第22話 “未来”と“明日”
「ストライク!バッターアウッ!チェンジ!」
「よッし!! ナイスボール!」
6回表の攻撃を0点に抑え、陽葵先輩は静かに息を吐きながらマウンドを降りた。
先輩の圧巻のピッチングから幕を開けたこの試合は、地方予選とは思えない程のハイレベルな投手戦の様相を呈していた。
陽葵先輩はここまで相手打線を内野安打1本だけに抑えるほとんど完璧な投球を見せていたものの、私たち打撃陣も相手エースの和泉樹さんから5回まで点を奪えずにいた。
荒れ球が目立つ樹さんから4つの四球を選び毎回のようにチャンスを作るものの、肝心な所であと一本が出ない。陽葵先輩にも引けを取らない
今日の陽葵先輩の出来なら1点あれば十分なのに。これじゃまた、あの日と同じだ。
「ふぅぅ……よし、行ってくる!」
そんな私の不安を吹き飛ばすように大きく息を吐き出して、この回の先頭打者である陽葵先輩が左打席に向かった。
「ヒナタ先輩! ここで1本!お願いしまぁすっ!!」
「キャプテンッ! お願いします!」
みんなが縋りたくなる気持ちも分かる。今日の陽葵先輩は敬遠気味の四球1つとチーム唯一の長打である
打線の中でも間違いなく今日1番当たってる打者だった。
「お願い、陽葵先輩……打ってください!」
祈ることしかできない私が見つめるその初球、高めのストレートを一切の躊躇なくフルスイングした。
「ファールボール!」
しかし、そのスイングは紙一重のところで白球の下に潜り、打球はバックネットへ突き刺さった。
「惜しい惜しい! ナイススイングです! ヒナタ先輩っ!!」
ベンチからどれだけ必死に声援を飛ばしても、陽葵先輩はこちらに一瞥もくれることなくその1球1打席に集中していた。
「ボール! ツー!!」
そんな先輩を警戒してか、そこから2球大きくストライクゾーンを外れたボールが続いた。
カウント1ボール2ストライク。打者有利のヒッティングカウント。それに際して陽葵先輩も一度打席を外して軽く素振りをした。
樹さんの持ち球はストレートとカーブの2つだけ。ここまで陽葵先輩を最大限警戒してきた相手バッテリーがこの場面で安易にストレートを選択するとは思えない。十中八九、次はカーブがくるだろう。それを陽葵先輩が狙うか否か……
「……」
以前の陽葵先輩なら難しいボールをわざわざ打ちにいったりはせず、チームのために喜んで
けど、今は違う。
きっと先輩は、この1球を狙うつもりなんだ。無茶でも、それによって不利を被ろうとも。自分1人で決着をつけるために。
「キャプテン! 頑張れ! キャプテンっ!!」
「ヒナタ先輩ッ!!!」
その次の1球、それは一瞬のことだった。
「────危ないッッ!!!」
樹さんの投じた強烈なストレートが大きくゾーンを外れ陽葵先輩の左膝付近を襲った。普段なら避けられたはずのボールだったのに、
「陽葵先輩ッ!!」
白球は、先輩の左膝に直撃した。
その瞬間、頭が真っ白になり気づいた時には私はベンチを飛び出していた。
「先輩!!」
「ッッたた……」
当たり所が良くなかったのか、陽葵先輩はすぐには立ち上がれなかった。
「ヒナ先輩! 大丈夫ですか!?」
「キャプテンっ!!」
私に続いてチーム全員がベンチを飛び出してくる事態になり、一時グランドは騒然とした雰囲気に包まれた。
「陽葵先輩……」
みんなの心配そうな顔が取り囲む中で、陽葵先輩はゆっくりと体を起こした。
「あはは。ごめん、みんな。もう大丈夫だから」
「けどキャプテン……」
「大丈夫だよ」
心配する私たちの声を封殺して、陽葵先輩は無理やりに立ち上がった。
「先輩これ、コールドスプレーです」
「うん、ありがとう」
痛みを殺すように患部に目一杯スプレーをふりかけて、陽葵先輩は1塁へ歩き出した。
先輩が1塁についたところで、マウンド上の樹さんが帽子のつばを触って謝意を示した。
「あんた、さすがにあれはあかんやろ」
「わ、わざとやないわ! ただ、打席に立ったアイツの雰囲気が、なんかこう……」
