7

 床の上で断続的に痙攣していた石像鬼は、いつの間にか完全に静止していた。蹲って体を丸めたそのさまは、単なる奇妙な大岩のように見える。

「元に戻った?」

「時間切れだね。石像鬼はもともと、長くは動けないんだよ。命のないものを、単純な命令で操ってるだけだから」

「単純な命令――」

 大岩を見下ろしながら発すると、ナターシャは冷たい声音で、

「誰かを襲え、とか」

 再び戦慄が這い上がってきた。膝が笑っている。

「話は後で。ともかく今は、ここを出よう。ルエルがなにを企んでいるか分からない。お母さまのあげた服は持ってる?」

「ある」

「着替えて。あれの力が必要だから」

 ナターシャが扉へと向かう。ドレスは背中側が大きく開き、肌が覗いていた。首の付け根からまっすぐ切り込みを入れたかのように、縦に大きな亀裂が走っている。最初は古傷と思ったのだが、どうやら後から付けられた感じではない。生来備わっている孔、器官の一種なのかもしれない。

「早く」

 急かされ、頭陀袋を掴んだ。追従して部屋を抜ける。暗がりに沈んだ通路は静かだった。私は速足に彼女に並び、

「待って、連れがいるの」

「人間? それともこっちの住人?」

「こっちの人。名前はパイク」

 ナターシャは私を振り返った。頭部には再び目隠しの布が巻かれている。

「蜥蜴?」

 問い質すような口調で思い出した。パイク――厳密に言えば彼のような生き物全般は、フィンチ一族に嫌悪されているのだった。軽々しく名前を出すべきではなかったのかもしれないが、今さら取り繕えるでもない。私は息を吸い上げて、

「うん。あなたたちからすれば敵かもしれない。でも私には彼が必要なの」

「案内役として? 相談相手として?」

「どっちも。でもそれ以前に、友達だから」

 一瞬の間があった。ナターシャは口調を崩さないまま、

「あの蜥蜴は、どうしてあなたの傍を離れたの?」

「お風呂に行って、戻ったら居なかった」

 彼女は吐息を聞かせた。

「どこに行ったか心当たりは?」

 少し迷ったが、けっきょくは正直に、

「ヒドゥルっていうルエルと一緒かもしれない。昔、どこかの寺院にいたころの知り合いだったって」

「ヒドゥル――ヒドゥルか」

 ナターシャが得心したように呟いたので、私は思わず、

「面識があるの?」

「直接はない。でも名前は知ってる。なにか気配を追う手掛かりがあればいいんだけど」

 あ、と発して立ち止まった。頭陀袋を覗き込み、弄る。底のほうに――あった。

「ちょっと待って。これは?」

 慎重に摘まみ上げ、ナターシャの顔の前に差し出した。部屋に落ちていた、薄赤い花びら。

彼女は指先でそれを受け取って、

「完璧」

 ナターシャの足取りが速まった。迷宮じみた通路を、迷いなく突き進んでいく。

 その背中を追いながら、私はパイクとの会話を思い出していた。視覚ではなく気配で個体を識別する。彼には明瞭な目印も、私には知覚できない可能性がある。ナターシャもまた彼女特有の感覚で、ヒドゥルの痕跡を探り当てているのだろう。

 出口が見えてきた。篝火かなにかが焚かれているらしく、その一帯だけがぼんやりと明るんでいる。緩やかな傾斜を駆けあがった。夜の大気が身を包むのを感じた。

「こっち」

 声と同時にナターシャの腕が伸びてきて、私の腰を抱いた。引き寄せられ、体が密着した。 

 直後、ふわりと下腹部を突き上げるような感覚が生じた。風が耳元で唸り、視界が激しく旋回する。ブランコのように弧を描きながら宙を舞っているのだと分かった。

 着地した。飛翔は一瞬の出来事だったのだろうが、無限に時間が引き延ばされたかに感じた。足許の硬さを確かめ、ある棟から別の棟へと飛び移った――のだとかろうじて理解した。今さらのように鼓動が速くなった。

 屋根の上というべきか屋上というべきか、広く平坦な場所に私たちは立っていた。相当な高さがあるのは間違いないが、頂上には程遠い。周囲にはより背の高い棟が散見される。

「力を抜いてて。落とさないから」

 ナターシャが再び、私の腰に腕を巻き付けた。もう片方の掌を上方に向ける。目に見えない投げ縄を飛ばすような動作をしたかと思うと、私たちの体はまたしても中空にあった。壁が凄まじい速度で迫ってくる。反射的に目を閉じ、ナターシャに縋りついた。

 動きが止まった。怖々と様子を確かめて息を呑んだ。切り立った石壁に張り付いている。現実には窓の庇ほどの恐ろしく狭い足場があって、そこに引っ掛かってはいるのだが、体感としては間違いなく壁に張り付いていた。恐怖に眩暈がした。

「大丈夫。糸はそう簡単に切れたりしない」

 宙吊りのまま、するすると下降していく。一連の活劇は蜘蛛の糸の力によって成されたのだとようやく得心した。高所を恐れないはずだ。蜘蛛の一族の娘なのだ。

「あなたはどうして、私たちを助けに来てくれたの?」

 少しだけ落ち着きを取り戻して問うと、ナターシャは例によって淡々とした声音で、

「蜥蜴のことは想定してなかったけど」

「じゃあ私を。ともかく、どうしてここに来てくれたのかなって」

「〈天眼の塔〉に行くと言ってたでしょう。なら間違いなくここに立ち寄る。最近ルエルたちの様子がおかしいって、エスベンに聞いていたから。なにかあるかもしれないと思って。フィンチ一族はあなたに永遠の敬意を払う」

 咽に熱いものが込み上げるのを感じつつ、ありがとう、と応じた。私は息を吐きだし、

「エスベンって? 音楽家――だったっけ」

「ルエルのね。楽器に私たちの糸を使ってくれてる、長年の顧客。個人的な友人でもあるかな。訊ねてくるたびにルエルの近況を教えてくれる」

 足が地面を踏んだ。とはいえ辿り着いたのは四方を壁に囲われた空間であり、奈落の底に降り立ったような感覚ばかりが強かった。首を反らせてあたりを見回した私を、ナターシャが振り返って、

「ルエルの砦は、場所によって高さがばらばらなんだよ。同一の階層だからといって、同じ高さにあるわけじゃない。今は基準階だけど、これからもっと下に行く。ヒドゥルと蜥蜴は、たぶんそこにいる」

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