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 ぞわぞわと音を立てながら、床を、壁を、天井を覆っていた黒い影が、いっせいに退いた。同時に、壁際にぽつり、ぽつりと火がともった。蝋燭のぼんやりとした灯りが、応接間を照らし出す。テーブルの向こう側に佇んでいた奥方も、その真の姿を晒している――。

「お見事、お見事。まさか本当に言い当てるとは思いませんでしたよ、可愛らしいお客さま」

 声が上方から聞こえるのは、単に体が巨大だからだ。私の眼前にあるのは、鎧めいた突起を生やした、丸くぼってりとした腹部の、一部分である。光の当たり方によって茶色にも紫にも見える表層に、複雑に枝分かれした青い模様が、あたかも血管のように走っている。色使いこそ毒々しいが目の離せない、蠱惑的な抽象画のようだった。

 胴体の両側から伸びた棘だらけの手足は、高い位置で折れ曲がった形状も相まって鎌を思わせる。先端からははっきりと鉤爪が伸びているのが見て取れた――その黒々した艶めき。

 上半身はまだしも人間に近いが、悪夢めいた姿には違いない。構成するパーツも全体の印象も、明確に蟲である。それでいて、高貴な女性としての存在感を備えてもいる。畏怖した。私は息を呑み、声もあげられなかった。

 奥方がこれ見よがしに、私に向き直った。おかげで、といっていいものか、細部がより鮮明に観察できるようになった。

 絶妙な形状の棘や突起や襞が、首飾りやドレスや冠を形作っている。豪奢な装飾に縁取られた顔は白く、仮面か彫像に似ている。これといった表情は読み取れない。影の姿でいたときと同様、妖しげな気配を漂わせているばかりだ。

「驚かせてしまった? ごめんなさいね。でも、これがわたくし。蜘蛛の一族の女主人、メリンダ・フィンチ」

 その顔の、人間との最大の相違点――八つの目が光を宿した。緩やかな曲線を描くように配置されているせいか、中央のふたつが大きく、端に向かうにつれて小さく見える。しかし輝きは均一である。同じ箱に収められた宝玉のようだった。

 いつの間にか、体の圧迫感も去っていた。糸が解かれたのだ。途端に力が抜けかけたが、かろうじて体勢を維持し、相手を見返しながら、

「約束を守っていただけますね。奥方さま」

「もちろんですとも。わたくしは潔く、負けを認めます。事前のお約束のとおり、あなたのお知りになりたいことをひとつ、お教えしましょう。なにを選ぶかはあなたの自由。でもその前に少し、わたくしの話を聞いてくださらない? あなたにとって、決して損ではないはずです」

「――はい」

 奥方の頭部がぐるりと動いて、カーテンに覆われた窓のほうを向く。

「あなたの想像するとおり、わたくしたちは長く、この地に住まっています。今は千年の平和のさなか――フィンチ一族の歴史においても、もっとも穏やかな日々です。しかしわたくしたちは知っています。平穏というものは、永遠には続かない」

 低い声だった。奥方の目が再び、私を見据える。

「わたくしたち一族が今日まで生き延びてこられたのは、ひとえに感覚が鋭敏だからです。あらゆる変化を、気配を、危機を、いち早く察し、対策を練ってきたからなのです。このわたくしもむろん、フィンチ家の現当主として相応の感覚を有しています。そのうえで申し上げるのですが――一ノ瀬柚葉さま。あなたは一刻も早く、このカリストフィアを去るべきです」

 どう返答してよいものか分からず、私はいったん唇を引き結んだ。奥方はいったい、なにをどこまで掴んでいるというのか。

「具体的なことはまだ、お伝えできません。あくまで予兆、直感の類でしかないことを、わたくしは否定しません。しかし予言します、このカリストフィアにいま、邪悪な意思が迫りつつあると」

「邪悪な?」

 と鸚鵡返しした私に、奥方は正体を露わにして初めての笑みを見せ、

「このわたくしよりも邪悪なものがあるのかと、あなたは思っておいでですね。この姿では無理もないこと。しかし申し上げておきますが、わたくしたちフィンチ一族は一度たりとも、この世界を滅ぼさんとの野心を抱いたことはありません。当然ですとも。しかしいま迫りつつあるものは、どうやらそうではない。この場所に留まれば、あなたも遠からず、争いに巻き込まれるでしょう。それは本意ではないはず。違いますか?」

「もちろん、そうです」

 慎重に応じると、奥方はどこか満足げに、

「結構。わたくしはあなたに、帰り道を示すことができます。このカリストフィアを抜け、あなたの元いた世界へと繋がる道の在り処を、お伝えすることができます。あなたが望むならば――ですが」

 奥方が頭部を下げ、私を覗き込んだ。白い仮面じみた顔が間近に迫る。

「さあ、いかが。心はお決まり?」

 牙が剥き出された。三日月状に湾曲し、禍々しいほどの光を放っている。私は大きく息をしてから、

「――姫室理宇の居場所を教えてください」

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