「なんや、ビビっとったんか」
「な、アタシが
「ハイハイ。ビビりちゃん。ヒヨっとらんと早いとこ次のバッターに集中しいや〜」
そこでは
とはいえ、これはチャンスだ。
陽葵先輩の足は心配だけど、ここで点が取れれば
是が非でもここは、“1点”が欲しい。
「試合を再開します。プレイ!」
続く打者もそんな現状を察して、ゆっくりとバントの構えを見せた。
確かにノーアウト1塁のこの場面でバントを決められれば1点に繋がる可能性は高い。けど、1塁ランナーの陽葵先輩は足に当てられたばかりだ。送るにしても、余程良いところに転がさなければアウトになってしまうだろう。
そんなことを考えながら見つめていた初球、誰もが想像していなかったことが起きた。
「────ランナー走った!!」
「なッ!!?」
投手がモーションに入ると同時に、1塁の陽葵先輩がスタートを切っていた。
「ウっソやろ」
それは相手にとっても完全に想定外のことだったようで、2塁ベースカバーに入る瑞さんのスタートが明らかに遅れた。
「くッ……!!」
そのせいで1塁側へ逸れた送球を捕球しきれず、グラブの端ではじいた白球が右中間に転がっていった。
それを見た陽葵先輩は迷わず3塁へ走り出した。
「なッ!?
「くっそ……」
外野の手前を転がるボールを瑞さんが拾った時には陽葵先輩は既にサードベースに滑り込んでいた。
「こら
「うるさい! 完全に虚をつかれた……まだ足も痛いはずやのに。思いついても走らんやろ、普通」
陽葵先輩の足にまったく痛みがないはずがない。今の盗塁だって、タイミングは完全にアウトだった。
それなのに、結果として今、先輩は3塁にいる。
今この瞬間、たった1人の“普通”ならざる執念と気迫が、この試合の均衡を突き崩そうとしていた。
────キャィィッ!!
4番打者への3球目、高めのストレートに詰まらされた打球はフラフラと2塁ベース後方へ上がった。
「おもしろい当たり!」
「落ちろっ!!」
絶妙な詰まり具合になった打球は、前進守備を敷いていた内野陣からはやや遠いインフィールドライン付近に落ちようとしていた。
「落とすか!!」
誰もが捕球を諦めて先の塁のベースカバーに入る中、瑞さんだけがその打球を決死の形相で追っていた。
「んッ!!」
間一髪で飛球に追いついた瑞さんは体勢を崩しながらも何とか白球をグラブに収めた。
その次の瞬間、私たちはまた信じられない声を聞いた。
「
「はぁ!?」
私も、ベンチにいる誰もが打球にばかり気を取られていて、その声を聞くまでランナーの存在に気がつかなかった。
ショートが
「くッ……そ!!」
それに気づいた瑞さんも慌てて体勢を立て直してホームへ送球する。タイミングはギリギリ。ホームでのクロスプレーになるかと思われたが、その送球は中途半端なショートバウンドになり、捕手のミットを弾いた。
「セーフ! セェェーフッッ!!」
判定がコールされると、グランドが一斉に沸き立った。
「よしッ!! 先制点!」
「キャプテン! ナイスランです!!」
「ヒナせんぱぁいっ!!」
たった1人で喉から手が出るほど欲しかった先制点を奪ってきた陽葵先輩を、ベンチは大歓声で出迎えた。
1点、この1点が勝てる。ベンチの誰もがそれを疑わない無垢な笑顔を浮かべていた。
────カコッ!
「アウト!」
続く打者は初球を打ち上げ、ツーアウト。この場面で打順は6番の私に回ってきた。
「……」
陽葵先輩はまだ肩で息をしている。ムリもない。この酷暑の中、たった3球の間にグランドを1周してきたんだ。イニング前のキャッチボールもせずに、未だにベンチに座ったまま静かに息を整えてる。
「バッター! 代打がないなら打席へ」
「あ、はい! すみません……」
ここは少しでも陽葵先輩を休ませるために球数を稼ぐ。ヒットは打てなくてもそれくらいなら。私だって、少しくらいはチームのために……陽葵先輩のために貢献しなきゃ!
