第40話 崩れた均衡


「────先制ツーランホームラン!!」



 藤宮柚希が悠然とダイヤモンドを一周し、ホームベースを踏むと蘭華のスコアボードに『2』が記録された。


「ナイスバッティング! 藤宮さん!!」

「ナイバッチ〜!」

「さっすが蘭華の3番打者!!」


 待ちに待った主砲の1打に応援スタンドの生徒たちもこの試合1番の盛り上がりを見せていた。


「ナイスバッティングだったわよ。柚希」

「ヒメちゃん……」


 ベンチの前で殊勲の柚希を真っ先に出迎えたのは優しげな表情をした大矢優姫乃だった。


「けど、打席の中で勝ち誇ったように打球見送るのヤメなさいって言ってるでしょ!? 相手によっては挑発行為だとみなされるわよ!」


 しかし、優姫乃が優しい表情をしていたのは束の間で、あっという間にいつもの険しい表情に戻ってしまった。


「あ……っはは、あれは無意識でつい」

「私はヤメなさいって言ってるの! 仕返しでデッドボールでも当てられたらどうするのよ!」

「ヒメちゃん、心配してくれてるの?」

「当ったり前でしょ? アンタはウチに欠かせない戦力なんだから。大会前にそんなツマラナイことでケガされたらたまったもんじゃないわ」


 それも生真面目で不器用な彼女なりの祝福だということを、柚希はとっくに理解していた。


「藤宮。ナイスバッティング」


 その優姫乃の背後、ベンチの先頭に腰を下ろしていた大柿紫指揮官も相変わらずの鉄仮面で柚希を讃えた。


「ミスショットせずに良くとらえた。お前を信じて良かった」

「あはは、大げさだよ〜。この1本はカントクさんとチームのみんなに打たせてもらったようなものだから」


 チームを率いる監督とその中軸を担う主力選手。お互いに心地の良い笑顔を浮かべながら握手を交わした。






「先制、されちゃった……」


 その一方で、防ぎたかったはずの先制点を最悪の形で奪われてしまった明姫月ナインは落胆を隠せずにいた。


「しかも、2点……」

「スライダーだけじゃなく、ストレートまで打たれるなんて……」


 それは明姫月にとってあまりにも重すぎる2失点。1点差であればメイの個人技や葵の戦略次第で何とか追いつけたかもしれない。しかし、2点差を追いつくとなるとどうしても連打や長打が必要になる。

 3回のメイの打席以降ほぼ完璧パーフェクトに封じられている陽野涼を相手に、今の明姫月の打線がそのような展開を演じることは誰1人として想像できなかった。


 その瞬間から両チームの均衡は崩れ、一時は明姫月が掴みかけていた試合の流れは完全に蘭華の手に渡ってしまったのだ。




 ────キィン!!


 先制点のショックにつけ込むように、続く打者も初球のスライダーを強振。ややボール気味の球だったにも関わらず、打球はあっという間にセンターの前まで転がっていった。


葵・莉緒菜2人とも、切り替えていこう! 2点差で留めておけば私たちにもまだチャンスはあるぞ!」


 先制ホームランのショックをまだ引きずっている様子のバッテリーに対して沙月が懸命に声をかけるが、2人とも耳には届いていても心には伝わっていないようだった。

 そのチグハグな食い違いが、続く打者への初球に最悪の形で表出してしまった。



「────ッッ!?」



 続く5番打者への2球目、スライダーがすっぽ抜けて打者の膝付近に直撃した。


死球ヒット・バイ・ピッチ!」


 即座にボールデッドが宣告され、走者は1塁と2塁へそれぞれ進塁した。

 2失点で食い止めるどころか追加点ひいては大量失点の危機を迎えたところで、沙月が1塁からすかさずマウンドへ向かった。


「一旦落ち着こう、莉緒菜。少し気負い過ぎだ」

「……はい」


 主将が歩み寄っても莉緒菜に大きな動揺はなく、表情もホームランを打たれた時よりいくらかは落ち着いているように見えた。

 心配なのはむしろ、このピンチになっても本塁の後ろに座ったっきり投手に声をかけようともしない捕手のほうだった。


「とりあえず、ここからは相手の打順も下位に向かう。焦らず1つずつアウトを取っていこう」

「はい。わかりました」


 とはいえ、彼女を今この場に呼んでまた莉緒菜と諍いを起こされたら収拾がつかなくなる。そう判断して、沙月は葵に声をかけることなくマウンドを離れた。


「ふぅっ……」


 1人マウンドの上に残った倭田莉緒菜を一度鋭く息を吐いて、打者と相対した。

 打順は6番。1打席目は空振りの三振に取っている相手だ。捕手とまともにコミュニケーションが取れない以上、今は投手である莉緒菜が工夫してピッチングを組み立てるしかなかった。


