スターシップ・ドランカーズ(上)

笹野 高行

邂逅の彼方より 第一章 来訪者たち

第1話 ビアバルにて

「お客さん、純一さん。カウンターで寝ちゃダメですよ」


 むっくりと純一は顔を上げた。なめし革のシボ模様のようなエッチング銅板が、ボンヤリ視界一杯に広がっている。それは、バーカウンターの天板だった。さらに顔を上げると、ゴツゴツした金色の柱のようなものが目に入った。ヨーロッパの古城の写真で見かけるタワーにも似た、金属製の生ビール用ディスペンサーだった。高さは50センチくらいだろうか。30センチ間隔くらいで4本ずつ、それが3セットで計12本、カウンターに沿ってずらりと並んでいる。


 酔っ払いを寄せ付けない防護柵のようなそのすき間に、純一は目をこらした。髪をオールバックになでつけ、口ひげを蓄えた店の主が、にこやかに彼を見つめていた。その姿はビアマスターと言うよりはバーテンダーで、白のドレスシャツの上に黒のベストを着て、濃紺のネクタイをキリリと締めていた。

 

 ふと彼は、コースターの上の携帯電話に目を留めた。今どきあまり見かけない二つ折りのフィーチャーフォン(ガラケー)だった。『飲み物のお代わりはちょっと待って……』の意で置いたのだが、その表面で青のLEDが点滅している。メールの着信を知らせるサインだった。

「舞衣?」

 彼は携帯電話を開いた。中に現れたのは、短いメッセージと、ピースサインをする可愛らしい少女の画像だった。

『おじちゃんへ。誕生日のプレゼントありがとう。佳奈かなうれしかったよ。いつか、おじちゃんのお嫁さんになってあげるね』と書かれてある。佳奈は小学六年生で、少し歳の離れた姉の娘だった。弟がひとりいる二人姉弟きょうだいの長女で、都内に住んでいたこともあって、小さい頃から何かと遊び相手になってきた。『お嫁さん――』というのは無邪気な好意の表明で、何年か前までは父親にも同じことを言っていたらしい。微苦笑して、純一は携帯電話をパタンと閉じた。

 

「舞衣のヤツ……」 ぼそっとつぶやいて、彼は腕時計に目をやった。待ち合わせの時間からは、すでに二時間が過ぎていた。

「舞衣さん、今日はお忙しいんですね」と、マスターが言った。

 ひと仕事終えたとばかり素っ気ない表情に戻った彼は、ステンレスの水切り板の上に伏せて置かれた足つきグラスの足に右手指を引っかけた。すくい上げるようにグラスを手にすると、くるりと回してふちを上に向ける。そして、金色の塔の上に備えられた〈タップ〉の下に、ピタリとグラスの位置を合わせた。

 


 ビールのこだわり

 

―― 鹿の横顔。なんとなくそんなシルエットの〈タップ〉だけど、鹿のつのに当たる部分がレバーになっていて、こいつを手前に倒すと口からビールがほとばしり出る。向こうに押し込めば、泡が絞り出される仕掛けになっている。要するに〈蛇口じゃぐち〉に違いないのだけれど、普通はステンレス製の箱か冷蔵庫に、この〈蛇口〉が付いていて、そこからジョッキにビールをなみなみ注いで持ってくる。しかし、この店のタップは、金色のキラキラ・タワーの上にくっついている。それだけでも贅沢ぜいたくな気がするけれど、それだけじゃないんだと……。


 おしゃれなディスペンス・タワーを立てる場合、普通はカウンターの下にデスク型冷蔵庫コールドテーブルを置いて、その中に入れた樽から上のタップにビールのチューブをつなぐものなんだとか。ところがこの店には、人が入れるほどの大きな冷蔵庫がうしろにある。ビールの樽は、予備も含めて全部そこに収まっていて、そこから床下を通したチューブを通って、塔の上のタップまでビールが流れるという。


 使い勝手は良さそうだけれど、そのストック用冷蔵庫からカウンターのタップまでは距離が長い。だから、そのままだと途中でビールが温まってしまう。けど、そこからがすごい。冷水が循環じゅんかんする太いホースの中を生ビールのチューブが通る、〈サークルシステム〉とかいう装置があるという。それが床下を通ってカウンターの下まで来ている……とかなんとか言ってたけど、とにかく金がかかっている。


 まぁ、それは自由だ。別にきん鉄塔てっとうまで立てることないじゃないかと思うけど、何かにつけ、ここではこだわりが大事らしい。

 そのこだわりは、店のメニューにも現れているんだとか。この店ははじめ、『クラフトビール専門』をコンセプトにスタートしたんだと。そのあとベルギーやイギリスの伝統的なビールも置くようになったけれど、今も零細なビール醸造所(ブルワリー)を基本に、色んな種類のビールを取りそろえているという。