「ストライク!ワン!!」
初球、高めストレート見逃しでストライク。
こちらの狙いを見透かしているかのような甘いコースのボールだった。
2球目も同じように見逃してしまうと、私の狙いが完全にバレてしまうかもしれない。もしまた甘いコースに来たら、ブラフでもいいからスイングをかける。
「きッ……!」
次球、高めに浮いてきたように見えた球は、私がスイングを始めると同時に大きく曲がり落ちた。
「スイング! ストライクツー!」
ダメだ。完全に手玉に取られてる。たった2球で難なく追い込まれた。まだ先輩はほとんど休めてない。1球でも多くファールで粘らなきゃ。
このバッテリーに遊び球はない。3球勝負でくるはずだ。決め球はストレートか、カーブか……
「ふりャッ!!」
真上から投げ下ろすようなフォームから放たれた球はまっすぐ高めいっぱいのコースへ飛び出した。
そのコースを見て一瞬、思わずストレートだと錯覚してしまった。
「うぅっ、く……」
白球はそこから大きく軌道を変え、低めのボールゾーンへ曲がり落ちた。
それに気づいた時にはもう、私のバットは既に半分以上回ってしまっていた。
「スイング! スイング!! ストライクスリー! バッターアウッ!!」
「ッッ!!」
なにも、できなかった。
たったこれだけのことなのに、私はまた先輩の力になれなかった。
「よし! それじゃみんな! ラスト1イニング、気を引き締めていこう!!」
「『はいっ!!』」
キャプテンという立場上、気を落とすことなくチームメイトを鼓舞していたものの、先輩はまだ息をする度に肩を上下させていた。
「ほら、葵も暗い顔しない。あと1イニング守りがあるんだから」
「はい……すみません」
────そして終に、先輩の身に異変が生まれる。
「ラスト1球!カーブ!!」
それは最終回に入る前の投球練習中のことだった。
「……ッッく!!」
いつものルーティン通りの
「ごめん、葵。ちょっと引っかけちゃった」
本人は適当に誤魔化していたけど、先輩がカーブの制球をあそこまで乱すのは珍しい。本当にただ引っかけただけなのか、それともやっぱりさっきのデッドボールの
いずれにしてもそれは、私の胸に燻る不安の火種を煽るには充分過ぎる
私がマウンドに声をかけに行こうか迷っていると、陽葵先輩はそれを差し障りのない笑顔で制した。マウンドの上から『大丈夫だから』と優しくあやされているような心地がした。
「じゃあみんな! 最終回! しまってこー!!」
マウンドの上、グランドの一番高いところから精一杯声を張り上げてから、陽葵先輩は肺を潰すような表情でプレートに足をかけた。
その初球、清々しい快速球がコースの真ん中に入った。
「あまい……ッ!!」
あまりに打ち頃のコースに入った1球を打者も見逃すことなくスイングをかけたが、衰え知らずの球威に押され打球は真横に飛んだ。
「ファールボール!」
1点差の最終回、先頭打者。この上なく慎重にいくべき場面なのに先輩はどこか勝負を焦っているように見えた。
しかし、私が声をかけに行く暇もなく、先輩はすぐに2球目の投球モーションに入った。
「んッ!!」
力強いフォームから放たれた白球はスイングを誘うような甘いコースから外低めギリギリのゾーンへ鋭く変化した。
「ストライク!ツー!!」
いとも簡単に先頭打者を追い込んだ。キレも球威も衰えはない。このままなら逃げ切れる。そう確信した次の1球のことだった。
「────なアッッ!?」
陽葵先輩のウイニングショット、空振りを狙ったカーブが打者の顔付近にすっぽ抜けた。
球速が落ちていたおかげで打者は間一髪身を捩って躱した。
「ボール!」
その一瞬、審判のコールをかき消すような密度でグランド中がどよめきに包まれた。
何事かと顔を上げると、すぐ目の前で陽葵先輩がバランスを崩してマウンドに膝を付いていた。
「ヒナ先輩っ!! 大丈夫ですか!?」
どうやら相当派手に倒れたようで、次の瞬間には内野手全員が青ざめた顔をしてマウンドに集まっていた。
「ちょっとつまずいただけだよ。へーきだから」
陽葵先輩は心配そうな顔をするチームメイトを追い払うように、憤りの混じったような粗雑な声を吐き出した。
それはまるで、あの時と同じような……
「陽葵先輩……」
墨のように重く黒い感情で心がいっぱいになりそうだった。
首筋に吹きかかる夏風がやけに冷たく感じる。
こんな不安は今まで何度でも先輩が拭ってくれた。今回もそうであってほしいと祈ってしまうのは、私が本心ではこれまでとの“違い”に気づいていたからだったのかもしれない。
────キィィンッッ!!
