6

 あちこちを見渡したが、少年の痕跡はもはやどこにも残っていなかった。階段を上がると、なんとなく見覚えのある光景が眼前に広がった。記憶どおりの場所にドアがある。安堵した。

「ただいま。パイク?」

 返答はなかった。色を変えて背景に溶け込んだまま眠っているのかもしれないと思い、少し声を大きくして呼びかけを繰り返した。やはり無反応である。

「パイクにちょっと話したいことがあるんだけど――」

 寝台の毛布を捲ったり、机や棚の上を探ったりしていると、視界の隅にふと、薄赤い色が飛び込んできた。ひらひらと空中で回転しながら、床へと落下していく。

 花びらだった。拾い上げ、顔を近づけて観察する。蠱惑的な香りがした。

 この部屋にも花瓶はある。しかし活けられている花の、どの色とも合致しない。匂いも違う。いったいどこから現れたのかと考えて、はっとした。

 ルエルの頭部の花だ。私が留守にしているあいだに誰かがこの部屋に入り、パイクとともに出ていった。推測に他ならなかったが、やがてそうとしか思えなくなってきた。

 パイクを連れ出すとしたら、まずヒドゥルだろう。かつて同じ場所にいた者どうし、旧交を温めたがるのは不思議でもなんでもない。関係が進展するならするで祝福すべきことだと、当初の私は考えていた。

 しかし奇怪な儀式を目の当たりにし、少年の警告を聞いてしまったいま、同じ感情を維持するのは難しかった。ヒドゥルという人物は私たちにとり、好ましからぬ誘惑者なのではなかろうか。

 しばらくのあいだ、ベッドに座って考え込んでいた。少年の言葉に従い、朝まで部屋に留まるべきだろうか。この状況で闇雲に動くのは悪手に違いない。おとなしく待っていれば案外、ひょっこり帰ってくるかもしれないのだから。

 しかし――そうならなかったら? ここでパイクを失えば、私は完全に進退窮まってしまう。カリストフィアの案内人にして、最初の友人。たとえいっときであれ、彼が無断で姿を消すとは考えにくい。いまこの瞬間にも、どこかで私の助けを求めているのではないか。

 ノックの音がした。私は弾かれたように立ち上がって、

「パイク? 帰ってきたの?」

「ああ。開けてくれ」

 どっと安堵が込みあげた。下手に動かなくて正解だった。

 ローブの前を改めて掻き合わせた。迎え入れようとドアに寄った瞬間、背筋に冷たいものが駆け上ってくるのを感じた。体が硬直する。息を詰めたまま、申し訳程度に備え付けてある鍵を見下ろした。

 パイクがどうやってドアをノックする? ヒドゥルと一緒なのか。だとしても、私になにも告げないのはおかしい。

 こん、と軽い音が響いた。ドアが幽かに震える。一瞬、少し位置を変えてノックを繰り返したものと錯覚しかけた。その程度の音、そして振動だった。

 ドアの取っ手と金具が跳ね上がった。外れて床に落ちた。虚しい金属音。

 あまりにも呆気なかった。鍵を外側から破られたという実感は、まるで生じなかった。

 私はただ茫然として、その場に立ち尽くしていた。ドアが押し開けられる。

 侵入者がこちらに頭部を向け、私を覗き込んだ。石像だ――ひどく歪な。

 ルエルたちとは似ても似つかない。蝙蝠のような猿のような、けだものじみた顔立ちだった。ぎょろついた目に、めくれ上がった唇。尖った耳。デフォルメの効いた造形だが、滑稽な印象はない。作り手の無邪気な、それでいて純粋な悪意を感じた。計算された醜さだ。

 全体に蒼白い体は、痩せ細って骨が浮いている。老婆のように腰を曲げているが、それでも私の身長を凌いでいた。体毛や鱗を思わせる装飾は見て取れない。やたら長ったらしい両腕を床まで垂らして引きずりながら、よろよろと這うようにして近づいてくる。

 平然と動き回っている。しかし生きてはいない。生命の気配は微塵も感じさせない。

 ――石像鬼。

 怪物が牙を剥き出した。金属を擦り合わせるような、耳障りな咆哮が響き渡った。

 悲鳴をあげた。かろうじて後退ったが、運悪く足がなにかに引っ掛かった。力とバランスとを同時に失い、後ろざまに転倒する。その勢いで背中を床に強打した。意識が遠のきかけた。

 石像鬼の顔が迫った。上下の犬歯だけが異様に長く、三日月状に湾曲しているのが分かる。鼻孔が膨張と収縮を繰り返し、口内では舌が蠢いてさえいるのに、息遣いがまったく伝わってこないのが却って恐ろしかった。耐えきれず涙が出た。

 腕ずくで床へと抑え込まれた。手足をばたつかせて抵抗を試みたが、抜け出せる気配はまったく無かった。相手は巨大な石像、翻ってこちらは、半裸の小娘である。力の差は歴然としていた。

 無力感に呑まれかけたとき、ふと石像鬼が顔をあげた。なにかに気を取られたかのような、緩慢な動作だった。

 はっとした。開けた視界の片隅に、天井を這う影が映り込んでいるのに気付いた。

 いや、影ではない。黒い塊だ。どこからどう生じたのかまるで分からないそれが、凄まじい勢いで落下してくる。

 途端、石像鬼が後方へと仰け反った。滑るように壁へと向かっていったかと思うと、そのまま音を立てて激突する。目に見えない力に引っ張られたかのようだった。

 石像鬼は奇妙に全身を折り曲げた姿勢で、苦しげに藻掻いていた。動けないようだ。拘束されている?

 やがて塊がふわりと床に着地した。こちらは動作のいっさいが悠然としていた。重力を操り、空中を自在に行き来できるのではないかと思った。

「立てる?」

 手を差し伸べてきた相手を、私は訳も分からずに見返した。全身が漆黒で統一されており、ところどころ覗いた肌の、色味を抜き去ったような白と鮮やかな対比を成している。

 奇妙なことに顔の上半分、目に当たる位置が布で覆い隠されていた。しかし口許と声の調子、そしてドレスめいた衣服の形状から、女性だと判断できた。

「ありがと――」

 応じかけた私を、女性が助け起こした。ほっそりとした、それでいてしなやかな力を宿した腕だった。全身の慄きこそ収まりきらないが、どうにか立ち上がることができた。

「あなたはいったい」

 声を洩らすと、彼女は幽かに唇を湾曲させて、

「私が誰か分からない?」

「うん、ごめんなさい」

 ためらいがちに告げると、相手はゆっくりと前髪を掻き上げた。黒い布が取り去られたとき、私は思わず息を詰めた。それから声を震わせて、

「ナターシャ?」

 彼女は小さく頷いた。八つの赤い目が宝玉のような輝きを湛えながら、私を映し返していた。

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