10

「どこでもいいでしょう」ナターシャが冷や水を浴びせる。「蜥蜴がいつから、あなたの所有物になったの?」

 は、とヒドゥルは唇の端を吊り上げた。最初に対面したときの恭しげな態度は、もうどこにも見えない。

「口出ししないでよ、蜘蛛女。私とパイクの問題なの。おまえには関係ない。それともおまえも、パイクに気があるの?」

「誰が」

 吐き捨て、ナターシャがこちらを振り返った。それから冷え冷えとした声音で、

「自分の意思くらいはっきり伝えたらどう?」

「もっともだ。聞いてくれ、ヒドゥル」パイクが声を張り上げた。「私はここを出ていく。君の許に残るつもりはない」

「ああ、パイク」とヒドゥルが嘆息する。「まだ実感できないのは無理ないこと。でもあなたは、ここにいる運命なの。〈大いなる意思〉がそうだと言っている。あなたにも聞こえたでしょう、〈大いなる意思の声〉が」

「君の盛った薬のせいだろう。ただの幻聴だ。私はもう正気に戻っている」

「薬?」

 ヒドゥルが両腕を広げ、肩をすくめる仕種をした。開き直っているようにも、質問自体を理解していないようにも見えた。彼女は淡々たる口調で、

「その娘も、あなたと同じものを口にした。でも〈大いなる意思〉の声は聞こえていない。なぜならその娘の役割は、ここで終わりだから。あなたを見つけ出し、この〈ルエルの園〉に連れてくること。遥か昔から定められていたことなの――ふたりの〈来訪者〉が導き手となる。私たちルエルはこの潮流を逃さない」

「意味が分からない」とパイクが断じた。「私と柚葉とでは体の作りも大きさも違う。柚葉には影響のない微量の成分でも、私には効いてしまう。それだけの話だろう。君たちがなにを信奉していようが、私には関係ない。興味もない」

「小さき者たちに力を。かつてアリオラにいたとき、そう言ったのはあなたでしょう、パイク。私たちだって本当は、ただ平穏に生きたいだけ。誰にも踏み躙られることなく、この小さな集落を維持したいだけ」

「勝手にそうすれば。誰も邪魔立てしない。蜥蜴を取り返して、私たちはここから消える。それで終わりでいいでしょう」

 口を挟んだナターシャに、ヒドゥルが鋭く視線を向けた。それから声を低めて、

「おまえには理解できないでしょうね。かのフィンチ家――カリストフィアでもっとも力ある一族の娘のおまえには。生まれながらにして力に愛されたおまえたちは、数えきれない犠牲のもと、繁栄を維持してきた」

「私たちは悪戯に誰かを傷つけたりしない」

「だから力を行使していないとでも? 誰彼構わず恐怖の糸で雁字搦めにして、思いのままに操ってきたくせに。力ある者たちの気分がふと変われば、簡単に縊り殺される。私たちはずっと、その感覚に支配されてきた」

 やり取りを聞きながら、私は奥方との問答を思い出していた。彼女があらゆる種族に対して同じ態度を取りつづけてきたのなら、そう受け止められても仕方がないのかもしれない。あのとき私を縛り上げていたのは、確かに死の恐怖だ。

 もしも私が掟を破っていたなら――奥方は、そしてナターシャは、宣言どおり私を襲ったことだろう。私は成すすべもなく苦痛の深淵に突き落とされ、怪物の一族を恨みながら死んだことだろう。

「人間の娘」

 ヒドゥルの声に、私は顔を上げた。虹色の瞳に意識が吸い寄せられた。

「あなたには、私たちの悲しみが分かるはず。ルエルは弱き生き物。石を離れては、生きることさえ儘ならない」

 彼女の腕が伸べられる。広げられた掌。細く白い指先。

「〈天眼の塔〉への道案内なら、私たちがしてあげる。シャグラットには私が手紙を書いてあげる――かつてアリオラにいた者として。それで用は足りるでしょう? パイクを連れていく必要はどこにもない。考えてみて。あなたには本当にパイクが必要?」