「んッ!!」


 初球は低めいっぱいへのストレート。見逃し。


「ストライーク! ワン!!」


 やはりこの打者もストレートには反応しない。藤宮柚希にストレートを打たれたのは、彼女1人が打線の中で特別な存在だったのだろうか。

 そんな思考を巡らせながら、莉緒菜はひとつサインに首を振って2球目の球種を選択した。


「ふぅッ!!」


 2球目は低めへ沈むスライダー。前の打席では2度空振りを奪っているその球に対して、打席の中の彼女も迷わずスイングをかけた。



 ────キィィッ!!



 そのスイングはまたしてもスライダーをとらえた。が、ボールゾーンまで落ちる1球に角度を付けることはできず。打球は地を這うような打球となって投手の足元を襲った。


「危ないッ!!」


 誰もが反射的に危険を叫んだが、莉緒菜は一切怯むことなくその打球にグラブを伸ばした。


「うッ!」


 懸命に伸ばしたそのグラブの先に、白球が綺麗に収まった。


「……ッ! ナイスキャッチ!」

2塁後ろッ!! ゲッツー取れる!」


 そこから先は、後ろを守る先輩たちの指示に従って自然と身体が動いた。


「アウト!!」


 莉緒菜の送球は2塁ベースカバーに入っていた遥香へ。打球が速かった分、打者が1塁に到達するまではまだ余裕があった。


「シズアウッ!!」


 2塁を踏んだ遥香が素早く1塁へ送球し、『1-6-3』のダブルプレーが完成。明姫月にとっては幸運ラッキーな形で追加点の危機を脱することができた。


「スリーアウト! チェンジ!」


 しかし、ピンチを切り抜けても明姫月ナインに笑顔はなく、


「ナイスプレーだったよ! 莉緒菜ちゃん。みんなも! あのホームランは仕方ないよ。ね? もう切り替えていこう?」

「菜月の言う通りだ。取られてしまったものは仕方ない。切り替えて攻撃に集中しよう。この回1点でも返すことができればまだチャンスはある」


 上級生がいくら声をかけも、選手たちの顔が上を向くことはなかった。誰1人として、声を上げることができなかった。


 無理もないだろう。

 彼女たちはこれまで、あまりにも多くの『敗北』を経験してきた。葵がチームの指揮を執るようになってからは練習試合などでは多少勝てるようにはなったものの、格上のチームには必ずと言っていいほど負けてきた。

 その結果や環境に、心が慣れてしまっていた。

 そのせいで、試合の流れや相手の実力を見せつけられると心が萎縮し、プレーにも影響を及ぼしていた。


「先頭! お願いね栞李ちゃん。まずは何とか出塁してチャンス作ろう!」

「はい……善処します」


 こんな時、末永栞李はチームの雰囲気の影響をモロに受けてしまう選手だった。


 出来ることなら栞李だって自分のエラーのせいで取られた2点を取り返したかった。守備で足を引っ張った分、打撃でチームに貢献したかった。

 けれど、栞李には誰かから期待されてもそれに応えられるだけの自信がなかった。自分の能力を過信して、挫けて傷つくのが怖かった。


 だから、末永栞李はこんな時、誰よりも自分自身に期待することができなかった。


「ストライク! ワン!!」


 初球はそんな内心を見透かされたかのように、スライダーで簡単にストライクを奪われてしまった。


「オッケー! ナイスボールよ涼!」


 蘭華バッテリーは実際に栞李の人となりを見透かしていた訳でないが、打者としての彼女の特異性には気づいていた。



 ────それは、打者として圧倒的にが欠如していること。



 大抵の打者は打席に立つ時、気持ちよくヒットや長打を飛ばしたいという“欲”を持っている。


 しかし、末永栞李は自分のスキルに対する自信が欠落しているせいで、打席の中で安打に対する執着心が異様に薄かった。彼女は自身が安打やいい当たりを飛ばすことではなく、端から四球フォアボール死球デッドボールで出塁することを第一目標に打席に立っていた。


