エピローグ

4月某日 UGN N市支部


街路沿いの桜が花をつけ、歩道には花弁の絨毯が敷き詰められた頃。

窓から吹き込む風は新たな季節の訪れを匂わせる。


そして開いたドアの先では、稲本が段ボールに荷物を詰めていた。

「あら稲本。」

「お、紫月か。こんな朝早くから珍しいな。」

「貴方こそまだ安静にしてなくて良いの?」

所々に見える傷跡。

体自体は動かせるようだがどこかぎこちない様子である。

「ああ、まあ戦闘とかは止められてるけどこれくらいならな。それに明日からこの席は雨宮の物になるから、良い加減片付けねえとって思って。」

そう、彼はもうこの支部の人間ではない。

明日からは彼の代わりに、雨宮がこの支部に配属されるのだ。


「……明日から異動だったかしら?」

「ああ。」

「レイヴン……にいくの?」

「いいや、あっちはクビになったよ。コントロールできない奴はいらないって事だとよ。代わりに俺の事は霧谷さんが拾ってくれたよ。」

稲本はすべてを詰め終え、最後の段ボールに蓋をしながら淡々と答えた。

「なんだ、寂しくなるとでも言ってくれるのか?」

「いいえ。これでようやっと貴方と顔を合わせる必要もなくて清々すると思っただけよ。」

「お前ならそう言うと思ったよ。」

稲本は笑いながら答える。

紫月は不機嫌そうに、ただほんの少し寂しげな様子を見せていた。

「ま、代わりに黒鉄が来ることも増えるだろうしちゃんと仲良くやれよな。」

「…………ここで何で彼の名前が出てくるのかしら?」

「いや、ほら、な?」

「…………異動の前に少し痛い目を見た方が良いようね?」

「ま、待て!悪かった!!」

稲本は段ボールを抱え逃げ去るようにドアを開ける。

「ああ、それとお幸せにな!!」

そして置き土産と言わんばかりに、余計な一言を残して彼はさっていった。


紫月は、整頓された机に目を向ける。

いつもは無頓着に物が置かれていたそれに対して、何となく物寂しげになり、

「全く、最後の最後まで騒がしい人だったわね……」

ほんの少し、笑みを浮かべた。


————————————————————


段ボールを抱え廊下を歩く稲本。

すれ違う人々に挨拶と会釈をし別れを告げる。

そしてそんな最中、彼はその人と出会った。

「稲本君、もう行くのかい?」

「支部長。いえ、先に荷物だけ置いてから挨拶に行こうと思っていました。」

「別に私は荷物があったところで構わないよ。」

いつも通りの穏やかな笑顔で接してくれるその人。

「では、お言葉に甘えます。」

稲本もかしこまりながらも、砕けた様子で彼について行った。



支部の屋上。

二人で缶コーヒーを開ける。

「傷の具合はどうだい?」

「おかげさまで動かすのに問題はないくらいにはなりましたよ。」

腕をグルグルと回した瞬間、痛みが走る。

「っ……」

「まあ、無理はしない様に。」


コーヒーを口に流し込んでいく。

豆を挽いたものと比べれば味は劣るが、それでも慣れ親しんだ味にかなうものは無いように思えた。

「君が来てから三年。長いようで短い激動の三年だったね。」

「いやはは……面目ない……」

「私としては、もう少しこの支部に残ってもらえれば助かるんだけど。」

「……それはできませんよ。だって俺は————」


そう、俺はあの戦いの後全てを話した。


『13』という非人道部隊にいたこと、『レイヴン』というスパイとしてこの支部に潜ったこと、そして黒鉄との関係を黙っていた事。


加えて今までの命令違反や独断行動。

この人に対して負い目しかない。

俺という人間は、このまま残るわけにはいかない。

この異動そのものが、そう思ったが故に自らも選んだ道であったのだ。


「……君の思うこと全てが分かるわけではない。ただ、これだけは別れる前に伝えようと思ってね。」

「…………どんな恨み言も聞く所存であります。」

「恨み言は……まあなくはないけど門出には相応しくないことくらい、私でも分かるさ。」

雲井はいつも通りの穏やかな表情で、ゆっくりと続けた。


「あの日、アレクシア君を救った君に対して言ったことを覚えているかい?」

「……はい。あの日からずっとあの言葉は守り続けています。」

「まずは先月のあの事件。組織のしがらみや、君の過去や色々と思うところはあっただろう。」

「…………」

「その中で君はあの言葉を守り、よく二人で無事に帰ってきた。」

「……そんな、当たり前の事をしただけですよ。」

「それでも君の行動は称賛に値する。私はそう思ったよ。」

「…………」

「これからもあの言葉を守り、君が多くの人を救う事を期待しているよ。」

「…………ありがとう、ございます。」

稲本は少し照れ臭そうにしながら、会釈で答えた。

「もっとも、もう少し始末書の枚数が減れば良いんだけどね。」

