第38話 絶望の足音
「さあ、この回こそ先制点取りましょー!」
「さっきの回みたいにチャンスメイクお願いします! 菜月センパイっ!」
「うんっ! いってくるね!」
仲間の声援に後押しされてベンチを飛び出した緋山菜月だったが、打席に足を踏み入れた瞬間、マウンドの上から刺すような威圧感を浴びせられて堪えきれないほどの身震いがした。
前の打席の時とは何から何まで違う。同じ人間でも顔つきが違った。これ程までにマウンドの上で強く激しく感情を表現する投手と、菜月はこれまでの選手人生で出会ったことがなかった。
「菜月センパ〜イ! リラックスしていきましょー!」
不意に耳に届いた仲間の声に励まされて、菜月は大きく息を吐きながら気持ちを締め直した。
このまま気圧されていてはいけない。相手が格上なのは試合前からわかっていたことだと、必死に自分を鼓舞しながらバットを構えた。
しかし、この時点で菜月にはバッテリーの配球を考える心の余裕なんて微塵もなかった。
「んッ!!」
そんな菜月を嘲笑うかのように、陽野涼の投じた初球は音を殺してボールゾーンへ沈んでいった。
「スイング!」
左打者である菜月から逃げるように変化するチェンジアップを空振りし、1ストライク。
初球の攻防でいいように踊らされて、菜月の胸の内には更なる焦りが滲む。今のチェンジアップがあることを考えると菜月に与えられた猶予はあと1ストライク。この1球を弾き返せなければこの打席でヒットを打つことは極めて難しくなるだろう。
そんな思考によって、無意識のうちに菜月が普段よりホームベースに近く立っていたことを大矢優姫乃は見逃さなかった。
「──ッう!?」
続く1球はちょうど狭くなったインコースへ。ほとんど反射的に身体を引いた菜月だったが、白球は
「ストライク! ツー!!」
ひとたび追い込まれてしまえば、打者の頭の中からチェンジアップが消えなくなる。この試合、まだ誰一人としてバットに当てることすらできていない絶対的な決め球。その球が警戒されていることは蘭華バッテリーも十分に理解していた。
「また……っ!!」
それを踏まえてバッテリーが選んだのは同じようなインコースの球だった。
しかし、その1球は先程のバックドアとは違い、内角低めのストライクゾーンへまっすぐ進んでいた。
見逃せば三振。そう直感して菜月がバットを出したその瞬間、白球は打者の
「──ッぐ!!?」
咄嗟に身をよじるようにして左脚を引いた菜月だったが、バットは既に身体の前まで回ってしまっていた。
「スイング! バッターアウッ!!」
菜月はスイング後にバランスを保つことができずに打席の中で膝をつく。その様を、陽野涼はマウンドの上から堂々と見下ろしていた。
「これで前の回から3人連続三振……」
前のイニングから続く陽野涼の圧倒的なピッチングの前に、明姫月の打者は為す術もなく倒れていくばかり。出口が、見えない。
「あ、葵センパイ! 何とか、あのピッチャーを攻略できるようなアイデアは……」
いても立ってもいられず、頼みの綱の葵に必死に縋り付く実乃梨だったが、その葵の表情にすら初回のような余裕はなくなっていた。
「前の回から、相手バッテリーは打者の心理を汲み取って狙いを外すような投球スタイルに変えてきてる。定型的な配球をしてた今までとは違って、いくら狙いを絞ってもすぐにあの捕手に勘づかれてハズされる」
「ストライク! ワン!!」
続いて打席に立った芝原あやめも、葵の言葉に導かれるかのように初球のナックルカーブに虚をつかれ1ストライク。
抜群のキレを誇る変化球の軌道を見つめながら、葵は続けた。
「それに、ハルカ先輩の打席くらいから相手ピッチャーのキレも
「ファールボール!!」
2球目は高めの速球を打たされてファール。またしてもあっという間に追い込まれてしまった。
「けど、このままじゃ点を取るどころかもうヒットすら打てないんじゃ……」
そんな実乃梨の不安を叶えるかのように、芝原あやめに対する3球目はスイングを誘う理想的な角度から沈んでいった。
「スイング! バッターアウト!!」
あやめも初めて見る陽野涼のチェンジアップをバットに当てることができず、三振。これで前のイニングの川神沙月から4者連続3球三振となってしまった。
このままではこの先明姫月が劣勢に立たされるであろうことは、まだ半分素人の実乃梨でも容易く想像できた。
「もうワタシの
「葵センパイお願いします! 何とかこの連続三振を止めてくださいっ!」
このイニング3人目の打者として打席に向かう葵に、実乃梨は必死の声援を送った。
しかし、チームメイトからどれだけ必死に応援されようと葵ではとても今の陽野涼からヒットを打つイメージが持てなかった。
それならせめて、連続三振だけはここで切る。その中で攻略の糸口を探る。
そんな前向きとは言い難い心持ちを胸に秘めて、葵はゆっくりと打席に入った。
「ふぅ……」
前の打席、葵は初球のスライダーを強打している。ヒットにはならなかったとはいえ、センター後方まで飛んだ打球を忘れるはずはない。