 そのため栞李は平均的な打者と比べて極端にスイング率が低い。2ストライクまでは真ん中付近の絶好球以外にはほとんど手を出さず、追い込まれても厳しいコースの球を平気で見逃す。その結果、末永栞李はこの合宿中も四球率こそ高いものの、それと同程度の数見逃し三振を喫していた。



「ストライク! ツー!!」



 献身的とも消極的とも取れるその打撃スタイルを先の2打席で完全に見抜いていた蘭華バッテリーは、栞李がまず手を出さないであろうコースへ変化球を続け、いとも簡単に2ストライクを稼いだ。

 カウント0ボール2ストライク。普通の打者が相手であればここから何球かは空振り狙いの変化球をボールゾーンへ投じるところだが、栞李がそれに手を出さないであろうことはもう十分思い知っている。


 蘭華バッテリーが選んだのは、遊び球なしの3球勝負だった。


「んッ!!」


 陽野涼が投じた3球目は外角低めストライクゾーンへのチェンジアップ。

 白球が投手の指を離れた瞬間から、栞李はその1球がストライクゾーンに入っていることを悟った。カウントは既に2ストライクで、振らなければ三振になってしまうことも理解していた。

 頭では全て、分かっていたはずなのに……


「……っ」


 それでも最後まで、手が動かなかった。



「────ストライーク! バッターアウッ!!」



 見逃し、三振。

 たった3球で何もかも相手バッテリーの思うがままに片付けられてしまった。

 3球ともチャンスはあった。ヒットは打てなくとも、せめてこの連続三振を止めてチームの反撃の糸口となることくらいはできたはずだ。

 それなのに、栞李は自分の感情を制御できず、目の前のチャンスを自ら手離した。


 結局、末永栞李という少女の心はから何一つ成長していない。

 どうしようもないほど臆病で、慣れきった殻を破れずにいる。


「くそっ……」


 そんな自分が、絞め殺してしまいたいほど嫌いだった。




「ナルミー! まだ1アウトだから! 何とか食らいついていこう!」


 続く橋口成美もカーブ2球を空振りし、あっという間に2ストライクに追い込まれてしまった。


「ふゥッ!!」


 3球目も陽野涼が投じたのは決め球のカーブ。

 試合後半に入っても一向にキレの衰えることのないその1球に成美のバットは空を切った。


「ストライークっ!! バッターアウッ!!」


 これでイニングを跨いで7者連続、そして2巡目にして早くも先発メンバー全員が三振を喫してしまった。

 誰一人として出塁はおろか打球を前に飛ばすことすらできない現状を前に、明姫月の選手たちはもうため息をつくこともできなかった。

 そんな明姫月ナインの絶望を煽るかのように、陽野涼はマウンドの上から見下ろすような挑発的な表情でぺろりと舌を出した。



「──っ! メイちゃんお願いっ! 何とかこの流れを止めて!!」



 縋りつくようなベンチの声援を背に、この回3人目の打者として打席に向かったのは金碧輝煌の少女。

 疑いの余地もなく明姫月のベストヒッターである彼女がここでこの流れを止められず、蘭華バッテリーに手も足も出ないようであれば明姫月の選手たちは完全に戦意を喪失してしまうだろう。

 そうなってしまえば、この試合はもはや蘭華のワンサイドゲームへと推移してゆくのみ。


 つまりは、ランナーもいない、ホームランを打っても同点にすらならないような1打席が、今まさにこの試合の命運を握りしめていた。


「……さて。問題はやっぱりよね」


 無論、2年生ながら既に百戦錬磨の蘭華バッテリーもお互い言葉を交わさずともその事を即座に察知していた。

 前の打席、蘭華バッテリーは内外高低を使って揺さぶり狙い通りに投げきった球を巧みに打ち返され、更に飛び抜けた俊足で二塁打とされた。

 集中しているメイ・ロジャースこの打者を打ち取るためには、より慎重に徹底した配球しなくてはいけないということを思い知らなされていた。



「────ボール!」



 その初球にバッテリーが選択したのは外角ボールゾーンへのストレート。これをメイが見逃し、1ボール。


「オッケー! オッケー! ナイスセンメイちゃん! よく見えてるよ〜!」


 前の打席でややボール気味の球を打たれているだけにここは慎重にストライクゾーンからボール2つ分離した投球から入ったが、メイは特段反応を見せず。

 続く1球はバッテリーとしてもストライクカウントが欲しい場面。そんなことはメイも直感的に理解していた。


「んッッ!!」


 陽野涼が投じた2球目はインローへの速球。しかし、コースがやや甘く入った。


「……ッ!?」


 ほとんど反射的にバットを動かしたメイだったが、スイングを開始した瞬間に白球は彼女の手元へと鋭く食い込んできた。



 ────キャッ!!



