第2話 遅れてきた彼女
――この店だけれど、インテリアは、南ヨーロッパのバルやタベルナを模したそう。横板貼りの壁の下には白っぽい色の素焼きのレンガが積んであって、自然石の尖った形そのままの石板が、床を埋め尽くしていた。アンティークなテーブルや椅子のほか、壁にはブロンズ製のガス燈風ランプや、出窓には古風な小物が散りばめられていて、とてもオシャレな店だと正直思う。アーケードを架けた下町の商店街には、どこか不似合いなこの店だけど、舞衣は
それはいいんだけれど、この店の名前を聞いたとき、僕ははじめ、何かの冗談かと思った。『クラフトビア・バルス』? スペインで酒場を意味する『バル』から来ているみたいだけど、本当かどうかは、聞いてないのでわからない……。
そうそう、舞衣だけれど、彼女とは会社のプロジェクトで一緒に仕事をしたことがある、そんな程度の知り合いだった。と、いっても、アイツはスポーツに例えるならスタープレイヤー。僕は端っこで走り回っている雑用係みたいなもの。入社年次では僕の方が先輩だけれど、どう考えてもお姫様と家来みたいな感じ。もう少しフランクでもいいかな?と思っていたけれど、みんながみんな、そんな雰囲気だったから、僕も周りの空気に合わせていたわけで……。
そんな中、転機が訪れた。あれは去年の四月のこと。新年度に入ったばかりのある日、僕は営業部の先輩に呼び出されたんだ。僕を呼んだのは夫婦共働きの女性主任だったけれど、お局様のような怖い人ではなくて、僕にとっては気安い先輩だ。その彼女が、営業部の女子会でイベントに出かけるから、付き合ってほしいといってきた。こういう場合というのは、たいてい荷物持ちのリクルートである。けれど、僕は決して嫌いではない。男同士の付き合いでは遭遇することのない世界に触れることもできるし、営業で会話のネタにもなる。もちろん、ハズレもあるけれど。
イベント会場は渋谷ヒカリエの九階だった。土曜日の午前11時45分。エスカレーターを降りたすぐ脇に、待ち合わせの集合場所はあった。ところが、いつもよりおしゃれをした女子社員に混じって、なぜかそこに舞衣がいた。
イベントは、国内各地で造られた『クラフトビール』のテイスティング・パーティだった。ビール代込みの入場予約券を事前に購入しておけば、ワイングラスよりもはるかに大きな〈テイスティング・グラス〉が入口でもらえる。この足つきのグラスの底近くには50ミリリットルを示す線がデザインされていて、ビールメーカーのブースに行ってここまでビールを注いでもらう。五十ミリでは少ないように思えるけれど、広々とした会場には、数十社、何百ものビールが集まっている。つまり、二十銘柄飲んだだけで、一リットルということになる。全て味わい尽くしたければ、五十ミリでも多いくらいなのだ。
クラフトビールと聞いて、初めは「クセが強そう」と思っていた僕だけれど、ふた口三口ですぐに慣れた。美味いかどうかは分らないけれど、苦にはならなかった。それに、不思議なことに、酔い心地が軽くていい。そんな感想を彼女に話したら、『ビールの原料の麦芽には、もともとビタミンやナイアシンが多く含まれている。しかも、クラフトビールの多くはオールモルトだからでは?』と、解説をしてくれた。
女子会のメンバーは、今や絶滅危惧種とされる〈飲み会大好き女子〉ばかりだったが、舞衣も負けず劣らず飲みっぷりが良かった。それだけでなく、味や香りの特徴を、体系的に、かつ分析的に説明してくれる。そんなところは〈リケジョ〉の真骨頂だと思ったけれど、結局のところ、彼女の話していることは、僕にはほとんどチンプンカンプンだった。
今度はこのビール、次はあっちのビールと、会場の中を引っぱり回されているうちに、僕は舞衣とふたりきりになった。今にして思えば、こういうシナリオだったのかもしれない。全てのメーカーブースは、一日では回りきれないということで、結局僕は翌日も誘われた。断る理由なんて、ないに決まってる。それまで燻り続けていた僕のエンジンが、いきなり『スロットル全開!』になったのは、言うまでもない――