次の1球が私のミットに届くことはなかった。
「センター!
高々と舞い上がった打球は必死に背走するセンターの頭の上を悠々と越えていった。
会心の当たりはワンバウンドでフェンスまで到達し、その間に打者は2塁を陥れていた。
この試合初めての長打が、考え得る最悪の場面で飛び出してしまった。
「タイムお願いします!」
これには慌ててタイムを要求し、内野手全員がマウンドに駆け寄った。
「キャプテン……やっぱりどこか痛めてたんじゃ」
その1球はこれまでの投球とは比べものにならないほど球威がなく、球速も目に見えてわかるほど落ちていた。正面で見ていた
「今のはちょっとフォームのタイミングが合わなかっただけだから」
「けど、その前もバランス崩して……」
「────大丈夫だから!!」
陽葵先輩が珍しく他人に向かって声を荒らげた。これまで見たこともないような大粒の汗を額に浮かべ、未だに呼吸が落ち着かない。
誰の目から見ても、明らかにいつものヒナタ先輩とは違うのに、その人は一向にマウンドを降りようとはしなかった。
「無茶……しないでくださいよ。キャプテン」
その言葉を一番に口にできたのは、私じゃなかった。
「そ、そうですよ! ヒナ先輩には“未来”がありますから! もし今日勝てなくても、強豪校に行けばいくらでもリベンジするチャンスはありますよ!」
「そうですそうです! 蘭華とかに入ればきっと何回だって全国目指せますよ!」
なだめるように必死で言葉を絞り続けるチームメイトたちをまっすぐ見据えて、先輩は躊躇わず口をほどいた。
「でも、この
たったの一言。陽葵先輩の心根にある不純のない強い想いが彼女たちの言葉を容易に握りつぶしてしまった。
「今日勝てなければわたしに“未来”が残ってても仕方ない。このチームの“明日”は一度失ったら二度と取り返せないんだよ」
その強い想いは言葉となって、理由を持たない私たちの心をひどく揺さぶった。
「わたしはもう、誰にも悔しい思いをしてほしくない。あんな顔、もう誰にもして欲しくないんだよ。終わってからどれだけ取り戻したいと願っても、もう絶対にあの日は返ってこないんだから……」
去年の夏、あのベンチ裏で何人が涙を流したのだろう。戻らない日々を想って何人が唇を噛み締めていただろう。
きっと陽葵先輩はその数を知ってるんだ。誰よりもその痛みを心に背負い込んでいるんだ。だから今も、自分が誰よりも苦しそうなのに、それでも尚自分じゃない誰かの“明日”を想ってるんだ。
そんな彼女にかけるべき言葉を、誰一人として見つけることができなかった。
「けど、それじゃキャプテンが……」
「あ、アオイ先輩! アオイ先輩からも何か言ってあげてください! 朝練の時とか、よくヒナ先輩と一緒にいたじゃないですか!」
その言葉をきっかけに全員の視線が一斉に私へ集まった。
「わ、私……?」
先輩の身体に無視できない異変が起きていることは誰もが分かっていた。けど、本当はみんなも先輩にマウンドを降りてほしい訳じゃない。
今日ここで負けて、何も心残りがない訳がない。
「そうですよ津代先輩。津代先輩もキャプテンにこれ以上無茶してケガなんかほしくないですよね?」
私? 私……私は、どうしてほしいんだろう。
先輩に、何もなかった私に数えきれないほどの大切な瞬間をくれた陽葵先輩に、いったいどうしてほしいのだろう。
もちろん、無茶もケガもしてほしくはない。本当は私だって、先輩には自分の“未来”を大切にしてほしい。たまには誰かのためじゃなく自分のためにプレーして欲しい。その行く先に広がっている輝かしい表舞台へ不安なく駆け出していって欲しい。