 それを見たメイは咄嗟にバットのヘッドを返し、打球をファールゾーンへ運んだ。


「ファールボール!」


「オッケー! ナイスカット!」

「ナイカットです! メイ先輩!」


 もし彼女があのままマトモにスイングしていたら力のないサードゴロかショートゴロに終わっていただろう。

 すっかり肝を冷やしたメイは一度打席から外れて小さく息を吐いた。


「チっ……」


 すると、マウンドの上から微かにそんな舌打ちが聞こえてきた。

 それを耳にして、メイはその1球のバッテリーの狙いを悟った。

 ここまで連続三振を奪ってきた蘭華バッテリーはここもカウントを整えて最終的にカーブかチェンジアップで三振を狙ってくるはず。メイも、明姫月ベンチも勝手にそう思い込んでいたが、蘭華バッテリーはその思い込みさえも利用してより安全にアウトを取ることを狙っていたのだ。


 “カウント球のストレートが甘く入った”

 そう勘違いさせてスイングを誘い、そこから小さく変化するツーシームで内野ゴロを打たせる。


 それがこの1球における蘭華バッテリーの真の狙いだったのだろう。


「……ふぅ」


 しかし、これを間一髪でファールにされて苦しくなったのは蘭華バッテリーのほう。狙い通りにスイングさせたはいいものの、その先、メイが瞬時に長打狙いの強振から手首を返すだけのスイングに切り替えたことが想定外だった。

 相手の狙いを察して1秒にも満たない間の動きを変えられる、凄まじい反射神経と身体能力。

 前の対戦から侮っていた訳ではなかったはずなのに、結果として蘭華バッテリーはまたしてもメイのとてつもない潜在能力に驚かされることとなった。


「んんッッ!!」


 とはいえ、相手が強敵であればあるほど集中力を深めていくのが陽野涼という投手。

 初球に見せたボールゾーンのストレートと似た軌道から、針の糸を通すようなコントロールでチェンジアップを外低めいっぱいに沈めた。


「ストライク! ツー!!」


 メイは前のインローツーシームの残像を引きずりスピードの緩い球オフスピードピッチであるチェンジアップに全くタイミングが合わず、見逃し。

 メイまでもがたったの3球で1ボール2ストライクのカウントをしまった。


「メイちゃん!! 頑張れ、頑張れっ!」

「メイ先輩っ! ここは何とか、三振以外でお願いしますっ!」

「メイぃぃ……頼むっ! 打ってくれぇ」


 いつの間にか、ベンチからの声援は縋りつくような祈りに変わっていた。

 メイ本人も、自身の打席結果がチームに与える影響は自覚していた。何とか憂いの晴れるようなヒットを飛ばしてこの嫌な流れを断ち切りたい。もう一度チームに勝機を見せたいという気持ちはやまやまだったものの、どうしても蘭華バッテリーの巧妙な配球を攻略することができない。


 思い返せば第1打席の初球から巧みに狙いを外され続け、この試合ここまで一度も気持ちよくスイングできていない。そもそもメイ・ロジャースという選手は、打席での駆け引きや状況判断など頭を使ってプレーすることは得意ではなかった。中学時代までも高校に入ってからも、それでも十分すぎる結果を残せていたが、今、目の前にいる相手は‪ソレとは格の違う選手たちだ。