「ハハハハ……善処はしてみます……」


缶の底に残ったコーヒーを飲み干そうとして、缶を思い切り傾ける。

ただそこに残っていたのはもう飲むことさえも難しい、ほんの僅かな量。

何となく、それを飲み干す事でさえ躊躇いそうになってしまった。

「……長い時間引き止めてしまったね。」

「いえ…………その…………」

「ん?」


稲本は、深く頭を下げる。

「長い間、本当にお世話になりました………」

声もとても静かで、ほんの少し何かを堪えているようだった。

「…………私は、君がこの支部に来てくれて本当に良かったと思っている。」

「支部長…………」

「だからたまには帰ってきなさい。所属は変えれど、ここは君が帰る場所だ。」

「…………また、また来ます。」

「ああ、待っているよ。」

飲み干した缶を屑籠に放り込み、荷物を持って歩き出す。


決して今生の別れではない。

それでもどうしてか心の奥底から感情が溢れ、それが涙に変わるまでは簡単な物だった。


—————————————————————


荷物を持って外に出る。

止めておいた車に、荷物を載せる。

「ふぅ…………」

稲本が一息ついたその時、紫色の小さな箱が勢いよく彼の後頭部を目掛け投げつけられた。

「……何のつもりだてめえ?」

キャッチする稲本。

「俺なりの餞別だ。」

そして彼の前に現れたのは、相変わらず不機嫌そうにした黒鉄だった。



「餞別ったってお前所属は日本支部のイリーガルだろ。しかもココアシガレットだし。」

「文句があるなら返してもらうぞ。」

「あ、一本だけくれ。」


二人は車の前に立ち、同じ方向を向きながらココアシガレットを口に加えた。

「…………ようやっと、終わったんだな。」

「ああ。これで『13』は完全に壊滅した。まだ黙示の獣についてはFHが動いている可能性も捨て切れないが、それでも奴等との戦いは終わりだ。」


唾液を吸い柔らかくなった先端を噛み砕く。

「この3年間、お互い色々あったな。」

「ああ。まさかことの顛末でこの様になるとは思わなかったがな。」

「真奈ちゃんと一緒に暮らせる様になったこととかか?」

「真奈が…………いや、俺たちが自由に生きる事ができたことだ。」

「お前とこうやって肩を並べることはもうないと思ってたしな。」

「ああ。願わくば二度とゴメンだがな。」

「おう、喧嘩売らねえとやってらんねえのかテメェはよぉ?」


シガレットも半分の長さになり、口の中に全てを含んで一気に噛み砕く。

「……稲本。」

「あ?」

「お前の正義はどこにある?」

かつての相棒からの問い。

それはあの日、3年ぶりに邂逅したあの時と同じ問い。


あの時は答えることができなかった。

けどあの戦いを、全てを超えた今だから答えられる。

「この手に、俺が振るう剣にある。この剣が届く限り、誰も死なせねえ。」

「…………お前らしい、答えだな。」

世にも珍しいことが起きた。

彼が、彼が笑ったのだ。

「…………」

「どうしたそんな唖然として。ついに馬鹿が治らんところまで行ったか?」

「ぶっ飛ばすぞこの野郎。」


粉々になった砂糖菓子は唾液で溶かされ、口の中は単調な駄菓子ながらの甘さが広がりきっていた。

「……少女が来た様だ。」

彼はそう呟くと、徐にその場を去ろうとした。

「なあ黒鉄。」

「……なんだ?」

「お前の正義は、何だ?」

意趣返しの問いかけ。

彼は悩む事もなく、真っ直ぐとした眼で答えた。

「大切な者と、真なる正義を守る。それが俺の正義だ。」

かつての様な憎悪の焔はその蒼眼になく。

ただ、確固たる信念のみがその眼に宿っていた。

「じゃあ、またな黒鉄。」

「ああ。」

二人は振り返らず、言葉を交わすのみで別れる。

ただ二人のどちらも、この上ない笑顔を浮かべていた。



黒鉄が去ったわずか後、少女が稲本に駆け寄ってくる。アレクシアだ。

「おお、アレクシア。帰りか?」

「はい。今日は午前で講義が終わって、今から帰るところでした。」

「このまま宿舎に寄るけど、乗ってくか?」

「はい!」

稲本はアレクシアを助手席に乗せ、自らもその車に乗り込む。

そして少しおぼつかない様子でエンジンをかけ、今発進した。


—————————————————————


ゆったりとした振動が二人を包む。

「稲本さん、車も運転できたんですね。」

「まあ、有事に備えて運転はできる様にはしてあったよ。凄く下手だが。」

他愛もない会話の最中、時折後部座席に乗せたダンボールからガタガタと音がした。


そして信号が赤に変わった時、無言の時間が訪れた。

続く振動。されど後方からは音はせず。

僅かな静寂に耐えられなくなりそうだった。

「あの、稲本さん……」

そんな時、静かに彼女が切り出した。

「明日から、異動なんですよね……」

