第23話 決意
その日から数週間が経っても、私たちはまだあのショックから抜け出せずにいた。
あの日、“陽葵先輩”を失った私たちは為す術もなく敗れた。一方的に点を奪われ、裏の攻撃も呆気なく三者凡退に抑えられた。
その瞬間、全国大会を目指した私たちの夏はあっという間に幕を下ろしてしまった。
けれどみんな、負けた悔しさよりも拭いきれない泥のような罪悪感に呑み込まれていた。
翌日から朝練にくる人は減ったし、夏休みに入ると練習を無断で休む人も増えた。
『今度こそ全国を目指そう』なんて、もう誰ひとり言い出すことはなかった。
「あれ〜、今日も来てくれたの? 葵」
あの日から、私は1日も欠かすことなく先輩の家にお見舞いに通っていた。
「もー、そんなに毎日来てくれなくても大丈夫だって言ってるのに〜。ちゃんと練習行ってる?」
「行ってますよ。今日はたまたま早く練習が終わっただけです」
デッドボールを当てられた箇所は打撲で済んだものの、その痛みを庇って無理にプレーを続けたせいで足首を傷めていたらしい。
幸い、手術の必要はない怪我だったみたいだけど、その足はまだギプスを外すことさえ叶っていない。
「肘の調子は……どうですか?」
「いや〜、それが痛みの割りにはそんなに大したことなかったみたいなんだよね〜。だから葵はそんなに心配しないでも大丈夫だよ」
足首の事はすぐに話してくれたのに、肘のことは何度聞いてもそんな風に誤魔化されたから詳細は知らない。けど、マウンドの上でうずくまる程の怪我がその程度で済んだと思えるほど楽天家ではなかった。
「そういえば、こないだナギサちゃんに会ったら葵のこと心配してたよ? 今度一緒に会いに行かない? ちょっと顔見せるだけでもいいからさ」
「私は……やめておきます」
先輩が診てもらってるのはきっと凪紗先輩の家の病院だろうから、凪紗先輩に聞けば肘の本当の具合もわかるのかもしれない。けれど、私はもうあの人に合わせる顔がない。
腕も脚も痛めて。その痛々しい傷痕を見る度に、心が引き裂けそうだった。
「……何かできないことがあれば言ってくださいね。手伝いますから」
「はは、心配し過ぎだって。杖つけば歩けるし、肘も日常生活には支障ないよ」
「でも、それでまたケガしたら大変ですし、私にできることなら何でもしますから」
私があの時、ちゃんと自分の想いを言葉にできていたら、きっと先輩はこんな大怪我を負うことはなかっただろう。今も笑顔で野球ができていたかもしれない。
その未来を奪った私が、一人のうのうと自分のために時間を使える訳がなかった。
「……わかったよ。それじゃあ葵、ちょっとこっち来てくれる?」
「あ、はい! なんですか?」
名前を呼ばれて膝をつくと、不意に陽葵先輩が私の手を取りその胸の内に優しく抱き寄せた。
「せ、せせ先輩っ!?」
つい反射的に狼狽えてしまったが、心が緩むような優しい温もりに包まれて、その緊張もすぐにどこかへ溶けていった。
「ごめんね、葵」
「え……」
私の背中を優しくさすりながら、陽葵先輩はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「わたし、本当はあの時、気づいてたんだ。これ以上投げても自分の身体が悪くなる一方だって。みんながマウンドに集まってくる前から脚は痛かったし、肘にも少し違和感があったんだ」
耳元で囁かれるその声は、先輩の穏やかな後悔や苦悩がありのまま流れ込んでくるようで。
「けど……けどさ、みんなとプレーできるのも、葵とバッテリー組めるのもこれが最後かなって思ったら、どうしてもあんな形でマウンドを降りたくなくなっちゃったんだ。だからきっとあそこで葵にどう言われようと、わたしはマウンドに残ってたと思う」