入り口のドアが開き、吊り下げられたカウベルがカラカランと鳴った。ファッショナブルな服装のグループ客が、ガヤガヤ話しながら店になだれ込んだ。純一はカウンターから振り向き、グループの中に舞衣の姿を探してみた。しかし彼女の姿はなく、時折見かける常連客ばかりだった。
この店の月曜の夜は、なぜかいつも空いている。だから、純一と舞衣の恒例の飲み会は、いつも月曜日と決まっていた。日曜出勤して雑務を片付けるのはそのためだったが、この夜は、いつもとは少しばかり様子が違った。六つあるテーブル席も、放物線のような緩い湾曲を見せる長いカウンターも、席は客でほぼ埋まっていた。
純一は焦りを感じていた。彼の隣のカウンター席には、
彼は携帯電話を取りだして、舞衣にかけてみた。マナー違反になるから、普段は店の中で使うことはない。しかしそうも言っていられなかった。彼女が電話に出たら、外に出て話せばいい。だが、電話からの答えは無情だった。――電源が入っていないか電波の届かない所にいる―― 仕事柄か、彼女のスマートフォンは、SNSもひっくるめてこんな状態のことが多かった。純一は電話機をポケットにしまうと、もう一杯頼もうかどうしようか、思いを巡らせた。なにも頼まないまま席を占めるのも、悪い気がしたからだった。
再びドアのベルが鳴った。純一は、今度は振り向きもしなかった。そんな彼の肩を、ポンと叩く者があった。振り向くと、ひとりの女が立っていた。舞衣だった。
「お待たせ」と言って、彼女は小首を傾げて見せた。春を思わせる淡い桜色のセーターにジーンズ姿、レザーのトートバッグを肩から提げている。その肩まで伸びるつややかな黒髪がさらりと揺れた。ややぽっちゃりな顔立ちで、控えめなメーク。ワインレッドの丸っこいフレームのメガネをかけているせいか、卒業間近の大学生のようにも見えた。そのレンズの奥で、彼女は申し訳なさそうに目を細めた。
「おっせーよ」 純一は毒づいた。子供じみた言い方だったが、駄々をこねたい気分が勝ってしまった。
「ゴメン。アップデートでトラブっちゃって……。ここ、私の席?」
「もちろん。どうぞ、おかけ下さい……」
突っ張りが続いたためしがない。いくらか
「今そこで、ジェームズと会ったの。ちょっと立ち話してたら……」
「なお一層遅くなった……って、なに話してたの」
「なにって、今度ゆっくり話すけど、なにか、スカウトの話みたい」
「スカウト? 舞衣を?」 ただ事ではない。純一はむくっと体を起こした。
「うん。もちろんお仕事よ。まだ詳しく聞いてないけど、SEじゃなくて広報のお仕事みたい。スポークスマンだって。私の柄じゃないからお断りするつもり」
何か言いたげに、彼は口をとがらせた。それを遮るかのように、舞衣は言った。「マスター、私にも一杯ちょうだい」
「なにになさいますか?」と、マスターは訊いた。
「なにって……ちょっと純ちゃん、頼んでないの?」
「もう、さんざん飲みました」 純一はため息をついた。
「まだ四杯ですよ」とマスター。
まぶたをトロンとさせて、純一は言った。
「たった
テンションの上がらない純一に呆れたと見えて、舞衣はマスターと話し始めた。どんな会話かなんて、聞こえてはいない。――面白くない―― 話の腰を折ってやろうと純一は顔を向けた。すると、彼女の向こう側で席に着く、ひとりの男の姿が目に入った。
その男は金髪碧眼の四十代くらいの白人だったが、見た目以上に顔の細かなしわが目立っていた。淡色のピンストライプが入った焦げ茶色のジャケットと、帆布のような生成りのシャツを着て、ダークブラウンの無地のネクタイを締めている。純一とは余り話すこともないが、舞衣とは以前からの知り合いのようだった。ジョージ・クルーニー似のハンサムな上に、舞衣をスカウトしようとしているという。純一としては、心穏やかなはずもなかった。
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