8

 八つの目が瞬いた。

「いま、なんと?」

「姫室理宇。この世界に一緒にやってきた友達です。理宇と一緒でなければ、私は帰りません。ですから奥方さまへお願いします。どうか、姫室理宇がどこにいるか教えてください」

「それが」

 奥方の声が、色濃い煙のように耳朶に絡みつく。

「それが、あなたのご意思? このわたくしの言葉を聞いたうえでの結論なの?」

「そうです。なにかひとつしか教えていただけないなら、ほかの選択肢はありません」

 応答する声は震えた。まったく情けない。私は元来、勇気とは間遠い人間だ。今だって逃げ出したくて堪らない。それでも――こう言わなければ、一生後悔する。

 奥方は薄い唇を吊り上げて微笑した。その目のすべてが、歪んだ鏡のように私を映し返している。頭髪とも触手とも分からない、長くしなやかな鞭状の器官が、私の頬や額を撫で回すように蠢く。やがて、

「いいでしょう。その方のことをお想いなさい――できるだけ強く。あなたの記憶から、気配を探り出しましょう」

 頷いて、目を閉じた。幼少期からずっと傍らに居つづけてくれた少女のことを、一心に念じた。理宇。

「もう結構」

 目を瞬かせた。奥方は含み笑いをして、

「あなたの記憶はその方でいっぱい。おかげで、すぐに見つけ出すことができました。それではあなたのご友人、姫室理宇さまの居場所をお伝えしましょう」

 息を呑んだ。少なくともこの件に関しては、奥方が真実を把握しているのだという確信が胸中に生じていた。嘘を吐かれることもあるまい。遊びの一族の女主人というからには、ゲームの勝者には相応に遇するはずだ。

「この〈大いなる未知の庭〉を北に抜けたその先に、〈天眼の塔〉と呼ばれる場所があります。ご友人はそこに。自らの意思で赴いたわけではないご様子。今のところは無事でいるようですが――いつまでもそうとはお約束できません」

「〈天眼の塔〉……それは、どんな」

「質問は一度までです」

 と奥方。私は頷いて、

「失礼しました。どんな場所でも、私、そこへ行きます」

「素直な方。お節介でしょうが、道案内を連れられたほうがよろしいかと。あなたお独りでは、きっと〈大いなる未知の庭〉を脱することさえ覚束ない。あなたをここへ送り込んだというご友人にでも、ご依頼なさるべきでしょう」

「そのつもりです。彼がまだ、私に力を貸してくれるなら」

 賢明です、と言ってから、奥方は視線をドアのほうに向けた。私の耳には意味をなさない、しゅるしゅるという不思議な音を響かせる。すぐさま扉が開いた。なんらかの合図だったと思しい。

 ひらひらと布が宙を舞っていた。そう見えた。目を凝らせば、ビスクドールが着ているような雰囲気の、柔らかい色味のドレスだった。不可視の手で支えられてでもいるように、正しく立体感を保って浮かんでいる。

「わたくしたちの友情の印として、それを差し上げます。この世界でもっとも堅牢な、そしてしなやかな糸を使って繕わせた服です。あなたの身を守るのに、きっとお役に立つでしょう」

「でも、そんな」

「友情の印、と申し上げました。大変に失礼ですが、今のお召し物はこのカリストフィアの環境にそぐわしくありません。旅をなさるのであれば、なおさら」

 再びしゅるしゅるという音。失礼いたします、と耳元で別の――おそらくはナターシャの――声がした。立ち上がるように促される。ドレスは私の傍らで浮遊したままだ。

 間近に気配だけは感じるものの、ナターシャの姿はまるで見て取れなかった。彼女もまた母親と同様、蜘蛛と人を合成したような外見なのだろうかと想像した。

 不意に部屋の灯りが失せ、暗がりが戻ってきた。驚いて身を固くしていると、なにかに体を触れられる感覚が生じた。蝋のように白い腕だけが闇に浮かび上がり、私の着ているものを脱がせようとしていた。見る限り人間の腕だ。私は焦って、

「待って、やめて。自分でできるから」

「ごめんなさい。この屋敷ではお母さまが絶対なの。少しだけじっとしていて」

 困惑したが、やむなく為すがままにさせた。ナターシャのものらしい手は淡々と私を裸にし、真新しい服に着替えさせた。丁寧に靴まで用意されていた。終わると再び灯りがともった。振り返ったが、そこには誰も居はしなかった。

「よくお似合いですよ」

 と奥方の声が降ってきた。彼女の姿もまた、どこにも見えなかった。テーブルの飲み物もいつの間にか片付けられ、空っぽになった応接間の光景が広がっているばかりだ。

 体を捻りながら自身の格好を観察した。ドレスは程よくゆとりがあり、窮屈な感じはまるでしなかった。肌触りも滑らかだ。蜘蛛の糸のドレス――その不思議な品を、私は意外なほどに気に入りつつあった。

「ありがとうございます。大切にします」

 天井に向けて礼を言い、先刻まで彼女が座っていた席に向かって頭を下げた。ふふふ、と深みのある笑い声が響く。

「今日はずいぶんと楽しませていただきました。負かされたのは久方ぶり。フィンチ一族は永劫、あなたに敬意を抱きつづけるでしょう。ではそろそろ――お別れを。お行きなさい、勇敢な方。あなたの旅路に大いなる幸いのあらんことを」

 扉がひとりでに開いた。緊張が途切れ、その場でへたり込みそうになる自分を、懸命に叱咤した。最後まで礼儀正しく振る舞うべきだ。気まぐれで恐ろしい、しかし存外な優しさの持ち主でもある人の、そしてこの奇怪な蜘蛛の館の、来客として。

「さようなら、奥方さま。フィンチ一族に、大いなる幸いがありますように」

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