11
ぼんやりと視力が戻ってきたとき、私は虹色の双眸に見下ろされていた。思わず悲鳴をあげかけたが、口が、いや顔面全体が痺れていて、言葉にならなかった。
「まだ動かないほうがいい。柚葉さん、僕がお話ししたことを覚えていますか」
目をしばたたかせた。像が焦点を結ぶ。あの少年だ――儀式を覗き見た私に、警告を寄越してきた。
あなたは、と問いかけようとして咳き込んだ。体を丸めながら、自分がベッドに寝かされていることを意識した。頭が恐ろしいほどに重い。
「少しずつで構いませんから、記憶を整理してください。ルエルの誘惑から脱するには、ひとつずつご自身の現実を取り戻し、地固めしていくほかない。時間がかかります」
「そんな暇、無いよ」と私はかろうじて発した。「理宇のところに行かなきゃ。あなたは誰? 私を――助けてくれたの?」
少年は短く息を吐き出して、
「僕はエスベン。あの部屋からあなたを引きずり出したのは、確かに僕とナターシャです」
「ナターシャ」私は体を起こそうとしたが、頭部の痛みに見舞われてすぐさま断念した。「ナターシャはここにいるの?」
エスベンが部屋の片隅を示した。黒尽くめの塊がしゃがみ込んでいた。視線を伏せている。
「ナターシャ。柚葉さんが目を覚ましたよ」
「――言われなくても分かるよ」
思い出されてきた。エスベンという名。フィンチ家で聞いたではないか。ナターシャが弦を提供しているという音楽家だ。
「――ナターシャ、エスベン。助けてくれて、本当にありがとう」
「正気に戻りつつあるようだ。柚葉さん、今でもヒドゥルの言葉を信じられますか? あれが愛なのだと」
反射的にかぶりを振ってから、私は付け加えて、
「あの人なりの愛の形ではあるのかも。でも、やり方が正しいとは思わない。ヒドゥルが言ってたこと――この世界が生まれ変わるとかって話は本当なの?」
「空想といえば空想、真実といえば真実です。ヒドゥル――姉は野心に憑かれてしまいました。大半のルエルが姉に心酔し、その野望を現実のものにせんと画策している。僕たちがもうかつてのルエルでないと言ったのは、そういう理由です」
「ちょっと待って。姉?」私は横たわったまま、首の向きだけを変えてエスベンの顔を直視した。「あなたは、ヒドゥルの弟さん?」
ええ、とエスベンが首肯する。
「そういうことになります。姉もかつては、ただ一族の安寧を願うだけの、穏当なルエルでした。どこでどう道を誤ったのかは、僕にも分からない。アリオラで学んだことを履き違えているとしか思えません。パイクが説いた力は、野心への意思ではないはずです」
「そうだ、パイク」と私は今度こそ跳ね起きた。「ヒドゥルに渡しちゃった。私のせいだ」
目を白黒させた私に、エスベンは言い聞かせるように、
「人間が、姉の魔力に抗えるはずはありません。あまり言いたくはありませんが、僕が理解できないのはナターシャのほうです。彼女が付いていながら、なぜむざむざパイクを引き渡すのを許したのか」
「ナターシャはパイクが嫌いだから――じゃないの?」
「確かにパイクは、フィンチ一族と折り合いがいいわけではありません。しかしナターシャは一族でもっとも、他種族への歩み寄りを重視してきた存在です。好悪よりも理想を取る。少なくとも、僕の知る彼女はそうです」
ナターシャはまだ顔を伏せて蹲っていた。私は記憶を反芻し、それからゆっくりと口を開いて、
「やっぱり私のせいだね。私が怯えたから、ナターシャは私を止めるのを躊躇った」
「――あなたの目を見て、私は自分の力を疑った」どこか独り言のように、ナターシャは応じた。「お母さまのことは尊敬してる。ずっと一族を、この世界の秩序を守ってきた。でもすべてが正しいわけじゃないって、いつからか思うようになった。与えられた力をどう使うべきなのか、自分なりに考えてきた。あなたを無理やりにでも止めるべきなのは分かっていたけど――できなかった。怖かったんだ、あなたにまた恐れられるのが」
ふふ、と彼女は自嘲気味に笑みを洩らした。
「可笑しいでしょう。所詮は化物なのに、怖がられるのが怖いなんて。あいつの言ったとおり、私たち一族は恐怖でこの世界を操ってきた。今さら否定するわけにはいかない。今の私を見たらお母さまは言うでしょうね――わたくしの娘なのに情けないって」
私はベッドを下り、壁際まで歩いた。それだけで視界が白み、猛烈な眩暈がした。ナターシャの隣にふらふらと座り込んで、
「私が奥方さまと問答したとき、ヒントを出してくれたよね。カリストフィアのほかの生き物たちのことも、ああやってこっそり手助けしてきたんじゃない? お母さんに正面から反対するわけじゃなくても、自分なりに正しいと信じることをしてきた。それは凄く勇気が要ることで――あなたはお母さんとはまた違う強さの持ち主なんだと思う」
「あなたがたまたま、上手く読み取ってくれただけだよ。謎が解けなくて酷い目に遭った人たちは数えきれない。私たち一族は、力を示した者にしか敬意を払ってこなかった。ルエルに対してもね。エスベンだけが特別。音楽家としての技量があるから」
頭を上げてエスベンを見た。私は額を掌で押さえながら、
「弦楽器の奏者なんだよね。でも儀式には参加してなかった」
「儀式に信仰心のない音楽家は必要とされません。お払い箱です。他種族のために得体の知れない演奏を続ける僕は、もうルエルたちの輪には入れない」
ナターシャとエスベンが通じ合う意味が分かった気がした。確たる思想に支配された集団から、弾き出された者どうしなのだ。
不意に頭痛の波が押し寄せ、私は低い呻き声を洩らした。ふたりが同時にこちらを振り返る。私はつい嬉しくなって、口許だけで笑んだ。蟀谷を指差しながら、上目遣いにナターシャを見て、
「私、もう一度パイクを助けに行きたい。友達だから。彼のことを信頼してるから。信頼してる人と一緒に、理宇を探したい。だからナターシャ、私からも毒を抜いてほしいの。今すぐに」
「やめたほうがいい。フィンチ一族の解毒法は――」
分かってる、と私は警告するエスベンを遮った。
「苦しんだよね。でもいいよ。私は、ちゃんと目を覚まさなくちゃいけないから。パイクみたいに我慢できる自信はないし、みっともなく泣き喚くかもしれないけど、それでもナターシャにやってほしい。ナターシャのことも信頼してる」
声は震えたが、そう言いきれた。決意が変わらないうちに立ち上がり、ベッドへと戻る。仰向けになり、深く呼吸した。
「いったん始めたら、どんなに苦しくても中断はできない。本当にいいんだね」
「お願い」
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