16

 突如として、ふわりと影が生じた。僅かに遅れて風が立ち、私の前髪をなぶった。斜めに切り込んできたその黒い塊が、巨竜の鼻先へと激突し、跳ね返った。空中で回転する――優美に。

「言ったでしょう、置き去りにはしないって」

 影が舞い降りる。私と巨竜とのあいだに、ナターシャがすっと背筋を伸ばして立っていた。ドレスこそあちこちが裂け、破れ、肌が剥き出しになってはいるが、その姿は今まで同様、いや、今まで以上に颯爽としていた。凛として見えた、私の知るなによりも。

 彼女が肩越しに、一瞬だけこちらを振り返る。赤い目の湛える硬質な輝き。

「化物の相手は化物がする。これ以上――傷つけさせない」

 みしみしとなにかが軋む音がした。ナターシャの背中に走った亀裂に異変が生じていた。 

 少しずつ広がっていく。内部の闇が領域を増したかと思うと、ぬるりと長細いものが突き出してきた。黒々と艶めいた、腕とも触手ともつかない奇怪な物体である。

 次から次へと出てきた。歪な花びらのように広がって、ゆらゆらと揺れている。

 現れた瞬間は柔らかそうに見えたそれが、空気に触れるなり硬化しはじめた。やがて巨大な鎌のような形状で安定して、左右へと広がる。最終的に六本になった脚に支えられ、ナターシャの上半身が持ち上がった。仰ぎ見るほどの高さまで上昇し、静止する。

 同時に腹部が――人の姿をしていたときには存在しなかった蜘蛛本来の腹部がどこからか発生し、急速に膨張を始めた。歪な突起と血管めいた模様が、瞬く間に表層を覆う。

「この姿、あんまり見せたくないんだよね」

 恐るべき変身を遂げたナターシャが、低く冷たい声で発した。人間でいう臍より上の部位はほとんど変わっていなかったが、それが却って奇怪な印象をもたらした。人と蜘蛛が呪わしい取引を交わしたかのようだった。

 六本の脚が凄まじい速度で蠢いた。ナターシャが巨竜に向けて突進していく。

 勢いのままに圧しかかった。脚が独立した生き物のように動いて、相手の突起を掴む。

 一息にへし折った。また別の脚が巨竜を抑え込み、爪を隙間に突き入れる。堅牢な岩でできているはずの巨竜の体が、あたかも紙のように引き裂かれていく。耳障りな異音と喚き声が響き渡り、部屋じゅうに反響した。

 巨竜が頭部を力任せに振り回してナターシャを薙ぎ払おうとしたが、彼女はその体をがっぷりと掻き抱いて離さなかった。相手が生き物であれば、そのまま毒液を注入する体勢だろう。岩の陰で、ナターシャの下腹部が奇妙なほど生々しく振動している。

 強靭な力で締め上げられつづけた巨竜が、遂にして力尽きた。轟音とともに砕け、形を失くして散らばる。残ったのはばらばらの石の欠片と、撒き散らされた粉塵だけだった。

 立ち込めた砂煙が少しずつ収まる。戦いを終えたナターシャの体が柔らかく崩れ、空間に溶け出した。しゅわしゅわと音を立てて消えていく。巨大な腹部や長々とした脚が失せ、元どおりの、人型の彼女だけが残る。

 歩み寄ってきた。ドレスは大半が破れ、肌が曝け出されていた。とはいえ白い部位と黒い部位とが入り交じっているせいで、裸身には見えない。全体に走った不思議な模様が、どことなく衣服を思わせる形状になっている。

 いまだ立ち上がれずにいた私を、彼女の腕が助け起こした。ありがとう、大丈夫、と発する。自分の声がどうにか聞き取れた。耳鳴りがようやく収まりつつある。

「怪我はなかった? ごめん、もう少し手際よく片づけるべきだった」

「私たちは平気……だと思う。ちょっとぶつけただけだから」

 腕を背中側に回して撫でてみる。幸いにして、痛みはもうほとんど無かった。

「それよりあなたは? 直撃したのかと思った」

「まさか。隠し玉があるのは分かってたから、一発吐き出させて、隙を作る必要があった。でも全力で撃たれたら躱し切れる自信がなかった。だから事前に角を折って弱体化を――なんて。いちおう無策ではなかったんだよ。あなたを襲った奴より、少し骨があったね」

 平然と語る彼女に私は唖然としてしまい、咄嗟に、

「少し?」

「だいぶ。おかげであれも見られちゃったしね」

 ナターシャは気恥ずかしげに視線を伏せた。

「あれも確かに私。本当の姿はきっとあっちなんだろうね。フィンチ一族の、お母さまの娘。でもすべてとは思ってない。誰になにを言われようとも、私は私でいたいから」

 足許に落としていた視線を上げ、彼女は私を直視した。小さな、しかし確たる声で続ける。

「自分の血を忌み嫌うつもりも、やってきた事実を否定する気もない。お母さまや、きょうだいたちへの敬意も失くさない。自分が怪物だって分かってるつもり。だけど――力があるならせめて、自分が信じるもののために使いたい。あなたに出会って考えたの、本当の自分がどうありたいのかって」

 うん、と頷いた。そうしてようやく、この強く優雅な友人が無事戻ったのだという実感が込み上げてきて、私は泣きべそをかきはじめた。情けない表情を見られたくなくて、彼女の肩に額を押し当てる。

「生きててくれて、よかった」

 やっとのことでそれだけを告げると、私は体を離して無理やりに笑みを作った。背負ったままだった頭陀袋からローブを引っ張り出し、ナターシャの肩にかける。

「とりあえず、それ着てて」

「うん、じゃあ直すまでは」

 ナターシャ、と傍らからエスベンが呼びかける。ずっとタイミングを見計らっていたのかもしれない。

「パイクを探そう。この部屋、さっきの扉しか出入口が無いみたいだ。なにか仕掛けが――」

 ナターシャは黙ったまま手刀を切った。入ってきた扉とは反対側の石壁へと近づき、右足で踏みつけた。無造作に奥へと蹴り込む。

 壁が崩落した。また別の空間へと繋がるトンネルが、ぱっくりと口を広げていた。

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