第24話 止まない『想い』


「葵ちゃんは未だにそのことを気に病んでるみたいで、だからわざわざ陽葵ちゃんのいるこの学校に来て、同じ野球部に入ったんだって」


 菜月の話を最後まで聞き終えた頃には、栞李にも“津代葵”という人物の輪郭くらいは掴めた気がした。


「じゃあ、葵先輩はその“ヒナタ先輩”をエースにするために莉緒菜ちゃんの邪魔をしてたんじゃないですか! そんなの、到底許せる気がしません」

「うーん……私はそうじゃないと思うけどなぁ」


 栞李がどれだけ刺々しい口調になっても、菜月は決して丸い声色を崩さなかった。


「葵ちゃんはたまに嫌がられるようなことも言うけど、それは全部このチームが勝つために必要なことだったから。自分の好き嫌いだけで後輩を陥れたりはしないと思うよ」

「けど……っ!!」

「栞李ちゃんの言ってることも分かるよ。実際に莉緒菜ちゃんがこの合宿中ずっと本調子じゃないのも知ってる。けど、莉緒菜ちゃんが本当に特別なモノを持ってるのは私にだって分かるもん。葵ちゃんもきっとそれは分かってると思う。“才能”が報われない辛さは、葵ちゃんが一番良く知ってるはずだから」


 ゆっくり諭すような口調で話す菜月は思いやりに満ちた優しい眼をしていて、栞李も自然と沸き立つような激しい感情が萎れていた。


「やっぱり私には葵先輩のことがよくわかりません」

「私も分からないことはたくさんあるけど、信じることはできるよ。1年だけ、私のほうが付き合いが長いからかな」


 この会話で栞李の中で何かが解決した訳ではない。腑に落ちない、呑み込みきれない感情もたくさんあったけれど、不純のない菜月の笑顔だけは疑うことなく信じていたかった。


「一応、このことは沙月にも伝えておくね。いざという時はきっと私なんかよりずっと頼りになるだろうから」

「はい。ありがとうございます」

「……栞李ちゃんは、どうするの?」


 それを問われた時にはもう、栞李にできることはたった1つしか残っていなかった。


「私は……明日、莉緒菜ちゃんと直接話してみようと思います」






 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜






「そんな感じで、今のところ肘の経過は良好だよ。予定通り夏の大会までには何とか間に合うと思う」

「それは、良かったです……」


 陽葵の経過報告を聞いて、葵はそっと胸を撫で下ろしていた。


「それだけ〜? 今日は他に何か話したいこととかあったんじゃないの?」

「え……」


 電話越しに不意をつかれて、葵は思わず口ごもってしまった。


「どうして、そう思ったんですか?」

「んー? いやだって、怪我の具合なんて次会った時に話せばいいし、こうやってアオイからかけてくる時は大抵何かあった時だからさ」


 一之瀬陽葵という少女は相変わらず、人の痛みや苦しみには怖いくらい敏感な人物だった。


「もしかして、新しく入ってきた子たちと上手くいってない?」


 今度も葵は、まるで巧妙なマジックのように痛いところをズバリ言い当てられてしまった。


「……別に、フツーですよ」

「あ、今、誤魔化した。図星だったんでしょ〜」


 悪寒がするほど何もかも見透かされて、葵は何かを諦めたように大きく息を吐いた。


「大した事じゃありませんよ。ただちょっと、合宿の連戦の中で上手くいかないことがでてきただけです」

「また強がって……チームに憎まれ役が必要だっていうのもわかるけど、もう少し自分を大切にしてよ。ずっと怖い顔してるより、たまには笑ったほうがいいんじゃない? 新入生の子たちもそっちのほうが親しみやすいだろうし」


 そのあまりに呑気な声色が葵の神経を逆撫でした。


「……もう、そんな時間はないんですよ」

「え?」

「夏の大会までもう時間がないんですよ! 先輩はもう3年生だから、これが正真正銘最後のチャンスなんですよ!! 勝って勝って勝って、結果で先輩の実力を証明しなきゃいけないのに、ワタシたちにはまだ足りてないものばっかりで! このままじゃ去年と何も変わらない……全国どころかまた決勝リーグにすら進めない! ワタシ1人焦ってるのに、どれだけ焦っても時間は1秒だって増えてくれないから!」


