5

 囁き声だったが、確かにそう聞こえた。横目で様子を伺う。ナターシャが……私に警告している?

「私はお母さまの命令に逆らえない。身が可愛かったら、これ以上口を利かないで」

 グラスが傾き、粘度の高い液体が口内へ流れ込んできた。鼻孔へと突き抜ける刺激。かろうじて嚥下すると、舌が、咽が、胸が、順々に痺れ、焼けるように熱くなった。咳き込みそうになるのを必死の思いで堪える。涙を滲ませたまま、小声で、

「どういうこと?」

 返答はなかった。しかし彼女が離れ際に発した赤い瞬きを、私は視界の隅に捉えることができた。確かな意思を宿した光。一、二、三、四、五、六、七……八。

 八個だ。この数字の意味するところを察して、私は顔色を失った。

 空白になった意識に、黒々たる絶望が流れ入ってくる。ほかはなにも考えられない。

 私はすでに八回、フィンチ家の掟を破っているのだ。もう後がない――取り返しがつかない。

 理由はさっぱり分からない。確実なのは、このままでは最悪の結果を招くということだけだ。

 奥方ははっきりと、襲う、と宣言した。いざとなれば、躊躇なくその通りにするだろう。生きてはいられまい。いや、楽に死ねるとさえ思えない。どれほどの苦悶が訪れる? どれだけの時間がかかる? 想像しがたい深淵を想像しながら、私は嘔吐の衝動を抑え込もうとしていた。

「嘘、嘘、信じられない、こんなの」

 唇の中だけで呪詛のように繰り返した。掟破りと見做されるほどの非礼は働くまいと高を括っていたが、とんでもない見当違いだった。この世界に人間の常識を当てはめようとしたのが、そもそもの誤りだったのだ。

 いつの間にか、奥方は語りを再開していた。なんらかの手掛かりが潜んでいる可能性は大いにあり、だからこそ聞き取ろうと躍起になるのだが、言葉は面白いほどに耳をすり抜けていくばかりである。認識を司る機能が丸ごと停止してしまったかのようだった。

「あら、またずいぶんと緊張なさって。可愛らしい方。お飲み物のお代わりは?」

 反射的にかぶりを振ってしまってから、失敗を悟った。再びナターシャを呼び寄せる絶好の機会だったではないか。一言二言であれ、再び言葉を交わせたなら、なんらかのヒントを引き出せたかもしれない。

 訂正できずにいるうち、奥方はあっさりと、

「そう。では次はどうしましょう。別のお話を致しましょうか? それとも、もう正解がお分かりになった?」

 答えに窮した。ナターシャからは喋るなと言われた。下手に言葉を発すれば、いっさいが終わってしまいかねない。しかしなんの態度も示さなければ、それはそれで非礼に当たる気がしてならない。どうする。背筋が震えはじめた。

「まだならば、まだで結構。たっぷりと楽しみたいものね。ねえ、ナターシャ」

「――はい、お母さま」

 ナターシャの声は、僅かに遅れた。私は慎重に、上目遣いで天井の様子を観察した。光はまだ、八個だ。奥方の背後で瞬いている。私を急かすように。

「次にお聞かせするお話は、なにがいいかしら。ナターシャ、なにかある?」

 ふと思い付いたように奥方が発する。ややあって、

「はい、お母さま。お屋敷に飾ってある絵のお話はいかがでしょう。どんな絵描きの筆でも描き出せない、あの見事な――」

「自慢めいて面白くないわ。ほかには?」

「では家具。お掛けいただいている椅子のお話はいかがですか。その心地よさといったら、いったん腰を下ろしたら離れられません」

「似たようなものでしょう。ほかには?」

「お出ししたお飲み物についてのお話はいかがですか。フィンチ家特製、この屋敷に材料はすべて揃っています」

 奥方は大袈裟に嘆息した。呆れを滲ませた声音で、

「あなたはやはり、おもてなしには向いていない。このわたくしの娘でありながら――情けない。申し訳ありませんね、お客さま。悪い娘ではないのですが、口下手で」

 いいえ、と応じながら、私はぞくぞくと胸に込みあげるものを感じていた。鈍感と話下手を装ったそのやり取り――彼女が伝えんとしたことを、私はきっと受け取れた。頭の中でピースが組み上がっていく。

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