5

 壜と布、寝衣を纏めて部屋にあった頭陀袋に詰め、浴場へと赴いた。いちおうは若い女性であるという意識からパイクを連れずに出てしまったが、迷路じみた道を辿るうちに不安が込み上げてきた。圧迫感のある石壁のあいだを薄闇が満たしているばかりの空間は、なんだかピラミッドの内部を想起させて不気味である。余程のこと引き返そうかと思った。

 不意に視界が明るみ、ぽかんと開けた場所に出た。足許が四角く切り出してあり、緑色をした水が満たされている。洞窟にある水溜りをそれらしく加工した、といった風情だった。

 そっと掌を差し入れた。感触は確かにお湯だった。掬い上げてみると、はっきり透明である。エメラルドグリーンに見えるのは、周辺の岩との対比や光の悪戯のせいらしい。

 似た感じの浴槽が、同じ空間にいくつかある。順番に確認したが、ひとつが冷水であった以外は劇的な差異を見出せなかった。パイクにはこれを持ち帰ればいいだろう。

 脱ぎ落したドレスを石の上に畳んで置いた。ゆっくり浸かってみると存外に深く、場所によっては私の肩あたりまであった。ちょうどいい位置に体を落ち着け、背中を石壁に預けて目を閉じた。

 どのくらいそうしていたろうか。不意に後頭部に幽かな振動を感じた。はたとして目を開ける。身を固くして意識を集中させた。

 壁から伝ってくる。どうやら一定のリズムを伴って継続している。びりびり、びりびり……ゆっくりと打楽器を鳴らすような調子だ。ずいぶんと遠いらしく、音までは聞こえてこない。

 しばらくのあいだ、頭を壁に押し当てて様子を伺っていた。やがて私はお風呂から上がり、ルエルたちのローブとそっくりな着替えを身に纏った。ドレスと水を詰めた壜を袋に仕舞い、浴場を後にする。

 廊下に出ても、振動はまだ続いていた。微弱だが、壁に耳を近づければ察知できる。

 部屋へ引き返そうとして、方角を見失っている自分に気付いた。ただ道なりに来て、階段を下っただけのはずなのに、帰り道がまるで分からない。おろおろと周囲を見回したが、似たような狭い廊下と、どこかへ通じているらしい隙間がいくつも並んでいるばかりだった。

 腹を括り、音を頼りに進んだ。物音がするなら誰かいるだろう。おとなしく帰り道を訊ねようと思った。ヒドゥル以外のルエルでも、いちおうは言葉が通じるはずだ。

 音が次第に大きくなってきた。鼓を打ち鳴らすような低音に混じって声が聞こえる。反響と増幅を繰り返しながら、木霊のようにこちらへと流れてくる。少年とも少女とも取れる、性別不明の響きだった。

 ルエルたちの歌声だという確信があった。食事の前に唱えていた、あの不思議な文句に雰囲気が似ていたからである。あれに節をつけて音楽に乗せたら、きっとこんな塩梅になるはずだ。

 突き当りの空間から光と音が洩れ出ている。扉はなく、いくつかの影が蠢いているのが遠くからでも視認できた。慎重に距離を詰めていく。廊下の暗がりに留まり、壁に身を隠しながら内側の様子を覗いた。

 数名のルエルが踊っていた――一段高くなった舞台の上で。

 ローブをはだけさせ、白い素肌を晒している。上半身は人間のものに近いが、いずれも薄く平坦で、男女の別は判然としない。お互いに近づいたり離れたり、見つめ合ったり腕を絡めたり、どこか蠱惑的な動きだ。

 他のルエルがその様子を見上げながら歌ったり、楽器を奏でたりしていた。こちらは全員、ローブにすっぽりと身を包んでいる。大所帯だ。ざっと見渡しただけでも数十人。私たちを出迎えたのはごく一部だったらしい。

 特別な儀式の最中なのは、さすがの私にも分かった。外様の人間が見てよいものではないと直感していたが、同時に、目を逸らせない自分に気付いてもいた。私は幻惑されていた――呪術的なリズムに、歌声に、そして艶めかしい演舞に。

 ふたりのルエルが向かい合い、相手の首に腕を巻き付け、引き寄せる。花と葉と蔓草でできた頭髪が揺れる。湾曲した角が、上方からの光を鈍く照り返す。裸の胸どうしが重なり、やがて唇が近づいた――。

 その段になってようやく、すぐ近くに佇む気配を察知した。怖々と振り返ると、小柄な影があった。虹色の双眸で、じっとこちらを見つめている。

 子供のルエルだった。服装こそ大人たちと同様だが、明確に角が短く、頭部の花も小さい。人間の年齢に換算すれば十歳かそこらだろう。もっと幼いかもしれない。

 単に無垢で状況を理解していないのか、あるいは大人たちを呼ぶか否かを逡巡しているのかは、外目には分からなかった。私は少しためらったのち、屈んで視線を下げながら唇の前で人差指を立てた。沈黙を保ってくれるよう、視線で訴える。

 必死のジェスチャーが功を奏したのか、ルエルの子は黙っていてくれた。しゃがみ込んだ私に接近してきて、ローブの袖を引く。仲間と勘違いされているのかもしれない。

 内部へ導かれたらどうしようかと思ったが、幸い、ルエルの子は反対方面へと向かっていった。そっと腰を上げ、連れ立つような素振りで歩きはじめる。歌声が少しずつ遠ざかった。

 肩越しに、ちらりと後方を振り返った。途端、ルエルたちの踊りに夢中になって目に入らずにいたものの存在に気付き、心臓が跳ね上がった。思わず声を上げるところだった。

 儀式が行われていた部屋の、台座に飾られた像。見覚えがあった。あれは――。

「明日、できるだけ早く発たれたほうがいいです」

 唐突にそう、ルエルの子が言った。少年の声音に聞こえた。驚いて相手の白い横顔を見やると、彼は淡々たる口調で、

「次の角を曲がると階段に行き当たります。上れば元の部屋に帰れる。夜のあいだはもう出歩かないでください。いえ、決して戸を開けないで」

「それは、どういう――」

「明日の早朝に発つと誓ってください」

 気圧され、頷いた。少年は私に視線を寄越して、

「好奇心はときに、望ましくない結果をもたらす。ご存知ではないですか」

「それ――フィンチ家で聞いた」

「ならば忘れずにいることです。このカリストフィアにおいては」

 正面に階段が見えてきた。素っ気ない石段である。自分が下りてきたものと同じかは分からなかった。今はひとまず、彼を信用するほかないだろう。

「それからパイクに伝えてください。僕たちはもう、かつてのルエルではないと」

 え、と発して振り返った。通路の薄暗がりと、冷たい石壁。

 誰もいない――。

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