どうしようもなく切なく、寂しくなって。気づけば私は先輩の背中をきつく抱きしめ返していた。
「だからもし、誰かがあの試合の責任を負わなきゃいけないなら、それはわたしでいい。わたし1人だけでいいよ。正真正銘、あれはわたしのワガママだったんだから」
少し、ほんの少しだけでいい。こうしている間だけ陽葵先輩の“心”に触れていられる気がしたから。
「ごめんね、葵。最後まで余計なもの背負わせちゃって。でもわたしは、葵と一緒に野球ができて毎日ずっと楽しかったよ」
そう、そうだ。
私が陽葵先輩と一緒に野球できる日々はもう終わったんだ。もう毎日同じ時間を過ごすことはない。もう部室で次の対戦相手の研究したり、配球について相談したり、同じ帰り道でとりとめのない会話をすることもない。
先輩はもうどこか遠くへ行ってしまうんだ。
────これで、本当にお別れなんだ。
「さみ……しいです」
その小さな言葉と一緒に、私の目から信じられないほど大粒の涙が溢れていた。
「寂しいです……陽葵せんぱい」
「うん」
「もっと……せんぱいと、一緒にぃ……っゔゔ。野球、しだかっ……ううぅぅっ!」
「……うん。わたしもだよ」
溢れ出した涙はもう止まらなかった。
それからしばらく、先輩の肩に身を預けながら言葉にも満たない嗚咽を漏らし続けた。私の眼から涙が枯れて、心からこの感情が底をつくまで。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「もう暗いから気をつけて帰ってね」
気づけばあっという間に日は沈んでいた。草陰で鳴く鈴虫の音色が清々とした私の心情と重なって、何とも心地良く耳に馴染んだ。
「その、今日はありがとうございました……色々と」
「いやぁ、それを言うならこっちこそだよ。お見舞いに来てくれてありがとうね〜、葵」
今更になって少し気恥ずかしくなってきた私の胸中なんてお構いなしに、陽葵先輩はいつもとまるで変わらない笑顔で私に手を振っていた。
けど、本当はそれで良かったのかもしれない。
私も先輩も、今日のことがあっても関係は変わらない。私にとっての陽葵先輩は尊敬する先輩のままだし、先輩にとっての私も世話のやける後輩のままだろう。
この先私たちの行く道が別れたとしても、いつかまた会えたら、その時はきっと今と同じように笑ってくれるような気がしたから。
「ごめんなさい、陽葵先輩。私、明日からは毎日お見舞い来れないかもしれません」
「ん、そうなの?」
この時、私の胸の奥にはまったく新しい
「だって私は、野球部の練習がありますから!」
「……そっか」
「そうです! 先輩と同じ
それが私が叶えたい新しい景色。
凡人の私が身を削って努力しても、ほんの一瞬で消費されてしまうような淡い夢。
だけど、そんなモノに全てをかけられてしまうのが“青春”という劇薬の恐ろしいところなのだろう。
「だから私、明日から必死に練習します。次グランドで会った時に少しでも成長したなって思ってもらえるように配球とか戦術とかもっともっと勉強します。だから、同じチームじゃないかもしれないですけど、いつかまた絶対一緒に野球しましょうね。陽葵先輩」
「……うん。そうなればいいね」
「はい。だからもう1人で無茶はしてくださいよ?」
「アハハ、わかってるよ」
そこで不意に訪れた沈黙に耐えられなくて、咄嗟に茶化すような声でそれを埋めてしまった。
「あ! 実は先輩、私がお見舞いに来なくなっちゃったら寂しいんじゃないですか?」
