Chapter II: The Great Unknown

1

 斜めに射し入った陽光が、木々を柔らかく照らしている。秋の夕暮れ。

 すぐさま秋と分かったのは、一帯が落ち葉に降りこめられて、薄茶色に染まっていたからだ。踏みしめるとかさこそ音を立てて、なんだかくすぐったいようだった。

 ゆっくりと振り向いてみたが、通り抜けてきたはずの窓も、妖精の廃墟も、すでに存在しなかった。背の高い木立がただ延々と、光の向こうに薄れて消えるまで広がっているばかりである。

 ここは私の知る世界ではない。窓は異界への入口だった――僅かに冷たさを孕んだ森の気配に身を浸しながら、私はそう結論していた。季節が真夏から秋へと即座に移行するという奇蹟が起きたとしても、あの森がこうも様変わりするとは考えられない。なにが違う? なにもかもだ。

 ともかくも歩きはじめた。方向は出鱈目だ。現在地がどのあたりなのか、奥へ向かっているのか出口へ向かっているのか、そういったことは知りようがない。これが空き家の床で、あるいは電車に揺られながら、うたた寝の合間に彷徨いこんだ夢幻であるなら、じきに目が覚めるだろうと自分に言い聞かせた。今はただ成すべきことをしよう。理宇。

 彼女がここに来ているという確信はあった。あの魔法の瞬間、部屋じゅうに舞い散った白い粒子が理宇の体を繭のように包み込むのを、私は見たのだ。驚きに見開かれた目。こちらに伸べられようとした手。すべてが一瞬の出来事だった――。

「君、頼む。助けてくれ」

 不意にそう呼びかけられた気がして、立ち止まった。むろん理宇ではない。くぐもった男性の声で、苦しげに呻くような響きを帯びていた。非常事態と察して周囲を見渡したが、それらしい人の姿はない。

「本当に私の声が聞こえるのか? だったらお願いだ。私の上に乗っている石を退けてくれないか。抜け出せないんだ。頼む」

「石?」と繰り返した。「どこ? どれを退かすの」

「足許だ。どうか踏み潰さないでくれ。私は君よりずっと小さいんだ」

 確かに声は下方から聞こえていた。ひとまず言われたとおり、慎重に屈んで視線を低くした。注意深く探してみると、まもなく枯葉に覆われた平たい石を見出せた。拾い上げる。掌にすっぽり収まる程度の大きさだが、存外に重い。

「ありがとう、助かった」

 という言葉と同時に、石の下の地面が色を変えた。立体感まで生じた。するすると蠢いたかと思うと、やがて奇妙な爬虫類のような生き物の姿になった。私は息を詰めた。

 どことなくカメレオンに似ている。やたら大振りな頭から飛び出した巨大な丸い目、くるりと巻いた長い尾。ずんぐりとした胴体と四肢は緑色の鱗に覆われているが、おそらく周囲に合わせて擬態できるのだろう。ところどころに木の葉の色味がまだ残って、まだら模様になっていた。

 そのまま逃げずにいる。やがて瞳を回転させながら、ちょろちょろとこちらへ歩み寄ってきた。どうやら本当に、これが声の主らしい。

「改めてお礼を申し上げる。私の名はパイクだ。ぜひとも君の名前を聞かせてほしい」

「私?」

「そうだ。私の命の恩人だからな。君が助けてくれなければ、私はあそこで干乾びていた」

「別にたいしたことは。ええと、名前は一ノ瀬柚葉」

 なにに驚いているのか判然としないまま、応じた。カメレオンが人の言葉を操ったことに対してなのか、あるいはその、不思議なほどの礼儀正しさか。

「そうか、一ノ瀬柚葉というのか。ありがとう」

「呼ぶときは名前だけでいいよ。柚葉で」

「柚葉か。理解した。君の目に、私は不気味な生き物かもしれないが、感謝していることだけは伝わってほしい」

「伝わってるよ。あなたのこと、気味が悪いとも思わないし」

 パイクはまたくるりと目を回した。そうなのか、と応じる口調が少し嬉しげだったので、私はつい頬を緩めた。慰めたかったわけではない。単に生き物が好きなのだ。

「ええと、パイク。私からも、あなたに訊きたいことがあるんだけど、いい?」

「もちろん構わない。私が知ることはそう多くないが」

 言いながら、パイクは近くの木に取りついて登りはじめた。蠕動しながら滑っていくような、凄まじい早業である。見失いかけて立ち上がると、彼はちょうど目の前にいた。上下逆さの姿勢で器用に枝にぶら下がって、こちらに頭部を向けていた。

「このほうがよく顔が見える。それで、訊きたいこととは」

 なにから問おうかと迷った。パイクはただじっと、私を見返している。

「私の他に女の子を見なかった? 同い年で、私より少し小柄な子」

「いや、見ていない。人間に会ったのはこれが初めてだし、それとすまないが、小柄と言われても私には分からない」

「ごめん、確かにそうだね。あなたから私たちは同じに見える?」

「視覚でも違いはあるていど分かるが、もっぱら気配で識別する。種族も、個体も」

「そうなの。じゃあ――ほかに人間の気配を感じたことは?」

「君以外にはない。逸れてしまったのか?」

「うん。同じ窓をくぐってきたから、近くにいると思ったのに」

 ふむ、とパイクが首を傾ける。ヴィデオの早回しと一時停止を繰り返すような、かくかくとした動き方だった。

「やはり君は〈来訪者〉か。君の尋ね人の名は?」

「姫室理宇。〈来訪者〉っていうのは――私みたいに、現実からやってきた人ってこと?」

「君たちの世界を現実と定義するならば、まあそういうことになる。向こう側から現れた者たちを、我々はそう呼ぶ。なかなかに珍しいことではあるがな」

 ならば妖精たちも〈来訪者〉ということになるのかと考えたが、ひとまずは言及しなかった。代わり、

「ここはどこなの?」

「カリストフィアだ。夢の地、魔力の地。そして千年の平和の地だ」

「カリスト――なに?」

「カリストフィア。ここが万人にとって楽園だなどと言うつもりはないが、少なくとも安全だよ。今やってきた君と友人は、運がいい」

 聞いたばかりの地名を繰り返した。カリストフィア。

「それは国の名前?」

「世界全体の呼び名だ。いま我々がいるこの森は〈大いなる未知の庭〉という」

 安全との言葉に胸を撫で下ろしかけたが、いや待て、余所者の私にとっても真実とは限らない。それ以前に当のパイクとて、石に潰されて死にかけていたではないか。

「先ほどのあれは単なる失態だ。誰のせいでもなく、私が不運だった。それだけだ」

 内面を読み取られたようでぎょっとした。パイクはまた首を動かして、

「強調しておきたいのは、ここの者たちに害なす奴らはもういない、ということだ。連中はこの地から去り、千年にわたって訪れてはいない。だから大丈夫なんだ。君の友人も、きっと無事でいるさ」

 理宇の顔が脳裡に甦った。私は吐息し、

「そうだといいけど。どこをどう探せばいいか、手掛かりはないかな」

「このあたりで君に道を示せそうな者といえば――思い当たらないでもない」

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