アップセット - 正体の分からない音を聞いて確かめに行ったり行かなかったり

浅賀ソルト

アップセット

 僕は一人暮らしだ。東京のアパート、六畳1DKに住んでいる。夏の夜にキッチンの方からガタンと音がした。

 そのとき僕はスマホを見ていた。明かりは六畳間にしか点けていなかったからキッチンは闇の中だ。音の種類としてはシンクの下の棚を閉めたときの音に近かった。閉めるバタンという音ではなく、閉めた衝撃でシンクの枠組みがガタッと揺れる音。取っ手に足がぶつかったときの音のようだ。

 僕は、中に入れている砂糖や塩の袋が倒れて落ちたのかなと思った。

 部屋とキッチンの間の戸は開きっぱなしにしている。部屋の明かりでキッチンのフロアが四角く照らされていた。その向こうは暗くなっていて、シンクの扉やその上、そして蛇口のパイプまでがぼんやりと見えた。その上の壁には窓が付いていて、アパートの廊下が磨りガラスの奥にある。廊下に人影はない。窓より上は床に座っている自分の位置からは角度的に見えない。玄関はシンクの横にあって、自分のところからは死角になっている。

 一瞬考えたが、砂糖の袋が倒れたのだとだとしたら面倒だ。口は閉じているけどどうなったか分からない。かといってこういう異音は割と日常的で、確かめても何もないことがほとんどだ。

 僕はスマホのデイリータスクの消化に戻ることにした。

 皿と皿がぶつかるガチャンという音がした。

 僕は肩を大袈裟に震わせてしまった。タイミングが絶妙だった。

 スマホを手に持ったまま立ち上がり、僕はキッチンに入った。

 部屋からの明かりで充分だったのでとくに何も点けなかった。フローリングの上を音のした方へ歩いた。皿の音はシンクの下からした。

 僕はシンクの下の扉を開いた。

 何かの影がさっと奥に移動したように見えた。

「うおっ」

 Gと呼ばれるアレだ。僕はかがんで中を覗き込んだ。

 僕は右側に皿を固めている。左側には調味料、インスタントラーメン、洗剤の買い置き。

 どこにも奴の影は見えない。僕は立ち上がりキッチンの明かりを点けた。薄暗かった部屋の隅が見えるようになった。

 さてさて。僕はシンクの上から食器用洗剤を取った。マツキヨのレモンスカッシュの奴である。詰め替え用の洗剤をダイソーで買ったスプレー容器に入れている。公式にはポンプ式の入れ物なんだけど、僕はスプレー容器に入れている。正にこういうときのためのものである。昆虫は界面活性剤に触れると殺虫剤じゃなくても死ぬ。スプレーで飛ばすために水で薄めて入れている。

 書いてなかったけど、築四十年のアパートである。僕は自炊もするので、そういう環境には奴は必ず出る。

 扉二枚を両方開いた。

 本腰入れるために床に膝をつき、スプレーを銃のように構えて中を覗き込む。

 再びシンク全体が蹴とばされたようにガタンと鳴った。皿も鳴った。まだ頭を入れてなかったのでぶつけることはなかったが、身を引いて発生元を確認した。それっぽいところは見つからなかった。

 少し待った。地震かと思ったのだ。だけど揺れはなかった。

 僕は床に尻をつけて座っていた。右手にスプレー。その態勢で右から左へ玄関からずーっと見ていったが、なんの変哲もないシンクだった。下扉の中は乾物や三つ重ねた一平ちゃんなどがあるだけだ。

 下扉の上には引き出しがある。その中は確認していない。さっきの音のせいで中に何かいるような気がしないでもない。じっと見ているといるような気もしてくる。ホラー映画でBGM鳴らしながらカメラがアップしていく感じだ。とはいえ、音の感じだけで言うと小さくないサイズの犬くらいの存在が必要なのでそれはないと思うけど。

 僕は残りの扉も全部あけた。スプレーを構えながら引き出しも開けていった。引き出しは二つだけ。小物が適当に入っているだけだけど──スプーンとか割り箸とか、胡椒や七味唐辛子とか──どちらにも何もなかった。

 僕が見たのも、何かが動いたというだけでゴキブリをはっきり見たわけではない。音は大きいけど大物が隠れている気配はない。

 僕は諦めることにした。音の原因は分からない。

 引き出しを閉めてシンク下の扉も閉めた。塩や砂糖の袋が倒れているわけでもなかった。スプレーは流しに戻した。

 キッチンの明かりを消して六畳間に戻った。クッションに座ってスマホを開き直した。

 接続してアプリのトップページが表示されるのを待っていて、またキッチンで音がした。やはりシンク全体が蹴られたような音だ。音の成分に木材の感じが多い。

 僕はスマホを床に置いて、ぼーっと暗くなっている戸の向こうを、半分横になったまま見ていた。

 ホラー映画のことを思い出していた。

 ホラー映画で、音のした方を確かめに行くというのはある種のフラグである。現実で、確かめないという選択はあるだろうか?

