第39話 CRASH!!
「前の回に話した通りだ。この回先制点を奪って試合の主導権を握る」
明姫月の攻撃をテンポよく退けた蘭華ナインは、ベンチの前で大柿紫の指示を仰いでいた。
「そのために各打者対策を徹底して打席に立って欲しい。狙うべくはあの高速スライダーだ。ストレートは捨てていい」
「『はいっ!!』」
足並みの揃った返事で短いミーティングを終えた蘭華の選手たちは、颯爽と攻撃の準備に移っていった。
明姫月の頭脳である津代葵に余計な違和感を与えないように。
「────この回もしまっていきましょう!!」
津代葵の掛け声から4回裏蘭華女子の攻撃が始まった。
その回の先頭で打席に入ったのは1番打者の鳳ひしろ。彼女は2年生ながら俊足好打の内野手として公式戦の出場経験もあったため、葵も打撃データは頭に入っていた。
1打席目は3球連続でストレートを投じ空振りの三振に打ち取っている。そのため、ストレートへの警戒は特段強いだろう。まずはそれを利用してカウントを稼ぐ。
そんな狙いから葵が出したサインは低めいっぱいへのスライダーだった。
「ふぅ……」
莉緒菜も迷うことなくそのサインに頷き、大きく振りかぶる。前のイニングと変わらぬ淀みのない投球フォームから放たれた1球は、狙い通りストライクゾーンの中で鋭く沈んだ。
「──っ!?」
しかし、ここで葵の想定外のことが起きる。
明姫月バッテリーが確実に見逃すだろうと想定していた1球に対して、鳳ひしろは迷いもなく力強いスイングをかけた。
それも、ストレートに対してではなく、初めからその1球が変化することを悟っていたかのように。
「ファールボール!!」
警戒していないハズのスライダーにタイミングまで完璧に合わされたが、間一髪そのスイングは白球の下へ潜り、打球はファールゾーンへと飛んでいった。
「……」
葵はまず、単調にスライダーを要求したことを悔いた。しかし、その上で尚脳裏で膨らんでいく違和感を拭いきれずにいた。
蘭華ほどの強豪チームの選手なら、前の打席結果を利用するような配球に慣れていたのかもしれない。仮にそうだったとしても、鳳ひしろに対してスライダーを投じたのはこれが初めてだった。初見の変化球に対して、いきなりタイミング良く強振できるものだろうか。打者のスイングがスライダーの軌道の下を通ったのもこの試合中初めてのことだった。
もしかしたら、この打者は莉緒菜ちゃんのスライダーに合っているのかもしれない。
葵は一度そう過程して、即座に次の配球へ思考を移した。
もし本当にこの打者がスライダーに合っているのだとしたら、1打席目に三振を取ったストレートで反応を見てみようと、外低めのボールゾーンにミットを構えた。
「ふッ!!」
葵はボールゾーンにミットを構えていたが、その1球はわずかに横にぶれ、ストライクゾーンの内側に入った。
“やられるッ!” と。
一瞬、葵は肝を冷やしたが、打者はこれといった反応も見せずにその1球を見送った。
「ストライク! ツー!!」
高さは低めいっぱいだったが、コースは真ん中に近い1球だった。ストレートは1打席目で3球も投じているため、積極的に振ってくるかと思っていたが、またしても葵の予想とは違う結果になった。
“何かがおかしい”
この回打者2巡目に入って明らかに蘭華の打席アプローチに変化が起きている。それが、大柿紫が指示したチーム全体の戦略なのか、鳳ひしろ個人の変化なのか、葵もこの時点ではまだ掴みきれずにいた。
とはいえ、これで2ストライク。追い込んでしまえば厳しいコースの球にも手を出さざるを得ない。そうなれば、ここまで4球見せているストレートで勝負するよりもボールゾーンへ落ちるスライダーで空振りを誘うほうが安全だろう。
葵のその
「ふぅッ!!」
白球が莉緒菜の指先を離れた瞬間、葵は彼女のコントロールミスを悟った。
ボールゾーンに要求したはずのスライダーがわずかに高く浮き、ストライクゾーン内を通過しようとしていた。
見逃せば三振かという球に対して、鳳ひしろはまたしても完璧なタイミングで強振を繰り出した。
────キィン!!