 滝のように吹き出す言葉は呆れるほど無秩序にとめどなく溢れ続けた。


「ワタシがワタシを可愛がってるヒマなんて、もうどこにもないんですよ」


 喉を潰したかのような重たい声を最後に、葵は一方的に通話をちぎった。






 *****************






「“5-3”で明姫月高校の勝利! 両校、例ッ!!」

「『ありがとうございました!』」


 GW合宿4戦目となったこの試合に莉緒菜ちゃんが登板することはなかった。球数が少なかったとはいえ、ここまで3日連続でマウンドで上がっていたことを考慮されて、試合前から予め登板しないことが決まっていたらしい。


「ねー、栞李! この後1時間個人練習だって! 一緒にバッティング練習しない?」


 この日人生初ヒットを放って至極上機嫌の実乃梨ちゃんが、試合が終わるなり真っ先に私を誘いにきた。


「ごめん、実乃梨ちゃん。私今日はちょっと……」


 私が首を横に振ると実乃梨ちゃんは少なからず残念そうな顔をしていたが、次の瞬間には「じゃあ、あやめ先輩誘ってみる!」と、また元気いっぱいにグランドへ駆け出していった。

 時々、あのバイタリティがひどく羨ましくなる。


「私も、行かないと……」


 重たい脚を引きずるようにして向かった先は、外野フェンスの外にあるブルペン。

 そこは上から下まで防球用のネットに囲われていて、陽光が照らし続けるグランドとは切り離された碧色の光が射していた。

 そのカゴの中で、月明かりのような青白い緊迫感を放つ少女が1人、ネットに向かって黙々と白球を投げ込んでいた。


「莉緒菜ちゃん。ちょっといい?」


 声をかけられて初めて私に気づいた彼女は、一度手を止めてゆっくりこちらへ振り向いた。


「栞李? どうしたの?」


 余程深く集中していたのだろう。その額からは地に垂れるほど大粒の汗が浮かんでいたのに、それを拭いもせず堂々と着こなしていた。


「まだ、スライダーその球にこだわるの?」

「うん」


 私の顔色なんて伺いもせず、彼女はあっさりそれに頷いた。莉緒菜ちゃんらしい。


「どうして? この3日間、そのせいで何も上手くいってなかったじゃん」

「けど、おかげでようやく少しコツが掴めてきたから」


 そう言って彼女が投じた白球は極々平均的な軌道を描いて本塁奥のネットを揺らした。ひどく平凡で、弱々しく、いつかの輝きを濁らせるような鈍色の変化球だった。

 そんなボールを繰り返し投じる彼女を、私はそれ以上見ていられなかった。


「もう、諦めようよ……」


 口先から漏れた本音は焼け焦げた果実のような苦々しい味がした。


「莉緒菜ちゃんは良く頑張ったじゃん。新しいことに挑戦してみて、上手くいかなくて挫折するなんて誰にでもあることだよ。莉緒菜ちゃんには変化球ソレが向いてないってことが分かっただけで良しにしようよ」


「────イヤだ」


 彼女はやはり迷いも遠慮もせずに、はっきりと拒絶した。


「私はそれじゃイヤ」

「どうして……莉緒菜ちゃんだって気づいてるでしょ? スライダーにこだわってるせいでストレートのフォームまで崩れてきてるんだよ!? これ以上続けても悪影響しかないんだよ! 今ならまだやり直せるよ。このままじゃあのストレートも二度と元に戻らないかもしれないんだよ!? その向上心のせいで、自分で自分の首締めてるんだよ!! そんなのバカみたいだって、莉緒菜ちゃんもそう思うでしょ?」


 莉緒菜ちゃんがあまりに危機感なく首を振るものだから、私もついムキになって声に力がこもる。他人のことなのにどうしてこんなに必死になっているのか、自分でも理解できなかった。