 あ、聞けばいいんだと思い、スマホを取り上げてLINEから友達にメッセージを送った。

「部屋の隅で変な音がしたときって確かめに行く?」「なんかホラー映画みたいだなーと」「けど確かめるのもめんどくさいなーと」

「暇だったら確かめるかな」「面倒だったらほっとく」ちょっと間があって「家鳴りっていうらしいよ」と追加の情報がきた。

 文字を打とうとして家鳴りが『やなり』だと知った。『いえなり』かと思った。「家鳴り?」「へー」「検索してみる」

 で、検索してみた。

「おい」「怪奇現象って書いてあんぞ」「安心できねえ」

 このあたりは顔文字やスタンプも混じってるけど、適当に脳内で想像して読んで欲しい。説明も面倒だ。

 家鳴りでウィキペディアを見ると、怪異現象として説明が載っている。ほかにも温度や湿度の変化でも起こることがあるという。ポルターガイスト現象の一種とも書いてあって、怖い人にとっては怖いもののようだ。

 僕も夜になってあたりの静けさもあり、ちょっと変な気分になってきた。霊が騒いでいるんだと思えばそれは安心できないが、かといって僕が除霊できるわけもなく、どちらかというと信じる信じないの話になりそうだ。

 古い建物だし、キッチンがでかい音を立てるというのも受け入れるしかない。

 僕はスマホから目を離し、キッチンの方をあらためて見た。開きっぱなしの戸の向こうには、薄暗い空間とぼんやり見えるシンクの扉があるばかりだ。

 そこでこれまでで一番大きなドカンという音が聞こえた。大人の男が完全にシンクの横の板あたりを蹴っていると確信するような音だ。

 僕は反射的に立ち上がり、キッチンへと駆け付けた。キッチンに入るとそれまで死角になっていた玄関が見えるのだけど、意外なことにモロにそれを見ることになった。といっても輪郭がはっきりしたものではなくて、ぼやっと濃い人影のようなものが玄関の扉の前にいた。棒ではなく黒いながらも両手と両足に頭もちゃんと付いていた。それがいかにも今蹴ったばかりといった感じで佇んでいた。顔もない黒い影だったけど、それは明らかに僕の方を見た。かと思うとそれは消えて、その後ろにあった玄関の扉が見えた。

 一気に背筋が寒くなり、「う、お」と声にならない声を漏らしてしまった。自分の出した声にさらにビビった。

 視線を外せずに、そのまま明るい居間の方へと後退した。玄関が境界の壁の死角に隠れてまた見えなくなった。

 少しずつ血の気が戻った。口がカラカラに干上がっていた。

 声に出して言ってみた。「なんだありゃあ」

 そうするとちょっと安心する部分があった。スマホを持ち上げ、「いま、まじだった。玄関に何か立ってた。すぐ消えたけど」と打った。

「なんだそれ。やべえじゃん」

「いやほんと。気のせいだと思うけど鳥肌たった」

「こっちもだ」「やめてくれ」

 スマホを見ているうちに視界の隅で何か動いた気がして、キッチンの開いている戸を見た。戸の向こうには四角く切り取られたキッチンの景色があり、死角になった奥には玄関があるはずだった。僕はずっと見ていた。動くものもなければ、暗闇に濃淡があるわけでもなかった。ただの、戸の向こうの明かりを点けていないキッチンがあるだけだった。

 LINEの着信があった。「結局さー、音がして確かめに行ってもロクなことがないってことじゃないか?」「見に行かなければ変なもの見ることもないんだしさー」

 僕はそのメッセージをぼんやりと見ていた。何か書こうとしては消し、最後に「確かに」と送信した。

 既読は付いたが、向こうからの返事は特になかった。

 確かにと僕は頭の中で繰り返した。見に行った自分が悪いのだ。

 僕はキッチンの方を見た。何かが動くような気配はない。

 戸を閉めた方がいいかなと思った。立ち上がって閉めるために近づくのがいいとも思えず、しばらくじっとしていた。

 確かに。

 僕はもう一度自分に言い聞かせて、立ち上がると居間とキッチンの間にある戸へと寄っていった。ただし玄関の見えない角度からだ。戸の向こうを見ないように手を伸ばして閉めれば何の問題もない。

 そんな風に、警戒しながら戸に近づき、何も物音がしない中で素早く手を伸ばし、取っ手に指を引っかけて戸を閉めた。視界に暗い場所がなくなった。居間の明かりが全てを照らしている。

 居間でしばらく立っていたが、自分の家で立ったままでいるのもおかしい。僕はまた腰を下ろした。友達からのLINEはもう特になかった。

 僕はスマホのゲームを再開した。

 そのうち夢中になり、何分も経過した。

 三十分以上は経過した頃だった。

 キッチンから小さい音がした。

 湿度や気温の変化で木が軋んだ音のようでもあり、床の上を慎重に何かが歩いている音のようでもあった。キシ、という小さな音だった。

 僕は少しだけ考えたが、何もしなかった。

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