「……うん。ちょっとだけ」
恐ろしいほど素直な先輩の言葉に止んだはずの感情が吹き返しそうになった。
「やめてください……そんな顔されたら私までまた寂しくなっちゃうじゃないですか」
「……ごめんごめん」
これ以上ここにいたらせっかくの決意まで揺らいでしまいそうだったから、私は1歩後ろへ脚を引いた。
「さようなら。陽葵先輩」
「うん。バイバイ、葵」
これで私たちの道は分かたれる。そのはずだった。
「────それでは、一之瀬さんの話はなかったということで」
それは私がたまたま部室の鍵を借りに職員室裏の廊下を歩いていた時のことだった。
「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「いえ、こちらこそ貴重なお時間をいただきありがとうございました」
そう切り上げて応接室から顔を出したのは、いつかの練習に訪れていた黒縁眼鏡の女性だった。
「あれ、津代さん? どうしたの?」
その後に続いて私たち野球部の担当教師が顔を見せた。
「あ、こちら、蘭華女子高等学校野球部の監督をされてる
「どうも」
「……こんにちは」
やっぱり私の記憶に間違いはなかった。
この愛想の薄い口調、特徴的なフレームの眼鏡。間違いなく、テレビの向こう側で見ていたあの大柿紫だ。
「その……今の話、どういうことですか? 先生。陽葵先輩がどうとかって」
それだけよく知ってる人だったからこそ、どうしても、数秒前に聞こえてきた彼女の言葉を聞き流すことができなかった。
「聞いてたの? あ、あれは実は……」
「君が聞いていた通りだ。我々蘭華女子は一之瀬陽葵の推薦入学の話を取り消すことにした」
これっぽっちも取り繕うことのない彼女の言葉に、私は正面から首を絞められたような心地がした。
「ど、どうしてですか!? 先輩には申し分ない実力があるはずです! それを認めてたからアナタも直接見に来て……」
感情に任せて大声で捲し立てる私の眼前に、大柿紫は指を3本立てて見せた。
「3つある。1つ、一之瀬陽葵はこの3年で何の“結果”も得ていない。2年の時はそこそこ勝ち上がったが、肝心な3年の夏は初戦負けだ。限られた推薦の枠を使ってそんな無名に近い人間を学校に招くことはできない。その点ならまだ君たちに勝った
あの2人が全国大会まで勝ち進んでいたことを、私はこの時初めて知った。
けど、それは私たちが早い回に陽葵先輩を援護できなかったからであって。これっぽっちもあの人のせいじゃない。
「2つ、一之瀬陽葵は長いことワンマンチームでプレーしてきた。そのせいでこの前の試合でも個人プレーに傾倒するきらいがあった。リーグ戦を勝ち抜くためには時にチームのために個人の感情を犠牲にする必要がある。自分の感情を優先してマウンドに残ろうとする投手などもってのほかだ」
あの場面は陽葵先輩がマウンドに残るのがチームにとって最良の選択肢だった。
むしろ陽葵先輩はそのために自分の痛みや苦しみを殺してあのマウンドに残ってたのに。
「3つ、怪我した部位が肘だったということ。マウンドで蹲るほどの怪我なら完全に治るまで1年か2年はかかるだろう。治療しながら腕を振り続ける選択をすれば常に肘の痛みが気になる状態になるだろうし、その分球威も衰えるだろう。肘を怪我するとはそういうことだ」
なんだ、なんだよ。なんなんだよ!
この人は何にも、何ひとつも先輩のことわかってない。陽葵先輩のほんの上辺を掬っただけで正当に評価した気でいるんだ。
貴方はあんなに遠くからしか陽葵先輩を見た事がないくせに! あの人がどれだけの想いを背負ってプレーしてきたか知らないくせに!!