鍛え抜かれたスイングに捉えられた打球は角度こそ付かなかったものの、地を這うような鋭い弾道となった。
「サード!!」
その打球はやや3塁線寄りに守っていた
「……ッッ!!」
栞李は咄嗟にグラブを構えたが、鋭い打球に腰が引けて捕球できず。慌てて拾おうとするも白球が手につかず、やっと拾い上げた時には打者はもう1塁を駆け抜けていた。
「やった! ようやく今日初出塁!」
「ナイスバッチ〜、鳳さ〜んっ!」
記録はサード栞李のエラーとなったが、この試合蘭華女子の初出塁にしばらく静かだった応援スタンドの生徒たちが活気を取り戻し始めた。
「ごめん、莉緒菜ちゃん……」
「平気。気にしないで」
莉緒菜や
「また、スライダーを……」
やや甘いコースに入ったとはいえ、2球続けてスライダーを強振された。
少しずつ莉緒菜の球のキレが落ちてきているのだろうかとも考えたが、倭田莉緒菜は本来回が進むごとに尻上がりに調子を上げていくタイプの投手だ。コントロールのバラつきこそあるものの、葵の目にはスピードもキレも衰えは見えなかった。
「お願いします」
球審に向かって小さく一礼して、続く2番打者大矢優姫乃が右打席に入った。
1打席目は運良く1球で打ち取れたが、彼女は本来選球眼と長打力を兼ね備えた強打の捕手だ。次の打者が藤宮柚希だからといって迂闊に甘いゾーンで勝負することはできない。
「ボール! ワン!!」
強打を許しバッテリー共に慎重になり過ぎたか、初球はストレートが外低めへ外れた。
これでボールが1つ先行してしまった。藤宮柚希の前にこれ以上ランナーを出す訳にはいかない。
ここは、どうしてもストライクが欲しい。
「……」
この打者にも、まだ1球もスライダーは見せていない。2人も連続で初見の変化球を強打されることは普通であれば考えにくい。
ここは1球、スライダーでカウントを稼ぐ。
葵の出したサインに、莉緒菜も素直に頷いた。
「ふぅッ!!」
莉緒菜が投じた2球目は葵の要求通り低めのコースいっぱいに落ちるスライダーとなった。
しかし、このボールにも打者は迷わず反応し、すくい上げるようなスイングで低めに落ちるスライダーはとらえた。
────キィイインッ!!
「またッ!?」
「レフト!
高々と舞い上がった打球はレフトフェンスまで一直線に飛んでいった。
「……ッ」
予め長打警戒で深い位置にポジションを取っていた
「…………アウトッ!!」
ジャンプした勢いでフェンスに衝突し、外野に倒れ込んでしまったあやめだったが、決死の思いで掴んだ白球を離すことはなかった。
「な、ナイスキャッチ! あやめちゃん!!」
「スゴい! スゴーイ!! ナイスキャッチですっ! あやめセンパイ!!」
「大丈夫か!? アヤっ!!」
抜けていれば失点は免れないという大飛球を掴み取った好プレーに、今度は明姫月のベンチが湧き上がる。
しかし、この間に1塁ランナーはタッチアップで2塁に進塁しており、走者を得点圏に置いた状態で打席に藤宮柚希を迎えることになってしまった。
「すみません。タイムを」
状況の整理とあやめの無事を確認するために、沙月がタイムを要求した。
「タイム!」
球審から正式にタイムが宣告されマウンドに向かう最中も、葵は相手打線の対応の変化についてはっきりとした結論を出せずにいた。
「────この回、スライダー狙われてますね」
マウンドの上で先に口を開いたのは莉緒菜のほうだった。葵ではなかなか踏ん切りが付かないような根拠に乏しい仮説でも、倭田莉緒菜は倭田莉緒菜らしくズバリと言い表してみせた。
「そう、かもしれないね。打席で一度も見てないはずの球に対してあれだけフルスイングされるのはワタシも少し違和感があるし。
葵は自分でそう口にしておきながら、内心穏やかではいられなかった。
前者であればまだ対処のしようもあるものの、後者であった場合、もう手の打ちようがない。
あと数打席見ることができれば、その判別を付けることもできたかもしれない。しかし、2人にもうその余裕もない。
続く打者はあの藤宮柚希だ。
中途半端な心構えでは勝負にもならない。今ここで、はっきりと心を決めなければならない。
「……とりあえず、スライダーはボールゾーンの誘い球だけにしよう。今の
今日ここまで即決即断でチームを牽引してきた津代葵の言葉が、ついに濁ってしまった。それほどまでに、藤宮柚希と陽野涼というたった2人のプレイヤーの存在が、津代葵に背負いきれないほどの心理的プレッシャーを与えていた。
「1塁は空いてるし、
そう強引に言葉を押し付けて葵がポジションへ戻ろうとマウンドに背を向けた瞬間、不意に莉緒菜が口を開いた。
「葵先輩。まだ何か、迷ってませんか?」
その短い言葉に、葵の鼓動がトンと跳ねた。
「私はこの打席、勝負したいです。どれだけ苦しい場面でも、もう二度と迷いを抱えながら
その瞬間の倭田莉緒菜の瞳が、いつかのあの人と重なって見えた。
「────自信なら、あります」
無鉄砲なほど前向きで、根拠なんて用意すらしていないくせに、その言葉には不気味なほどの説得力を宿している。
初めて顔を合わせた日から薄々感じていたことだ。
この子はやっぱり一之瀬陽葵に似ている。
他人のため、応援してくれる誰かのためであれば際限なく心を奮わせてしまう人間なんだ。辛い時、苦しい時、無防備に頼りたくなってしまうような、そんな瞳をしていた。
