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あ、ああ、と掠れた声でパイクが呻いた。普段ならばすぐさま肩に攀じ登ってくるところだが、今の彼はただ惚けているのみだった。視点が定まり切らない様子で頭部を彷徨わせている。酔ってふらついているような感じなのかもしれない。
「私が分かる?」
「分かるよ、柚葉だ。なにがどうなっているんだろう」
寝ぼけたような口調で答える。相変わらず私の掌の中で蹲ったままで、またすぐに眠り込んでしまいそうに見えた。
「まだ体に毒が残ってる」ナターシャがちらりと彼を覗き込んで断じた。「放っておいても抜けるけど、早めに解毒したほうがいい」
「そうしないと後遺症が出たりする?」
私の問いに、ナターシャはかぶりを振って、
「普通なら自然に治るのを待つかな。でも今は、暢気なことを言っていられない。これから脱出するのに、この調子じゃ心許ないでしょう」
「どうやるの」
「私に任せてもらえれば。ただし苦しいよ」
「どのくらい?」
「相当な荒療治。だけど仕方ない。私に蜥蜴を貸して。その棚の上あたりに置いて」
従うほかなかった。当のパイクはのそりと頭を持ち上げ、今まさに気が付いたような口調で、
「君はフィンチ家の――確か末娘だ。なぜ柚葉といる?」
「黙ってて」
パイクの体がひっくり返り、四肢がぴんと引き延ばされた。曝け出された白っぽい腹部を、ナターシャが人差指を添わせながら観察する。やがて場所を定めたらしく指を止め、
「いい? 今から毒をぜんぶ、無理やり吐き出させる。言っておくけど苦しいよ」
「なるほど。構わないよ、やってくれ」
状況を理解しているのかいないのか、舌が回り切っていないせいでそう聞こえるだけなのか、なんとも真剣味を感じさせない返答だった。かえって私のほうがはらはらしてしまい、
「パイク、頑張れる? 心の準備できてる?」
「私は大丈夫だ。本当は糸だって必要ない。暴れたりしないよ」
「どうだか」
ナターシャの声と同時に、パイクの腹部の一か所が僅かに凹んだ。針のようなものを打ち込んだのだと分かった。少し遅れて、彼の体が蠕動しはじめる。
なにか言葉をかけるべきかと思いながら、私はただその様子を眺めていた。いつ痛み出すのだろうか。本当に耐えられるのか。
「蜥蜴」とナターシャが低い声で問いかける。「感じてる?」
「効いているのか不安か? 安心していい、君の処置は完璧だよ」
平然たる声音だった。もう始まっていたらしい。しかしパイクがどういう感覚に見舞われているのか、外目にはまったく分からない。
「――痛むの?」
「ああ、とても苦しいよ。でも我慢できそうだ」
五分ほどすると、徐々に体の痙攣が収まった。ナターシャが糸を解くなり、パイクはぐるりと側転して普段どおりの姿勢に戻った。自身の体の感触を確かめるように頭部を上げ下げしたあと、
「助かった。だいぶ気分がよくなった」
するすると私の手を伝い、肩まで登ってきた。本当に久方ぶりに彼が定位置に戻ってきたように感じて、私はつい頬をほころばせ、
「お帰り、パイク」
「ただいま。心配をかけた」
「再会して早々、悪いけど」とナターシャが呼びかける。「一刻も早く、ここを出ていかないと」
足許の花を散らしながら小部屋を後にする。先程の広間に至るなり、ナターシャがぴたりと足を止めた。後方の私に鋭く視線を寄越しながら、
「壁に張り付いて、動かずにいて」
ゆっくりとした、それでいて隙を感じさせない動作で歩み出す。私は指示どおり壁際で立ち止まり、周囲を見渡した。遥か遠くにある天井、飾り柱、石畳……薄い赤色。
「私のパイクをどこへ連れていくつもり?」
反対側の通路の薄闇に、いつの間にか人影が浮かび上がっていた。ゆらゆらとこちらへ近づいてくる。ヒドゥルだった。虹色の光彩を爛々とさせ、私たちを見据えている。
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