 そもそも『クラフトビール』とは、大手ビールメーカー以外の小さな地ビール会社が造るビールのことなんだそう。大手メーカーは、規格きかく大量生産といって、とにかく大きな設備で大量に生産する。と、どうしてもビールの種類が限られてしまう。ところが、ひと言でビールと言っても、その種類は世界に百を超えるほど、銘柄に至っては数え切れないくらいあるんだとか。それぞれの個性も際立きわだっていて、それが面白いということらしい。だけど、個性的なビールだからといって、大量に売れるものでもないそうだ。それをうっかり大規模な設備で造って、大量に売れ残ってしまっても困るわけ。そこで地ビールのような小さな工場の出番、となるらしい。マスターはこの店を、そんな各地の個性派ビールを集めた〈クラフトビールの殿堂でんどう〉にしたいということだ。


 そんな感じだから、ソフトドリンクはあるけれど、飲み慣れた大手のビールもなければチューハイもない、ジンもウイスキーも置いてない。こだわりはよくわかるんだけど、ビールばかりだと、酔っ払う前にお腹がいっぱいになってしまう。だから、いつもより酔いたい夜は、ちょっと切ないかも…… 

 ともかく舞衣は、マスターのそういうへそ曲がりな所がお気に入りらしい。オレは、別にどうでもかまわない――


 

 マスターがタップのレバーをポンと手前に倒すと、勢いよくビールがグラスの底に滑り込んだ。ぼんやりした物思いからハッとめて、純一は思わず言い訳を口にした。

「ゴメン、マスター。昨日も遅くて、睡眠不足なんだ。飲み過ぎってわけじゃないよ」

 冬眠明けのサンショウウオのように、彼は頭を揺すった。

「日曜出勤ですか。お忙しそうですね」と、気のない風にマスターは言った。さっきの話の続きだった。話が長くなりそうだと、彼はフラッといなくなってしまうのだ。

「うん、なんだか……。このご時世なのに残業代も出ない。うち、隠れブラック企業なんスよ。働き方改革カンケーなし。テレワーク何するものぞ。帰りのタイムカードなんて、押した記憶が無い……」

 スタイリッシュなIT企業は見かけだけ。体力勝負の営業課。もちろん、仕事はそれから佳境に入るのだった。

「舞衣さんもそうなんですか?」と言いながら、マスターはビールをぎ足した。


 ビールの注ぎ足しが美味しくないといわれるのは、飲み会などでビンや缶のビールを注ぎ合うときの話だった。グラスのふちに残る料理の油分は、ビールの酸化を防ぐ役割の〈泡〉をつぶしてしまう。泡が消えてしまうと、ビールが空気に触れて、香味こうみが悪化するのである。そのため、一度口を付けたビールは飲み干して、次のビールは別のグラスに注いでもらう方が圧倒的にうまい。注ぎ足し自体が悪いというわけではないのである。

 

 マスターはいつも、サーバーから勢いよくビールを注いだあと、湧き立った泡が落ち着くまで少し待つ。少しずつ沈み込んでゆく泡の表面をよく観察すると、泡の粒が弾けてねっとりとした膜のようなふたができてくるのがわかる。グラスの中まで泡が沈み込んできたら、この泡の蓋をビールが巻き込まないよう、ぎ込む場所を一点に定めて、グラスにビールをいわば〈注入〉する。すると、少し硬くなった泡が下から上に押し上げられて、グラスのふちから盛り上がってくる。グラスのフチまで注ぐのが伝統の英国風エールを除けば、ビールと泡が7対3になったくらいが、マスターが客に供するタイミングだった。

 

「……いや、アイツは違う。なんたって我が社のエースだもん。ヘソ曲げられて他所よそに引き抜かれでもしたら部長のクビが飛ぶよ」と、純一。

「システム・エンジニアでしたよね」

「MITに留学してる。ディープ・ラーニングだとか何だとか? 会社のAIサーバー、アイツが仕切ってる。エンジニアというより、博士はくしって感じ……。それに比べて、僕はヒラの営業マン。どう考えても釣り合わない……」

「なにを言い出すんですか?」

  マスターは苦笑した。そして、注ぎ上げたばかりのグラスを持ってカウンターの端へ向かった。原色をかき混ぜたような柄のシャツを着た、いがぐり頭の客がいる。その前にグラスを置いて、マスターはなにか話しかけた。込み入った話には深入りしないのが彼の流儀だった。

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