 それでも、私の前に立つが眼を揺らすことはなかった。


「何かを失うことは怖くない。それよりも、自分を信じられなくなるほうがずっと怖い」

「……っ」


 彼女はその深く吸い込まれてしまいそうな大きな瞳に、ただまっすぐ私を映していた。


「私は、私を疑わない」


 その瞬間、風が吹いた。私の心のザラつきをくすぐるように。


 そうだ。はじめから分かってたはずだ。

 莉緒菜ちゃんはいつだって自分の決めたことに一直線で、頑ななまでに自分の目標に真摯に向き合ってる。

 だからこそ、一度決断したら梃子でも動かないし、誇張なしに倒れるまで努力できる。



 それが、『夢中』というものなのだろう。



「…………だったら、すぐに結果出してよ」


 これまでと変わらない『夢中』な彼女だったから、どこまでも私の先を行くだったからこそ、どうしようもなく感情が沸き立って止まなかった。


「何度も何度も簡単に打たれて、置きに行った腕の振りして! 投げながらいっぱいいっぱいな顔して!! マウンドの上でいちいち首傾げてるのなんて莉緒菜ちゃんらしくないよ! 前はもっと自信満々で、何の迷いもなく腕振ってたじゃん! 毎日毎日倒れるまで練習して、その日のためにって準備してきて……マウンドの上ではあんなにキラキラ輝いてたのに! バカみたいにカッコよかったのに!!」


 蛇口を捻ったかのように次から次へと感情が、言葉が溢れ出し、それらは全て目の前の倭田莉緒菜へと容赦なく投げつけられた。


「しお、り……?」

「莉緒菜ちゃんにとってマウンドの上あそこは大切な場所だったんじゃないの!? 自分を表現できる居場所なんじゃないの!? その場所であんな中途半端な投球するなんて全ッ然莉緒菜ちゃんらしくないよっ!! 胸張って堂々と投げられないくらいなら、マウンドに上がるなバカぁぁッ!!」


 吐いて、吐き出して、吐き出し続けて。最後にこの眼に残った景色は、誰一人寄せ付けず純然と輝く倭田莉緒菜憧れの背中だった。


「……お願いだから、もう二度と私にあんな姿見せないでよ」


 胸に積もった想いを最後の一滴まで絞りきった途端に、視野が開けてグランドの練習音や新緑を揺らす風の音が耳になだれ込んできた。


「え、あ……」


 見上げた莉緒菜ちゃんは見たこともないような表情で固まっていた。その顔と目が合って、ついに私は我に返ってしまった。


「ご、ごめん莉緒菜ちゃん! 今のは、今のは違くて、そのあの……」

「違うの?」

「いや、ちっがくはないんだけど……言い方とか、表情とか、必死すぎて気持ち悪かったし」


 自分の顔が沸騰するように熱くなるのが分かった。大声を張り上げたせいで、四方から無数の視線に見つめられてる気がした。


「どうしたの? 大丈夫?」


 そんな私の顔を至って平静な莉緒菜ちゃんに覗き込まれて、ついに意識がパチンと弾ける音がした。


「ごめんムリ! ホントごめん! ごめん莉緒菜ちゃん! ゴメンなさぁぁあああいッッ!!」


 思いっきり早口で捲し立てて、私は逃げるようにその場を走り去った。その時ばかりは後悔と恥辱に押し潰されて体感したことのないような勢いで足が回った。

 その後の時間は誰にも見つからないよう木陰で1人ずっと頭を抱えて過ごした。ぶつぶつとお経のように後悔を唱えながら。






 ***************






「何、だったんだろう? 今の……」


 栞李に好き放題想いをぶつけられた倭田莉緒菜は彼女が走り去った後も1人ブルペンケージの中に取り残されていた。

 栞李と言葉を交わしたくても、彼女はもうここにいない。気を取り直して新しい白球を拾おうとした瞬間に自分の左腕が小さく震えていることに気づいた。


「あ、ははっ……」


 少しばかりの興奮と、微かな緊張。指先を巡る血の走りまでもが鮮やかに覚えた。


 倭田莉緒菜には、幼い頃から友達と呼べる存在はいなかった。それは彼女の生い立ちや性格に起因する部分もあったが、単に彼女が孤独というものに慣れすぎていたのだ。

 だから彼女は新しいクラス新しい学校に移ってもわざわざ友達を作ろうとしなかったし、それに疑問や劣等感を抱いたこともなかった。もちろん、そんな彼女に対して真剣に向き合ってくれる人はいなかったし、正面からあれだけの感情おもいをぶつけられたこともなかった。


 だからそれは、倭田莉緒菜という少女にとって生まれて初めて味わう感情だった。



「────リ〜オナちゃん!」



 初めての感情に心浮かされていた莉緒菜の背後から、不意に子供のような無邪気な声がその名を呼んだ。


「シオリちゃんとなぁに話してたの〜?」

「別に、なにも……」

「ふーん。まあいいや、今はカンケーないし」


 さも悪意のなさそうな表情で歩み寄ってきたのは、見慣れた幼顔の少女だった。


「明日の試合について、ちょっとだけお話しない?」

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