その確信に満ちた表情が憎らしいほどあの日あの時の彼女とそっくりだったから、だからこそ津代葵は倭田莉緒菜の自信を受け入れることができなかった。
「……言ったでしょ。この試合は何があろうとワタシの言うことに従ってもらうって。リオナちゃんがどれだけ自信があろうと今ここでは関係ないよ」
「けど……」
「いいから…ッ!! ワタシの言うことに従って」
それ以上有無を言わさず会話を切り捨てると、葵は本塁の向こう側へと戻っていった。
バッテリー2人の不穏な空気はバックを守る選手たちにも伝播していた。ただでさえ投打共に追い詰められたこの状況で、ここまで互角のゲームを牽引してきた2人がこの調子ではもう誰1人として精神的に平穏でいられる者はいなかった。
「────藤宮。こっちへ来てくれ」
明姫月ナインにただならぬ緊張感が漂う中、不意に大柿紫が打席に向かおうとしていた柚希を呼び寄せた。
「なになに? どうしたのカントクさん」
自分の打席を目前に控える柚希に対して、大柿紫は思いもよらぬことを口にした。
「お前はわざわざスライダーを狙わなくていい。好きなタイミングで、好きな球を打て」
「えっ?」
突然のことで、柚希も思わず不躾な声で聞き返してしまった。
「けどさっきは打線全体でスライダーを狙っていくって」
「ああ。だが、この作戦の本来の目的はあのバッテリーの配球を制限することだ。前の回までストレートを狙っていた打者たちに突然スライダーを
指揮官の思い描いていた作戦の全貌は、柚希の想像の1歩先をいっていた。
「全ては打線の
そして、これから先も幾度となくチームの命運を背負って立つであろう主砲の気を引き締めるために、大柿紫はあえて厳しい言葉を向けた。
「その代わり、お前は必ず結果で応えろ。それができなければ、またあの日のように負けるだけだ」
その言葉を耳にして一瞬、傷口に爪を突き立てられたような勢いで柚希の顔が強張った。
それは、藤宮柚希の野球人生で唯一といっていい後悔と挫折の記憶。どんな場面であろうと緊張感など覚えたことのなかった彼女が、初めて背負う重さを知った日。
藤宮柚希は今日この日まで、その屈辱を一時たりとも忘れたことはなかった。
「そう、だよね……うん。わかってる」
背後からまとわりつく不安を振り払うようにわざと明朗な笑みを浮かべて、藤宮柚希は力強い
「大丈夫だよカントクさん。私、絶対打つから」
応援スタンドから今日1番の大歓声に迎えられて彼女が打席に入った。
「1アウトだ! 焦らず1つずつアウトを取っていこう!」
沙月が1塁から懸命にナインを鼓舞するが、彼女たちの胸の内に蔓延っていたのは初回の時のような期待くすぐる『緊張感』ではなく、輪郭の浮き出た明確な『不安』。
彼女たちの心はこれが失うもののない練習試合だということも忘れて、光届かぬ深みにまで追い詰められていた。
「ボール! ワン!」
初球、インコースを狙ったストレートが大きくコースを外れ、腰付近へのボール球となった。
強打者に対してインコースの見せ球を使うことはままあるが、この1球はその意図からも外れるような明らかなコントロールミス。
莉緒菜がここまであからさまにコントロールを乱すのもこの試合初めてのこと。やはり捕手の葵と息が合わず、投球の安定感が欠落してしまっていた。
「ボール! ツー!」
2球目はボールゾーンへ逃げる誘い球のスライダー。しかしこれにも藤宮柚希は全く反応を見せず、何も情報を得られないまま2ボールになってしまった。
ここまでボールが先行してしまった以上、捕手の葵は既に
「んッッ!!」
続く3球目。
葵が要求したのはアウトコースへのストレート。これはストレートへの反応を確かめるための見せ球、つまりはボールゾーン要求だったのだが、莉緒菜はこの1球をカウントを戻すためのストライク要求だと誤認していた。
結果として、その1球はストライクゾーンの真ん中付近に入る絶好球となってしまった。
その軌道の途中で、バックを守る野手たちが一人残らず息を呑んだ。
──────キィィィイイン!!
それはまるで、夏空に鳴り響く鈴の音のように高く細く濁りなく。
グランドに快音が響き渡った瞬間、蘭華の応援に来ていた生徒が弾けんばかりの歓声を上げた。
ベンチから声援を飛ばしていた蘭華ナインももれなく全員立ち上がり、身を乗り出して打球の行方を追った。
倭田莉緒菜は打たれた瞬間、打球を追うのを止めた。
「…………ふぅぅ」
高く、遠くへ舞い上がる打球を、打った当人は1塁へ走り出すことも忘れて打席の中から満足げな表情で見つめていた。
「うっ……」
「クソっ!」
何とか追いつけないかと懸命に飛球を追っていた菜月と伊織だったが、2人が外野フェンスギリギリまで追いかけてもその打球は最後まで2人の元へは落ちてこなかった。
「……うん。よし!」
白球がフェンスを超えていくのを確認して、藤宮柚希はゆっくり1塁へと走り出した。跳ねるように軽やかに、チームメイトたちのいる1塁側のベンチに向かって満面の笑みでVサインを掲げながら。
「────先制! ツーランホームラン!!」
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