3

 彩度の低い、陰鬱な場所だった。目に付くあらゆるものが暗色に沈んで見え、古びた写真の世界に迷い込んだようである。自分の掌や体を見下ろしてみると普段どおりの色合いだから、光が届いていないわけではないらしい。

 玄関へと至る遊歩道の両側を庭木が飾っていたが、いずれも枝振りが奇妙だった。骨ばった掌が宙に向けて突き出しているような形で、不意にこちらに掴みかかってくるのではないかと不安になる。単なる節や瘤が関節に、尖った枝先が爪に、見えてきて仕方がなかった。

 浅く呼吸しながら、なるべく平静さを保って歩きつづけた。屋敷の中から、誰かが様子を伺っていないとも限らない。余計な警戒心を抱かれたくはなかった。

 母屋に近づいた。縦長の窓々には、ステンドグラスめいた色硝子が嵌っている。精緻な装飾が彫り込まれた両開きのドアの前に至った。ノックする。

「お待ちしておりました」と女性の声で返答があった。「お入りください」

 お邪魔します、と言ってからゆっくりと扉を開けた。中は暗いままで、誰が出迎えてくれるでもない。顔を傾けて声の主を探したが、それらしい姿はどこにも見えなかった。

「どうぞ、お進みください」

「怖がることはございません」

「我らフィンチ家一同、来訪者さまを歓迎する所存でございます」

 微妙に響きの異なる複数の声が、ざわざわと重なった。天井から、壁から、床から、不思議なものでさまざまな方向から聞こえる。思わず耳を欹て、あたりを見渡した。

 分厚い色硝子越しの鈍い光線が、ぼんやりと室内を照らしている。まず目についたのは前方の階段だが、緩やかに湾曲しているせいで玄関からでは上の様子は望めなかった。側方に回り込んだら回り込んだで、王冠めいた形状のシャンデリアや壁に視界を遮られてしまう。

「そのままお上がりください」

 今度の声は頭上から響いた。一階の奥にまた別の扉があるのを発見していたが、案内を無視するのも気が引けた。意を決し階段へと向かった。

「そう、そちらです」

 踏板には色の濃い絨毯が敷かれており、足裏に伝わる感触は柔らかだった。手摺を掴んで上っていくと踊り場に行き当たった。窓の下に絵が飾ってある。木々の下陰に包まれた物静かな泉の風景に思えたが、ふと見方を変えれば全体が意味を失って抽象画に変わってしまうようでもある。そよぐ葉や漣を立てた水面と、砂嵐めいたノイズ――視覚を幻惑へと突き落とす趣向だ。

 眺めているうちにはっとした。絵自体が蠢いている?

 カーテンが風になびくような動き方だ。硬いキャンパスに描かれた絵ではなく、精緻な織物なのだとその段になって気付いた。なんという技術。

 絵織物の前を離れ、二階へ上がった。最初に行き当たった扉に近づき、手をかけたが、なんとなく違う気がして開く気になれなかった。ただじっと立ち止まっていると、

「賢明です」

「開けてはいけない扉ですか」

 と怖々、天井に向けて問いかけてみた。ややあって、

「好奇心はときに、望ましくない結果をもたらします。奥方は応接間でお待ちです」

 黙って後退った。廊下を進んでいくと、重厚そうな両開きの扉に行き当たった。ここで間違いないだろうか。手前で迷っていると、ひとりでに内側に開いた。

 濃密な闇に満たされている。それでいて多少は目が利いた。確かに応接間である。長細いテーブルに、等間隔に並べられた椅子。壁際には柱時計や扉付きの棚、革表紙の収められた書架などもあった。

 広々たる空間のもっとも奥に、ふと気配を感じた。視線を向ければ、いつの間にか、より深い闇色の影が佇んでいた。私は息を呑んだ。

「ようこそ、フィンチ家へ。謎と遊びの一族の館へ。あなたはたった今から、わたくしのお客さまです」

 深みと貫録のある、それでいて粘りつくような声だった。確かに距離があるはずなのに、耳元を吐息でなぶられたかに感じ、背筋がぞわついた。

 初めまして、と言いながら頭を下げた。緊張と不安とで心臓が跳ね上がっている。意味の分からない発声になってはいなかったかと冷や冷やした。

「ちょうど退屈していたところです。お付き合いいただけるなら、どうぞ、お掛けください」

 やはりひとりでに、椅子が動いた。奥方の真正面の席だ。腰を下ろすまでの私の動作は、発条仕掛けの人形のようだったろう。姿勢を正して向かい合った。

 奥方の姿は影のままだった。輪郭さえ判然とせず、ただ気配としてのみその存在がある。女性で、少なくとも私よりは年上で、おそらく長身。察せたのはその程度だった。

「一ノ瀬柚葉と申します。よろしくお願いします」

「柚葉さまね。お会いできて光栄です」

 ふふ、という笑い声のあとに、彼女は名乗った――メリンダ・フィンチ。

「そう緊張なさることはありません。どうぞごゆるりとなさってください。このフィンチ家への、久方ぶりの来客なのですから」

「久方ぶりと言いますと」

「そうね。最後のお客はいつだったでしょう。ナターシャ、あなたは覚えている?」

 まだ夏でした、とまったく想定外の方向から声がした。若い女性のものだ。頭上から降ってきたように感じて反射的にかしらを向けたが、誰も居はしなかった。ただ昏い天井が広がっているのみである。