 気が付けば、肩に手が伸びていた。パイクの指先の吸盤を、服から引き剥がした。その体を掌の中に握り込んだ。ゆっくりと歩み出す。

「やめろ」とパイクのくぐもった声がする。「柚葉、やめるんだ。ヒドゥルの魔力に惑わされるな。私は君と行くと約束した。ここには残らないぞ」

「でも、やっぱり私より、ヒドゥルといたほうが――」

「幸せだと? 彼女と子供を拵えて、君に紹介するか? 冗談じゃない。私の幸せは、私自身で決める」

 ここでパイクを失うべきではない、と理性が警告する。しかしその声はあまりにも小さい。

 布の擦れる音がした。ローブを脱ぎ落したヒドゥルが、こちらへと歩み寄ってくるところだった。私は言葉を失い、パイクの体を掴んだまま立ち竦んだ。

 素肌――と呼ぶべきかは分からない。他のルエルと同様の、いや、それ以上の、あらゆる色味を抜き去ったような胸部。彫刻めいて硬質な、それでいてなだらかな隆起。

 その下、腹部のところどころに、植物が生い茂っている。体毛には見えなかった。むしろ欠落した箇所を、葉や蔓草が補填しているように思えた。枝や幹が骨の、蔓が血管の役割を果たしながら、肉体と分かちがたく共存している。

「ナターシャ」とパイクが叫んだ。「柚葉を止めてくれ。彼女は人間だ。魔力にまったく耐性がないんだ」

 びくりとして振り返った。私と向き合った瞬間、片腕を差し上げたナターシャが、射竦められたように動きを止めた。躊躇いを露わにした彼女に向け、パイクが声を張る。

「なにしてる。糸でも針でもいい。柚葉を――」

 ふふ、とヒドゥルがせせら笑った。

「パイク。蜘蛛の一族はあなたを憎んでいるの。あなたのために指一本たりとも動かすことはないの。この世界であなたを本当に愛しているのは、私だけ」

「畜生。柚葉、止まってくれ。冷静になれ。君には判断できるはずだ」

「私――」ひとりでに、言葉が唇から洩れ出す。「パイクを利用しようとしてるだけなのかも。きっと、理宇さえ助かればいいって思ってる。心からパイクを愛してるのは、ヒドゥル」

「ほらね。パイク、あなたは独りぼっち。でも安心して。私たちルエルが迎え入れてあげる。私たちはもうじき、新しい力を手に入れる。カリストフィアは生まれ変わるの。千年ものあいだ続いた、この旧い世界に別れを告げて、ね」

 ヒドゥルがゆっくりと、ナターシャにかしらを向けた。

「醜い蜘蛛。ほかの種族をさんざんに足蹴にした、呪われた一族。おまえたちの繁栄は、もうすぐ終わる。私たちは世界の歪みを正して、本来あるべき形に戻す。弱き者たちが安らかに生きられる世界に」

 いつの間にか、私は掌をまっすぐに差し出していた。目の前で、ヒドゥルが満足げに唇を湾曲させる。パイクの感触が失せた。ヒドゥルの手に移ると、その体は途端に自らを支えることを放棄して、ぐったりと蕩けたようになった。またしても意識を失ってしまったと思しい。

「ご苦労さま。あなたの旅は、これでおしまい」

 パイクを胸元に抱きしめたまま、ヒドゥルが悠然と後退した。影が向こう側の通路の薄闇へと溶け込む。重々しい音が響き、扉が閉ざされた。

 あはははははは――と笑い声が遠くに聞こえた。先程の小部屋で嗅いだのと似た、しかしずっと濃密な甘い香りが、どこからか流れ込んでくる。

 柚葉、と後方からナターシャの声がしたが、私は振り返らなかった。扉に縋りつき、吐きそうになりながら香りを貪った。鼻孔から雪崩れ込み、頭蓋の内側にまで染みて、じんと痺れるような快楽をもたらす匂い。夢中になった。

 やがて眠気が纏わりついてきた。ゆっくりと意識が遠のいていく。

 カリストフィアにやってきてからずっと全身に漲らせていたはずの力が、いとも簡単に抜けはじめる。しかし、それでいいという気分だった。ただこの香りに抱かれて、心行くまで眠りたかった。

 体がずるずると石畳へと崩れ落ちた。私は目を閉じ、闇の底で赤い花びらに包まれる夢へと沈んでいった。

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