「たった一回の結果を見ただけで、どうしてそこまで言われなきゃいけないんですか……」
「ちょっと、津代さん?」
「それに! あの試合だって、投球内容は陽葵先輩のほうが良かったじゃないですか! 怪我は仕方ないですけど、実力は先輩のほうが上でした! それくらい、貴方が本当に見る目がある人なら分かってるでしょ!?」
「やめて津代さん! 落ち着きなさいッ!」
強い声で先生に止められても私の怒りは収まらない。腹の底から止めどなく湧き続ける熱全てを目の前の1人の人間に向かって力いっぱいぶつけずにはいられなかった。
私はその時、生まれて初めて制御できないほどの激情に呑み込まれていた。
「このことに関しては私一人の感情で物を言っている訳ではない」
そこまでしても、彼女の表情や口調は一分として乱れることはなかった。
「私は立場上、他校の推薦選手事情についても人並み以上には情報を得ている。私の知る限り、近辺の学校も全て推薦選手の候補リストから『一之瀬陽葵』の名前を削除したようだ」
深く問い質さずとも彼女が嘘やデタラメを言っている訳ではないことはわかっていた。
「どこの学校も枠に限りからある中で、彼女のような投手の命である肘に不安のある選手を獲得しようとは考えないだろう。まだ名の知れてない高校の推薦を貰おうにもあの肘と脚ではセレクションも受けられないだろうな」
それでも、彼女の口から出る言葉全てが信じられなかった。信じたくなかった。
「気の毒だが、彼女はもう高校野球は諦める他ないだろう。それが彼女にとっても最善だ」
それだけ言い終えると、彼女は静かに私の前から歩き去っていった。
「あ、大柿さん! ちょっと待ってください!」
先生がそれを追っていなくなった後も、しばらくの間、私はその場から動くことができなかった。
廊下に面した硝子窓の向こう側から埃くさい夏雨の匂いが鼻についた。
私は、才能がある人は自然と多くの人から認められて、誰もが羨むような成功を手にするものだと思ってた。
自分じゃない誰かのために必死になれるような人はいつか必ずその想いが報われるものだと思っていた。
けど、それは違った。
その人がどれだけ際立った才能を持っていようと、どれだけ健全な精神を宿していたとしても、ある日突然、理不尽に“未来”を奪われるのだ。
その理不尽を被るのが
あの時、私が意地でも陽葵先輩を止めていればあそこまで深刻に肘を痛めることはなかった。例えあの試合に負けたとしても先輩の未来が奪われることはなかったんだ。
「やっぱり、全部私のせいだったよ……」
優しくて、誰にでも分け隔てなく笑いかけてくれて、何度も私の心を救ってくれた。そんな大好きな先輩の未来を、私が奪ったんだ。
陽葵先輩の肘は明日明後日で治るようなものじゃない。
私は知っている。一度失った未来は二度と取り返せないんだ。
謝って済む
────取り返さなきゃ……私が。評価も、未来も、
私にもう野球を楽しむ権利なんかない。自分を可愛がってる場合じゃない。
陽葵先輩のためなら、ワタシはチームの“毒”にでもなる。
そう、決意を固めた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「大塚有咲です。どうぞ、よろしくお願いしまーぁす……」
それから季節は2度巡り、ワタシは陽葵先輩と同じ明姫月学園高校の野球部に入部した。
「じゃあ、次の子! 自己紹介お願い」
「はい! わかりました!」
弱小野球部待望の新入部員として先輩たちの前に立ったワタシへ、一斉に好奇の目が向けられる。以前のワタシなら、自分可愛さに緊張なんかしてただろうか。
「津代葵です! 中学ではそこにいる陽葵先輩の捕手をしていました!」
ワタシがまっすぐ指さした先、道を違えたはずの陽葵先輩は、思いっきり面食らったような顔をしていた。
「葵、その髪……」
「お久しぶりですね。陽葵センパイっ!」
ワタシは長かった前髪をばっさり切った。
初めはやっぱり慣れなかったし、鏡を見る度に子供みたいな自分の顔には嫌気が差したけど、それでもあの日の私と比べたらいくらかはマシに見えた。
肝心な時にまた体裁や責任を気にして口が割れなくなるくらいなら、ワタシはもう自分を大切にしたいとも思わなかった。
「ワタシはこの部で陽葵先輩を日本一の
そのためなら、先輩。ワタシはアナタに嫌われたって構いませんよ。
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