 変化球のキレや制球・駆け引きの精度も段違いに高い。今この瞬間、相手バッテリーとの力関係を一気に逆転できるような妙案も思いつかない。


「ふぅぅ……」


 そこでメイはバッテリーとの駆け引きに焦点を当てることをやめた。

 難しい駆け引きや配球を読むことを諦め、ただ来た球に素直に反応する。それが今この瞬間は最も確率の高い方法だと割り切ることにした。

 大きく息を吐き、ゆったりとバットを揺らしながら陽野涼の投球を待つ。

 迷いなく打席に立つその姿は千軍万馬の蘭華バッテリーにも無視できない程の威圧感を与えていた。


「んんぅッッ!!」


 この試合一の緊張感の中、バッテリーが選択した球種は最も信頼している変化球ナックルカーブだった。


「……ッ!!」


 その1球が涼の指を離れた瞬間、インコース高めから切れ込む軌道のせいで左足の踏み込みが普段いつもより浅くなった。

 しかしそこから自慢の反射神経で相手バッテリーの決め球に食らいついていく。地につきそうな低さにまで曲がり落ちてゆく白球に、体勢を崩しながら必死にバットを伸ばす。



 “届け! 届けっ! 届けッ!!────”



 懸命に伸ばしたメイのバットは間一髪、陽野涼の決め球に触れることができた。



 ────キッッ!!



 しかしそれは何とかバットの先に当たっただけで、ヒット性の強い打球にはならなかった。


「ショート!」


 フェアゾーンに転がった打球は三遊間へ。コーチが打った練習ノックのような、ごく平凡なショートゴロとなった。

 これで3アウト。チェンジ。明姫月ベンチは肩を落とし、蘭華ナインはバッテリーの勝利を確信していた。



「────急いで! 1塁余裕ない!!」



 そんな状況が突然切迫したのは捕手優姫乃の慌てた叫び声からだった。

 その声を聞いて、蘭華の遊撃手ショートストップは驚愕した。その打球は内野手にとって難なく捌けるようないつも通りのルーティンプレーとなるはずだった。

 しかし、彼女が打球を捕球した時には確かにメイ・ロジャースは1塁ベースの目前にまで迫っていた。それを目にした遊撃手も捕球から1歩もステップを踏むことなく上半身の力だけで素早く1塁へ送球する。

 飛び跳ねるようなスプリントで1塁を駆け抜けようとするメイの脚と、途中何度かバウンドしながらも勢いの衰えない鋭い送球。


 タイミングは、すぐには判断できないほど拮抗していた。



「────セーフ! セーーーフッ!!」



 少し間を持って、塁審は大きく両手を広げた。

 記録はショート内野安打。これによって、2イニング以上に渡って続いていた連続三振にも連続アウトにも終止符が打たれた。


「やった!……久しぶりのヒット!」

「たっ、助かったぁ……」

「ナイスランっ! さっすが! 速いねメイちゃんっ!」


 その結果にまたしても驚かされることとなったのはその打席を最も間近で見ていた大矢優姫乃。

 肩口からのナックルカーブに対して踏み込みが甘くなり、強打ハードヒットは不可能と見るやメイはすぐさま狙いを長打から内野安打に変え、素早く走り出せるような弱いソフトスイングに切り替えた。

 その上で、少しでも1塁に到達するまでの時間を稼ぐためにわざと打球の勢いを殺し、1塁へ最も送球しづらい三遊間へと打球を転がしていたのだ。



「はァ……これだから“天才”はイヤなのよね」



 追い込まれた状況下でも最も効果的なプレーを素早く正確に選び取れる嗅覚や、それを容易く実現できてしまう生来の身体能力キャパシティ

 同世代として思わず羨んでしまうような傑出した野球センスを前に、優姫乃もそんな悪態を漏らさずにはいられなかった。


「けどまあ、残念ながらなのよね」


 そう呟いて優姫乃はゆっくりとマスクを被り直した。

 もちろん蘭華バッテリーもここで相手の絶対的主軸メイ・ロジャースを抑えて流れを完全に引き寄せたい気持ちはあった。自分たちのベストを尽くしても打ち取れなかったことに対するショックも少なからずあった。


 しかし、2人がそのダメージを引きずることはなかった。

 否、引きずる


 いくらメイ・ロジャースが出塁したからといっても場面は2アウト、ランナー1塁。この場面で最も警戒すべきは長打1本による失点。外野の間を抜けようものならメイの足であれば1塁からでも一気に本塁ホームまで帰ってくるだろう。

 そのため、続いて打席に入るのが川神沙月や明山伊織のような長打を期待できる選手であれば蘭華バッテリーももう少し緊張感を覚えていたかもしれない。


 しかし、現に今打席に立っている打者は小坂遥香。


 彼女の選球眼やバットに当てるコンタクト能力が優れていることは優姫乃も理解していたが、どうしてもスイングに力強さが乏しく真っ向勝負で陽野涼が手を焼くような打者ではないことはとうに分かりきっていた。


 大矢優姫乃がこの試合中ずっと感じていた明姫月打線最大の欠点、それはメイ・ロジャースほどの選手の後ろにわざわざ小坂遥香長打力のない打者を置いている事であった。



 ────カッッ!