そうなれば、初球は慎重に入ってくるはず。考えられるのはボールゾーンへ逃げてスイングを誘う変化球。
「ふッ!!」
そんな葵の読み通り、陽野涼の投じた初球はアウトコースへ逃げていくスライダーだった。
「ボール!」
ボールゾーンまで曲がるその1球を見逃して1ボール。ここまでは想像通り。しかし、問題はこの先だった。
ボールが1つ先行したこのカウントなら大抵の投手はコントロールしやすいツーシームやカットボールなどの
しかし、陽野涼は違う。
陽野涼はカウント不利の場面でも当然のようにスライダーやカーブを投じてくる。それは本来変化が大きく制球が難しいはずの
そのため、ボール先行のカウントでも安直に速球に狙いを絞ることはできなかった。
「……ふぅ」
加えて、津代葵という打者は本来ブレイキングボールを苦手としていた。1打席目は上手くとらえることができたものの、あれが彼女が出来る精一杯の打撃だった。
自分の弱点をはっきりと自覚している葵だったからこそ、続く1球は
蘭華がこの試合に向けて明姫月のデータを収集していないことはこれまでの配球からも明らかなことで、ここで引き続きブレイキングボールにタイミング良くスイングできていれば
明姫月の中でも打撃が苦手な部類に入る葵がバッターとしてチームに貢献するためには、このような細かい駆け引きを制する他なかった。
「──んッ!!」
その1球も葵の読み通り、変化の大きいナックルカーブ。
葵は狙い通りの1球にタイミングを合わせて強振する。がしかし、葵の想定を上回る切れ味の変化球をとらえきれず。打球はファウルチップとなって打者の背後へ転がっていった。
「ファールボール!」
これで1ボール1ストライク。ストライクを1つ奪われてしまったものの、狙い通り苦手な球種に対してタイミング良く強振することが出来た。これで相手バッテリーも少なからずスライダーとカーブは使いにくくなったはずだ。であれば、次の1球は十中八九変化の小さい
その1球は津代葵がこの打席と、前の打者たちの配球を活かして生み出した千載一遇のチャンス。陽野涼にはナックルカーブ以外にもチェンジアップという絶対的な決め球がある以上、葵がこのチャンスを逃せば勝負はついたも同然。
「──んんッッ!!」
“きたッ!!”
陽野涼が投じたのは真ん中少し高めのストレート。コースも高さも甘い。葵がヒットを飛ばせるとすればこの球の他ない。いくつもの策を講じて狙い続けてきた1球に対して、葵は躊躇なくフルスイングを繰り出した。
「ッッく!!」
しかし、葵のスイングはこの1球をとらえることができず。打球は無情にもバックネットに向かって飛んでいってしまった。
「ファールボール!!」
葵はこの1球をとらえきれなかったことを瞬時に悔いた。実際に打席の中で見る陽野涼のストレートはキレも球威も葵の想定を遥かに上回っていた。
津代葵はまだ捉えきれずにいたのだ。陽野涼という才能の底知れぬ
「……くっ」
これでカウントは1ボール2ストライク。この時点で大方の勝負は決していた。
「んッッ!!」
陽野涼が投じた4球目は打者の手元で大きく沈むチェンジアップ。追い込まれた時点でこの球種を最大限警戒していた葵は何とか途中でスイングを止めたが、バッテリーの配球は葵の想像を更に上回っていた。
「────ストライーク! バッターアウッ!!」
「なッ!?」
その1球はコースの底いっぱいをかすめながら優姫乃のミットに収まった。
「よしっ! ナイスボール!」
低めいっぱい、ストライクゾーンへのチェンジアップ。
この試合ここまで蘭華バッテリーが使ってきたチェンジアップは全てボールゾーンへ落ちる空振り狙いのものだった。そのため葵はこの1球の可能性を考慮しないまま打席に立たされていた。
「また、三振……」
これで前の回から5者連続三振。
無策で打席に立てば巧みな配球に翻弄され、その配球を読んでいても
力の差を思い知らされるような洗練された投球術の前に、明姫月打線は得点は疎か1人の
「この回は相手上位打線からだ。切り替えてしっかり守るぞ!」
「よ、よーし。みんな! しまってこー!」
最上級生である沙月や菜月が盛り立てようと懸命に声を張るが、陽野涼が与えた絶望感を簡単に拭いきることはできず。
ネクストサークルで打席に備えていた栞李もその重たい雰囲気を肌で感じながらベンチへ戻ると、ふと違和感を覚えた。
「……あれ、莉緒菜ちゃん?」
普段であれば真っ先にマウンドの上へ飛び出していく彼女が、いつまでもベンチの隅に座って神経質な表情で指の腹を擦っていた。
「莉緒菜ちゃん? どうしたの? もうチェンジだけど……」
「うん。わかってる」
栞李に呼びかけられて、莉緒菜はようやく顔を上げた。
「……指、どうかしたの?」
「ううん、何でもない」
倭田莉緒菜は、それ以上何も問いただせないような張り詰めた雰囲気を放っていた。
それは同時に、彼女の身にただならぬ異変が生じていることを示していて。
そのことを、末永栞李だけが知っていた。
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