第3話 ジェームズという男
―― 舞衣によると、その男は彼女がこの店に通うようになる前からの客だという。外国人風の男とよく飲みに来ていたが、ここしばらくは誰と待ち合わせる訳でもなく、女と来ることもない。カウンターのいつも決まった席で、数杯のビールを黙って飲み、普段は静かだが酔うと急におしゃべりになった。はじめの頃、マスターが名前を聞こうとしたけれど、流ちょうな日本語で「なんという名前だと思うかね?」と訊くばかりで、笑って答えようとしない。そんなとき、となりにいた酔っ払いが茶化して言った。
「オマエ、地球を調査に来たジェームズだろう」
もちろん、超有名俳優の名前と取り違えている。だが、彼は笑って「そうだ」と答えた。それから彼は、ジェームズと呼ばれるようになったという(なんだかなぁ……)――
「マスター、今日のオススメは?」と、舞衣が訊いた。
「そうですね……」 黒板のような壁のメニューボードにマスターは目をやった。「今日のお奨めとしては、ヘルビアーの『デスメタル・IPA』か、『ハードボイルド・ドライスタウト』……。あとはサンライズガーデンの『ラズベリーエール』辺りでしょうか……」
「なんかイマイチね……」
舞衣は小首を傾げた。その時、となりでジェームズが訊いた。
「マスター、例のビールはあるかね?」
マスターは振り向いて、「ええ。ちゃんとキープしてありますよ」と答えた。
微笑を浮かべてジェームズは言った。「マイ、マスターが、特別の日のために用意してくれたビールがある。もしよかったら、共に味わってもらえないか?」
「もしかして、あのビール? もちろん!」
となりの席のコースターを指さして、ジェームズは言った。「マスター、例のビールを頼みたい。かけがえのない友人のために……」
舞衣は振り向いて、純一にささやいた。「今日は、ジェームズのお友達の命日、一周忌なの。ビール好きだったお友達のために、彼が大好きだったビールを、マスターに探してもらったのよ」
「そう……」
「それがね、ものすごく貴重なビールなの。マスターがお酒のオークションで見つけたんだけど、いくらしたと思う?」
「知らねえよ」
「一本なんと五万円」 彼女はなぜか、自慢気だった。
それは、ずんぐりとした黄土色のボトルだった。丈はそれなりだが、太さは一升瓶ほどもある。奥の厨房から現れたマスターは、もはやビンとは呼べないようなその入れ物を、宝物でも運ぶように両手に
マットな黒地のラベルには、大航海時代の海図に描かれているような太陽のマークがにぶく金色に光っていた。光を通さない陶器製のビンで、1リットルサイズのものだった。
「これですよ、ジェームズさん。サンライズガーデンの〈ボトル・コンディショニング/ロイヤル・セゾン・プレミアム〉――。伝説のビール職人・
「樽は見つけられないか?」と、ジェームズは訊いた。
「ええ。もう残ってないそうです。去年までなら入荷してたんですけどね」 独り言のようにつぶやきながら、スイング・キャップを締め上げたロックワイヤーを、マスターは指で回して緩めにかかった。
ふいに、純一がささやいた。
「ねえ、舞衣。あのさあ、休みの話なんだけど……」
「シッ!」と遮って、舞衣はマスターを指さした。
純一はむっとなって顔を上げた。なんのためにここに来ていると思ってるんだ。しかし彼は、やり場のないため息を漏らすしかなかった。
彼の目に、それは儀式のように映った。アロマ・グラスと呼ばれるふっくらとした足つきグラスを二つ、マスターは並べて置いた。そして、ワイングラスにも似たグラスのそれぞれに、うやうやしくビールを注ぎ入れた。落差をつけて泡立つように――
透明度は高いものの、やや暗めの黄金色。色つきというよりは、濃厚だから色が濃いといった感じのビールだった。うっとりとした目で舞衣はグラスを見つめた。そして、ジェームズに何か話しかけた。打ち解けた会話が純一の耳にも届いていた。しかし何を話しているのか、彼の耳には聞こえていなかった。
泡が落ち着くのを待つ間、ジェームズは小さなフォトケースを立てて置き、マスターは小皿を並べてお通しの支度をした。再びボトルを手にしたマスターは、今度はグラスの内側をなぞるように、ビールを注ぎ入れた。そして三分の一ほどになったところで、傾けていたボトルをゆっくり戻した。至福の黄金色が揺れるふたつのグラスを、彼はジェームズの前と、その隣、壁際の席に置かれたコースターの上に、静かに置いた。
「どうぞ……」
「ありがとう」と言って、ジェームズはグラスを手に取り、軽く捧げてからまぶたを閉じた。そしてゆっくりと目を見開き、グラスに口をつけた。
「好奇心も旺盛だが、思い入れも人一倍だった。地上にあるものは、何でも試したがったが……」と、懐かしそうにジェームズ。マスターを見つめて言った。「このビールは素晴らしいね、マスター。君にも、そしてマイと、となりの彼、ジュンイチにも味わってもらいたい」
過剰なまでにうやうやしく、マスターは応えて言った。
「かしこまりました――」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます