼が大好きだったビールを、マスターに探してもらったのよ」

「そう……」

「それがね、ものすごく貴重なビールなの。マスターがお酒のオークションで見つけたんだけど、いくらしたと思う?」

「知らねえよ」

「一本なんと五万円」 舞衣はなぜか自慢げだった。


 それは、ずんぐりとした黄土色のボトルだった。丈はそれなりだが、太さは一升瓶ほどもある。奥の厨房から現れたマスターは、もはやビンとは呼べないようなその入れ物を、宝物でも運ぶように両手にいだいていた。

 マットな黒地のラベルには、大航海時代の海図に描かれているような太陽のマークがにぶく金色に光っていた。光を通さない陶器製のビンで、1リットルサイズのものだった。


「これですよ、ジェームズさん。サンライズ・ガーデンの――〈ボトル・コンディショニング/ロイヤル・セゾン・プレミアム〉――。伝説のビール職人・青海忠彦おうみただひこが、最後に手がけた幻の逸品です」

「樽は見つけられないか?」と、ジェームズは訊いた。

「ええ。もう残ってないそうです。去年までなら入荷してたんですけどね」 独り言のようにつぶやきながら、スイング・キャップを締め上げたロックワイヤーを、マスターは指で回して緩めにかかった。

 ふいに、純一がささやいた。

「ねえ、舞衣。あのさあ、休みの話なんだけど……」

「シッ!」と遮って、舞衣はマスターを指さした。

 純一はむっとなって顔を上げた。なんのためにここに来ていると思ってるんだ。しかし彼は、やり場のないため息を漏らすしかなかった。


 彼の目に、それは儀式のように映った。アロマ・グラスと呼ばれるふっくらとした足つきグラスを二つ、マスターは並べて置いた。そして、ワイングラスにも似たグラスのそれぞれに、うやうやしくビールを注ぎ入れた。落差をつけて泡立つように――

 透明度は高いものの、やや暗めの黄金色。色つきというよりは、濃厚だから色が濃いといった感じのビールだった。うっとりとした目で舞衣はグラスを見つめた。そして、ジェームズに何か話しかけた。打ち解けた会話が純一の耳にも届いていた。しかし何を話しているのか、彼の耳には聞こえていなかった。


 泡が落ち着くのを待つ間、マスターは小皿を並べてお通しの支度をした。再びボトルを手にした彼は、今度はグラスの内側に、滑るようにビールを注ぎ入れた。そして、三分の一ほどになったところで、傾けていたボトルをゆっくり戻した。至福の黄金色が揺れるふたつのグラスを、彼はジェームズの前と、その隣、壁際の席に置かれたコースターに、静かに置いた。

「どうぞ……」

 置かれたグラスの向こうに、ジェームズは小さなフォトケースを立てて置いた。そして、「ありがとう」と言ってグラスを手に取り、軽く捧げてからまぶたを閉じた。ゆっくりと目を見開き、そして、グラスに口をつけた。


「地上にあるものは、何でも試したがった……」と、懐かしそうに彼はつぶやいた。「マスター、このビールは素晴らしいね。君にも、そして、マイと、となりの彼、ジュンイチにも味わってもらいたい」

 過剰なまでにうやうやしく、マスターは応えて言った。

「かしこまりました――」

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