第1話 悪夢

暗い闇の中、彼は一人立っていた。

光もないはずなのに、輪郭はハッキリと認識できた。

両脚は絡めとられるように黒く澱んだ水の中に足首まで浸かっている。

「……んだよこれ。」

その両腕も真っ赤に染まり、握られた刃もこびり付いた赤で錆びれていた。


ここがどこなのか、どこに向かえばこの薄気味悪い場所から出られるのか。

どれだけ辺りを見渡そうがその答えは出ないような気がしてしまうほど、闇は広く、深く続いていた。


それでもこの場所に留まる理由もない。

一歩前へと足を踏み出した。

「っ……!!」

途端、肌に切り裂かれるような痛みが走った。


決して斬られたわけではない。血が流れているわけでもない。

されどその痛みは一歩足を進めるほどに増していった。

「本当に……何だよこれ……」

足も一歩、また一歩と進めるほどに重くなっていく。

何か耳鳴りのようなものも聞こえ、頭の中にモヤが生まれていくような気もした。


瞬間、彼に向けて刃が振り下された。

「っ……!!」

咄嗟にその白刃を受け流すが、彼の持つ刀は刃こぼれし、今にも折れそうだった。

そして目の前にいるのは人の形をした影のような何か。

それは見るに優れた一刀を鞘に納めた状態で手にして立っていた。

「やろうってんなら……!!」

彼もその体に染み付いた構えで目の前の影に斬りかかる。


ぶつけ合う刃と刃。

放たれた居合は同等の威力で互いの刀身に傷をつけていく。

「クソッタレが……!!」

彼の一撃に合わせてカウンターを放つ影、彼は頬に傷を負うが再度間合いを取ることで中立の状態を維持する。

「お前は、何故剣を握り続けている?」

「何だと……?」

突如話しかけてきた影、答える間も無くそれは再度切り掛かって来る。

斬り結び、競り合う刃は互いの眼前に迫る。

「お前は何故剣を握り続けている?もう、誰も殺したくないと願っていたはずなのに。」

「っ…………守る為だ…………!!」

力強く弾く。

地を蹴り、一気に加速する。


その一刀を振るたび錆は剥がれ、赤刃が姿を現していく。

「守る為か……ハッ」

影は嘲笑うと彼の一刀を弾いた。

「殺す為の刀、だろ?」

「っ…………!!」

影は嗤いながら彼の身体にその一刀を突き刺した。

「ぅぐッ……!!」

「お前の剣はとても優れたモノだよ。誰かを守るのではなく、殺すのに関してはなぁ!!」

「黙…………れぇぇぇぇぇ!!!!」

影に向けて蹴りを叩き込む。

傷口からは赤が滲みながらも、彼はそのまま鞘に刀を納め畳み掛ける。


放たれた一閃。

その一撃により影は後ずさる。

彼は納刀することもなくそのまま刃を振り下ろす。

決して揺るがぬ優勢、されどそれでもまだ影は嗤っている。

「やっぱりそうだ。お前は殺すことに長けている。守るためなんかじゃない。お前は必死にその殺したいという欲望を、衝動を堪えているんだ。」

「黙れ黙れ黙れ黙れ……!!俺は、もう誰も殺したくない……殺さないんだ……!!」

一度離れ放つ連撃、それは徐々に白刃を削り落とす。


再度競り合う刃。

顔と顔は一寸もなく、それでいて尚影の顔を認識することはできない。

「殺さない、ならお前は何故もう一人のお前を生み出した?何故自らの罪から目を背ける為のその人格に身を委ねた?」

「っ……」

「答えは簡単だ。お前が心の奥底で殺しを求めているからだよ!!」

「黙れぇぇぇぇぇぇッ!!!!」

彼は怒りに身を任せ、必殺の突きの構えをとる。


そして次の瞬間、白刃は砕け赤が宙を舞う。

「……上出来だ。やっぱりお前は殺すのが上手い。」

突き刺さる刃を流れる血流は、柄を伝ってその両手をじわりじわりと濡らしていく。

「違う……俺は……!!」

「何故否定する?こうも無駄のない動きでお前は俺を殺したと言うのに。」

影は笑い続ける。

その声はもはや称賛にも近い、そんな声色をしていた。

「それに気がついてんだろ。俺を殺そうとしたとき、お前の枷が外れてることにもさ。」

足の重みも、肌の痛みも、今は何一つ感じなかった。

始めは鈍だったその刀も彼を突き刺すまでの過程で鋭く研ぎ澄まされた一刀へと姿を変えていた。

代わりに影が手にしていた白刃はボロボロとなり、もはや何を斬ることも出来ない様相へと変わり果ててしまっていた。

「あの人を殺した日から、お前は人を殺す事に慣れちまったのさ。だからお前は、罪から目を背けて何人も殺せたんだろう?」

「違う……俺は……!!」


影は彩られ、輪郭を成していき、姿を露わにしていく。

「認めて楽になろうぜ……」

そしてその影は、

「"稲本作一"」

彼と寸分違わぬ姿をしていた————


—————————————————————

「俺は……違う……っ!!」

青年はベッドから飛び起きる。

喉がひどく乾いており、全身から噴き出た汗でシーツもびしょ濡れだった。


時刻はまだ5時を迎えておらず、東の空から太陽の一端が顔を出していただけのようだ。

「………夢、か。」

額に手を当てる。

脂汗が顔全体に滲み出し、呼吸も浅くなっていた。

浅くなった呼吸を戻そうと深く深く吸えば吸うが、何かがつかえるような感覚が取れず息が整うまでにそれなりの時間を要した。

「何だってこんな夢…………」

それは、悪夢と形容するに足るモノだった。


幾度となく夢は見た。

救えなかった人、殺した敵から恨まれる夢は見てきた。

けれども、己と対峙する夢は初めてだった。


己にもう一人の自分がいる事も知っている。

けれどもアレは言葉を発さず、ただ殺すだけの機能に近いものである。

だからなおさら、今までの悪夢よりも現実味溢れていたのだろう。


同時に、自身の信念が揺るぎそうになっていた。

あれが己なら、あれが本心なら俺は何のために戦ってきた?俺が生かされた意味は?

そんな疑念だけが彼の頭を支配していた。

「……シャワー、浴びるか。」

湿り切ったシャツを脱ぎ捨てる。

熱湯を頭から浴び、汗を流す。

その両手は決して血に濡れておらず、アレは夢だったのだと改めて気を持ち直した。


それでも、あの手を赤が染める感覚と、肉を貫いた手の感触だけは拭い去ることは出来なかった。


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