「ああ、日本支部の方に回される事になったよ。色々とやらかし過ぎたから俺を本部の監視下に置きたいのが魂胆だろうけどな。」

「暫く、会えなくなるんですか?」

「…………まあ、日本各地を回されるらしいからな。月一回はこっちに帰ってくるつもりだが……」

「…………ちゃんと毎日連絡くださいね?」

「ああ。絶対毎日ちゃんと電話する。」

「…………無茶、しないでくださいね……。」

「怪我もしないよう、気をつけるよ。」

「…………絶対に、死なないでくださいね…………?

「…………ああ、絶対だ。」


交差する方向の歩行者信号が点滅している。

もうじき信号が青になるだろう。

「稲本さん……!!」

感情抑えきれず、耐えられなくなった少女は目元に涙を浮かべ稲本の方を向いた。


———瞬間、口を塞がれた。

唇に感じた柔らかい感触。

首元に優しく触れた、大きくて温かな手。

そして彼が離れた後、あまりのことに一瞬開いた口が塞がらなかった。

「あの………こういうのは今するべきではない…………と、思うんです。」

「あの、うん……ムードとかもへったくれもないのはゴメン…………」

稲本は申し訳なさそうに頭を下げる。

「ただそれでも、今伝えたいって、思っちまったんだ。」

「………………」

「君に会えたから、俺は俺の守る剣を見つけることができた。君がいたからあの日、俺は生きて帰れた。って、君に救われっぱなしだな、俺は。」

稲本はどこか申し訳なさそうに笑う。


「…………救われたのは私もですよ、稲本さん。」

「……え?」

彼女も、静かに答えた。

「初めて会った時から、ずっと私も貴方に救われたんです。それに、貴方がいてくれたから眠るのが怖くなくないんです……だから……私からも伝えさせてください。」

少女は満面の笑顔を浮かべて、優しい声で口にした。


「貴方に会えてよかった。私のこの気持ちも、ずっと変わりません。」


時が止まった、そんな気がした。

ただこの幸せな想いが、ずっと続けばいい。

そう思えた。

「アレクシア、俺は君が好きだ。だから、その————」

だから、想いを伝える。

言えなくなる前に、全てを。

そして、続けようとした時。


「あっ、やべ。」

後ろから絶え間なくクラクションが鳴らされ始めた。

「信号、変わってましたね……」

「と、とりあえず宿舎に戻るとしようかね……」

アクセルをほんの少し踏む。

緩やかな加速の筈なのに、どこかぎこちない気がしてしまえた。

それでもこの二人だけの空間は、とても暖かさに包まれていた……



宿舎に着き、サイドブレーキを引く。

「すみません、ありがとうございました。」

「良いってことよ。」

彼女が降りたことを確認し、俺も地面に足を乗せる。

「そういえば、さっきなんて言おうとしたんですか?」

「あーー……いや、ちゃんと今度はそういう時に言うよ。」

「……じゃあそれまで待ってます。なるべく早い方がいいですけど。」

「ああ。ちゃんとその時には言うって、約束する。」

「ええ、楽しみに待ってます。」

肩を並べ宿舎へと戻る。


ふと空を見上げれば、彼女の瞳と同じ藍色の空が一面に広がっていた。

その中で、カラスが何にも縛られず自由に飛んでいた。


「どうしました?」

「いや、何でもないよ。」


————多くを奪い、多くを失った。

迷い続け、闇の中で正義を見失った、

それでも大切な人たちの為に剣を振り続け、たった一つの信じる正義だけが残った。


雲なき大空のように、今彼を縛る者は居ない。


いつか憧れた大空へと、今彼は飛び立っていく。

その手に、守る剣を携えて…………


—————————————————————


5月 東京市内 夜


満月の浮かぶ夜。

月明かりさえも並び立つビルの光に飲まれていた。

そして街明かりさえも照らさぬビルの陰、彼はそこに立っていた。


「詰まるところ、怪異的な殺人事件が起きているから調査に行けって事ですね。」

電話越しに出される指示。

『ああ。加えてディアボロスの姿も目撃されている。現地のエージェントと協力し解決に当たってくれ。』

「こちら"月夜鴉"、了解です。」

彼は任務を快諾し、屋上から飛び降りた。

黒のロングコートが風になびき、その姿はまさに月夜に舞う鴉が如く。

「もう誰も殺させねえ……救ってみせる……!!」

そして今、彼は新たなる戦いへと羽ばたいた。



————この物語は、彼の過去との決別であり、未来への歩みである。


そして彼は零へと辿り着いた。


物語は終わり、始まりを迎える。


終わる事のない、彼の守る為の物語が。


to be continued……

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