3

 カリストフィアの日暮れは鮮血のように朱い。上空では淡く薄らとしていたはずの太陽が、地平線に近づくにつれてその存在感を増して、一帯を照らし上げている。

 岩山にいる。景色はあまり変わらない。私よりずっと背の高い赤茶けた岩が、入道雲のようにあちこちから聳えている。どういう光の悪戯か、影の下りた箇所はくっきりと紫色だ。光と影の狭間で立ち止まると、自分の体がまるで違うパーツどうしを縫い合わせたもののように見えてくる。不思議な気分だった。

「あそこが入口だ」と肩の上からパイクが言う。「あれが〈ルエルの門〉だよ」

 確かに門に見えなくはないが、どうにも奇怪な造形物だった。岩のアーチが無数に連なったそのさまは、息絶えた巨獣の肋骨を思わせる。近づいた際にそっと触れてみると、表面は思いのほか滑らかだった。細かな粒子が指先に残った。

「ルエルは石切りの民だ。集落はその先だよ」

 アーチをくぐりながら緩い坂道を上った。やがて眼前に現れたのは、灰褐色の建物の群れである。遠目には巨大なひとつの塊としか見えなかったが、実際には複数の棟が複雑に重なり、繋がり合って、砦のような形状を成しているのだと知れた。いずれも石造りだ。これだけの石を削ったり積み上げたり――どれほどの労力を要したことか。

 一瞥、住人の姿はない。揃って中で休息しているのか、それとも警戒されているのか。

「誰もいないね」

 と見えたままを言えば、パイクが穏やかに、

「そのうち出てくる。あえて呼びつけたりしなくていい」

 出入口や階段、通路は無数だが、看板や案内板の類は見当たらない。この調子だと内部もおそらく、迷路のような造りなのだろう。勝手に入り込む気にはならなかった。自分の位置や方角を見失わない程度に、外側から様子を観察する。

 不意に、建物の隙間から影が飛び出してきた。驚いて立ち竦む。相手のほうから距離を詰めてきた。

 ずいぶんと長身だった。白いローブのような服装や、頭部に見えた花飾りから女性と短絡しかけたが、よく観察してみれば少年とも少女ともつかない薄い顔立ちをしていた。全体に希薄な印象の色合いのなかで、虹彩だけが宝玉めいた複雑な光を放っていた。

 明確に人間ではない。耳の上あたりから、山羊を思わせる渦巻いた角が生えている。髪に見えたものも実は密集した蔓草や葉であり、花飾りはその一部のようだった。植物と獣と人の奇妙な結合体――というのが精一杯の表現だが、それでなにを説明できたとも思えない。ローブに隠されているのは人肌なのか、木肌なのか、それとも毛皮なのか。

「――パイク?」

 と相手が発した。するりと腕が伸びてきて、私の肩からパイクを攫っていく。掌に乗せた彼に顔を近づけたかと思うと、唐突に驚くべき行動に出た。口づけをしたのだ。

 私の目には明確にそう映ったが、それが愛情表現としてのキスだったのか、あるいは彼ら特有の挨拶にすぎないのかは分からなかった。ただ見てはならぬものを見てしまったような感覚だけが生じた。

 相手はゆっくりと唇を離し、恭しげな仕種で掌に包み込みながら、

「パイク」

 と繰り返した。女性の声である。やはりなにやら浅からぬ関係があったのだと察し、いったんこの場を離れるべきかと逡巡していると、

「待ってくれ。いったん私を柚葉のもとに帰してくれないか。そこにいる子だ。彼女の肩に乗せてくれ」

 女性の双眸がこちらを見据える。私は身を固くしたが、なにをどう言い繕えるでもない。ただ茫然と突っ立っているほかなかった。

「彼女は私の友人――命の恩人だ。恩返しのために行動を共にしている」

 再び女性の腕が伸びた。パイクが私の肩へと置かれる。彼は見る見るうちに体色を変えて、姿を隠してしまった。

「恋人?」

 と小声で問いかけると、パイクは彼にしては珍しい、慌てたような口調で、

「違う。それ以前に、私は彼女と面識がない。本当だ」

「じゃあ――なんで?」

「彼女の行動はまったく予想外だった。正直なところ、食われるんじゃないかと思った」

 ぴったりと腹這いになり、私の肩にしがみついている気配があった。よほどのこと怯えているらしい。話が通じるのではなかったのか。

 ルエルの君、とパイクが呼びかける。

「たいへんに申し訳ないのだが、私は君を覚えていない。どこでお会いした? それから名前を教えてくれないか」

「アリオラの寺院で。名前はヒドゥル」

 と女性が即応する。パイクは視線を彷徨わせてから、ああ、と声をあげた。元どおりの色に戻っていく。

「アリオラ――あのときの? 思い出したよ。君はまだ、ずいぶん小さかった」

「あなたは変わらない。パイク、私はあなたがアリオラを継ぐものと思っていた」

「事情があったんだよ。アリオラにいたなら話が早い。私たちはシャグラットに会いに行くんだ。一晩、厄介になりたい」

 ヒドゥルと名乗った女性は小さく顔を上下させた。それだけでさっさと歩きはじめてしまったので戸惑ったが、パイクがすぐに、

「大丈夫だ。泊めてもらえるはずだよ」

 石段を上がっていくヒドゥルに追従した。トンネルめいた入口から、建物の内部へと入り込む。

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