15

「エスベン、柚葉をお願い」

 言い終えないうちに、ナターシャの体が宙を舞った。あっという間に壁へと迫ったかと思うと、急激に角度を変えた。壁を蹴りつけた勢いのままに、岩石の巨竜目掛けて突っ込んでいく。

 ナターシャの腕が振るわれる。一瞬ののち、低い音を立てて巨竜の突起のひとつが落ちた。透明な糸による早業には違いなかったが、いつどうやって切断したのかはまったく分からなかった。縛って締め上げたのか。それとも糸鋸のように使ったのか。

 曲芸師さながらに、ナターシャが受け身を取って着地した。漆黒のスカートが翻る。巨竜が前足を振りかぶって殴りかからんとしたが、すでに彼女の体は空中にあった。

 またしても突起が落ちる。かろうじて視認できた切断面は、驚くほど滑らかだった。まさに正確無比。堅牢な岩を、こうもすっぱりと――。

 巨竜が体を回転させ、長い尾を鞭のようにしならせた。予想外の、そして素早い一撃だった。今度こそ捉えられたかに見えたが、ナターシャは寸前で身を逃がしていた。

 黒い目隠し布がひらひらと舞った。八つの赤い輝き。体勢を立てなおした彼女が、一息に相手との距離を詰める。

 巨竜が姿勢を低め、翅を広げた。発された甲高い鳴き声と呼応するように、びりびりと振動する。同時に、翅が虹色の光を放ちはじめた。緩やかに膨らみ、揺れ動くさまは、北国のオーロラを思わせる。

 いつの間にか生じていた無数の光の粒子が、巨竜の顔周りの突起へと収束した。見る見るうちに膨張し、互いに結びついて、やがて中空に奇怪な紋様を描き出した。虹色の曼荼羅、あるいは魔法陣。

 直後、閃光――。

 視界が消し飛び、押し寄せた熱風と衝撃に体を貫かれた。壁へと叩きつけられる。そのまま崩れ落ちて、床に尻餅をついた。全身を強打したはずだったが、驚くほど痛みはなかった。ただ意識だけが遠のいた。

 悲鳴をあげたはずなのに、なんの音も聞こえなかった。代わり、鼓膜を直接押さえつけられるような重みだけがあった。圧迫感。振動。

 その正体が耳鳴りであることに、私はようやく気付いた。他の感覚を手繰り寄せようとした瞬間、鈍痛の波が入り込んできて意識を乱した。体を折り曲げて床に転がった。

 不意に、少年の顔が眼前に生じた。エスベンだと分かったが、応答しようにも全身が痺れて言うことを聞かなかった。声を出せずに咳き込んだ。あらゆる感覚が薄ぼんやりとし、まるで現実感がない。頭蓋の内側に濃密な霧が立ち込めてでもいるようだった。

 エスベンが私の名前を連呼している――そう見えた。腕を掴まれ、そのまま部屋の隅へと引きずって行かれた。壁に背を預けた状態で座らされる。まだまったく力が入らない。

 地鳴りがした。巨竜がゆっくりと床を踏みしめながら、こちらへ向かってくるのが目に入った。恐怖に背筋を撫で上げられ、かろうじて身を捩る。なぜ立ち上がれないのかさっぱり分からない。このままでは殺されるのに。

 それよりも、ナターシャはどうしたろう。巨竜の光線に呑まれてしまったのか。だとしたら――もう生きてはいない? あの優雅な身のこなしや、物憂げな表情や、確たる理想に、もう触れることはできない?

 エスベンに再び腕を引っ張られたが、私は動けなかった。思考が空白になっていた。濡れた視界の中央にあるのは、棘だらけの歪な巨竜の姿だけ――。

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