「音楽家のエスベンが。弦が欲しいと」

「そうだった。あなたが用意してあげたんでしょう。さぞいい音が鳴ったでしょうね――フィンチ家の娘の拵えた弦だもの」

 会話の最中、不意に天井の一か所がぼやりと赤く光った。蝋燭の火程度の大きさに見えたが、正体は分からない。消えずに灯りつづけている。

「あの、娘さんもこのお部屋に?」

「ええ、ずっと傍に控えさせています。そうそう、ナターシャ。お客さまにお飲み物をお出ししなさい。せっかくですからね」

 はい、お母さま、と返答があった。赤い光がするすると下降したかと思うと、私の席へと近づいてきた。気が付けばテーブルの上に、やはり赤い液体で満たされたグラスが置かれていた。

「ありがとう、ナターシャ。どうぞお客さま、お召し上がりを」

 熟した果実のように甘く濃厚な、そして酩酊を誘う香りが漂ってきた。グラスを手に取り、唇をつけて一口だけ飲むふりをした。それだけで昏倒してしまいそうになった。

「詳しくないのですが、お酒でしょうか」

「フィンチ一族はみな、これが大のお気に入り。あなたもお気に召したでしょう」

 どうにか平静を維持して笑んでみせた。さりげなく頭上を観察すると、すでに元の位置に戻っていた光が、今はふたつ……いや、三つに増えていた。

 あれはなんだ。フィンチ家の娘、ナターシャが灯しているらしいことは分かる。しかしなんの意味があって? 照明には光量が足りない。ではなにかの合図?

「改めまして、お客さま。このフィンチ家にお越しいただいたのは、なにかご事情が? どなたかのご紹介があって?」

 パイクの名を出そうとして、はたと口を噤んだ。嫌われていると言っていた。うっかり奥方の機嫌を損ねるような真似は避けねばならない。

 私は慎重に、

「こちらに来て最初に出会った友人の紹介です。この世界にやってきたばかりで、なにかと勝手が分からないと相談したら、だったらフィンチ家の奥方さまがなにか教えてくれるかもしれない、と」

「そう、素敵なご友人だこと。ねえ、ナターシャ」

「はい、お母さま」

 相変わらず相手の表情は読めないままなのに、こちらを見詰められている感覚がはっきりとあった。大丈夫、嘘は吐いていない。言葉を選んだのみだ。

「聡明なご友人の仰ったとおり、わたくしにはあなたにお教えできることがあります。しかしながら、条件があります。それでも構わない?」

「はい。どんなことでしょう」

 奥方は短く笑った。

「このわたくしから真実を引き出すために――ちょっとした戯れにお付き合いいただきたいのです。あなたが勝ったら、わたくしはひとつだけ、あなたのお知りになりたいことをお教えしましょう。よろしいですか、ひとつだけですよ」

 黙って頷いた。奥方は満足げに咽を鳴らしてから、上方に声を響かせて、

「ではナターシャ、準備なさい」

「はい、お母さま」

 赤い光が接近してきた。今度は横並びに四つ。座ったままの私の傍らで、ぴたりと静止する。特別な指示も無いので、ただ同じ姿勢を維持して光を眺めていた。

 眼――だろうか。暗闇に浮かぶ異形の眼というイメージは、この奇怪な屋敷にいかにも似つかわしかった。恐怖心は無論のこと生じていたはずだが、不思議なほどその実感は乏しかった。この私が凛々たる勇気を奮い起こしえたわけもないから、きっと感覚が麻痺していたのだろう。

「準備が整いました、お母さま」

「そう、ご苦労さま。ではお客さま、さっそく始めましょうか」

 カードなり盤と駒なりが用意されるものと予想していたが、机の上は空っぽだった。なにも使わずに遊べるゲームなのか。

「私はここで座ったままでいいんですか?」

「ええ、もちろん。大切なお客さまのお手を煩わせることはありません。あなたは指一本たりとも動かさなくて結構。ねえ、ナターシャ」

「はい、お母さま。そのように致しました」

 光が蠢いた。五つの塊となったそれが宙を滑るように離れていくのを見ながら、気が付いた。足が、手が、動かない。この段になって初めて、私は愕然として、

「――なにこれ」

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