 蘭華バッテリーの思惑通り、遥香は3球目のツーシームを打たされ、打球は平凡なセカンドゴロ。

 もちろん、遥香にはそれでも1塁でセーフになれるような飛び抜けた脚力はなく。


「……アウト! スリーアウト、チェンジ!」


 難なくこの回3つ目のアウトを奪い反撃の芽を摘み取った蘭華バッテリーは喜ぶでも誇るでもなく淡々とした表情でベンチへと引き上げていった。


「あぁ……もう3アウト」

「久しぶりのランナーだったのに」


 メイの出塁で勢いを取り戻しかけていた明姫月ベンチも、あっという間にまた活気を失ってしまった。


「ドンマイです! ハルカ先輩!」

「…………」


 ベンチへ引き上げる途中、メイは真っ先に浮かない表情を浮かべる遥香に声をかけに行ったが、遥香の表情には今目の前に広がる戦況を表すかのような重たい影が落ちていた。


「先輩……どうかしましたか?」

「ううん、なんでもない」


 もちろん、視線を落としていたのは遥香だけではなかった。

 明姫月に残された反撃のチャンスはあと2イニング。その間に1人もランナーを出すことができなければ、もうメイには打席が回らない。

 見慣れた“敗北”が、実体を得て目を逸らすことも出来ないほどの距離に這い寄ってきていた。



「────さっきはごめんね。莉緒菜ちゃん」



 そんな重苦しい雰囲気のベンチの中で、1人立ち上がろうとしていた莉緒菜を津代葵の言葉が呼び止めた。


「前の回、点を取られたのはワタシの責任せいだよ。キャッチャーとして1番大切な場面でコミュニケーションを怠った」


 ただでさえ皆が落ち込んでいる場面で、1人責任を背負おうとする葵の声には迂闊に口を挟めないほどの切迫感が漂っていた。


「結果、最悪の形で点を失った。全部、ワタシの責任だよ」


 それでも何とか励まそうとする菜月を、直前で沙月が引き止めた。


「ワタシは……夏の大会までもう時間がないから、今日はいい機会チャンスだと思ってたんだ。蘭華みたいに全国的に名のあるチームに勝って、リオナちゃんに自信をつけて欲しかった。何より、バッテリーとしてワタシを信頼してほしかったんだよ」


 自分の内部こころを吐露している間も、津代葵は下を向いてスパイクの紐やキャッチャー防具を締め直しているばかりで、一度たりとも隣に座る莉緒菜と目を合わせようとはしなかった。


「ワタシにとって1番大切な時期に特別な才能を持ったピッチャーが入ってきてくれて。しかもその子は、みんなの前で到底叶いそうにない目標を口にできるような意志の強い子で、自分の無茶も顧みずに努力できちゃうような子で。ホント、嫌になるくらいの知ってる“エース”にそっくりだったから……ワタシは少し、焦ってたのかもしれない。手っ取り早く不調に陥れば、ワタシの言葉に耳を傾けてくれるかもしれないと思った。捕手として、信頼してもらえると思ってた」


 初めて出会う津代葵の腹の底に沈んでいた言葉たちに、莉緒菜や他のチームメイトたちは誰1人口を挟むことなく、彼女の表情を覗き込もうともせず、ただ静かに耳を傾けていた。


「だけどもう、回りくどいことはやめる」


 その迷いの消えた宣誓と同時に葵はようやく重たい顔を上げた。

 それからはっきりと、倭田莉緒菜のほうへと視線を向けた。


「ねぇ、莉緒菜ちゃん。投手キミはまだ、捕手ワタシのリードを信じられる?」


 まっすぐな視線に見つめられた莉緒菜は、逡巡することなく素直に自分の感情に従って言葉を返した。


「アナタがまだ、この試合を諦めていないなら」


 その返事を聞いて、葵はそっと口角を上げた。


「よし! それじゃあ、まだちょっと苦しい状況だけど、行こうか。ここから」


 その晴れ晴れとした表情で立ち上がった葵は、マスクを被りナインの手を引くように再びグランドに足を踏み入れた。



「────逆転しよう、この試合」


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