それは私が誰よりもその姿に憧れて、幾度となく魅了されてきた
けど……それじゃまた、先輩の“望み”は叶わないんだ。
「私、私は……」
湿り気のある重たい暑さが全身にべったりと張り付く。こんな時に限って、セミの鳴き声がやけに近く聞こえる。
まだ何をした訳でもないのに、四方から大声で責め立てられているような気分だった。
「私は、陽葵先輩のしたいようにすればいいと思う……」
我ながら狡い答えだったと思う。
けれど私にはこれ以上、言葉にできる
「……ありがとう、葵」
「ちょ、ちょっと待ってください! キャプテン!」
「みんなも、心配してくれてありがとう。けど、わたしはもうへーきだから」
その時先輩が口にした『へーき』は、私たちの知ってるそれとは何か少し違って聞こえた。
「…………わかりました。それじゃああとアウト3つ取って、何としても勝ちましょう! この試合!」
「私たちも精一杯守りますからっ! ジャンジャン打たせてくださいね! ヒナ先輩!!」
結局、みんな陽葵先輩の熱意に押し切られるような形で内野陣がそれぞれ自分のポジションへ散っていった。
それと一緒に私もポジションに戻ろうとマウンドへ背を向けた瞬間、背後から今にも消え入りそうな細い声が聞こえた気がした。
「────ごめんね、みんな」
「え……?」
咄嗟に振り向いても、先輩はもう次の打者に向けて集中力を高めていて、とてもそんなことを呟くような
私の空耳だったのかもしれない。けれどどうしても、その言葉や声色が私の頭から離れていかなかった。
「試合を再開します、バッターアップ!」
球審に促され3番の瑞さんが右の打席に入った。私もそれを見て慌ててミットを構える。
「ちょッッ!?」
ゆったりとしたセットポジションから投じた初球は外いっぱいに構えていた私のミットを大きく外れ、再び打者の顔近くを通過した。
「ボール! ワン!」
「あぶな……」
瑞さんは間一髪でその1球を躱して、マウンド上の陽葵先輩を睨みつけていた。
サインはスライダー。陽葵先輩が
やっぱり、先輩は本調子じゃないんだ。少なくとも、私の知ってる“陽葵先輩”はこれくらいのピンチで制球を乱したりしない。
────キィンッ!!
「……ファールボール!」
続く2球目、真ん中高めのストレートをレフトポール左まで飛ばされた。フェアゾーンに飛んでいればフェンスを越えていたんじゃないかと思うほどの強烈な打球だった。
球威も明らかに衰えている。“陽葵先輩”はこんなに簡単に外野を越されるような当たりを許したりしなかった。
「……ふぅ」
強打をされた後で投げづらかったのか、先輩はサインに首を振り、一度プレートから足を外した。
身体的にも精神的にも、これまでのような揺るがない強さが失われていた。
先輩はきっと、この時既に自分を信じきれなくなるほどの異変を孕んでいたのだろう。
「キャプテン! 落ち着いてひとつずつアウト取っていきましょう!」
「ヒナ先輩! ファイトです! 強気に攻めていきましょう!!」
けれど、先輩はそれを自覚しながらも、最後まで懸命に戦った。最後の一瞬まで勝利のため、応援してくれるみんなのために精一杯腕を振った。
「んんッッ!!」
この試合、陽葵先輩が投じた
その球にはもう、先輩を“特別”たらしめていた輝きは欠片も残っていなかった。
────キィィインンッッ!!!
その瞬間、私の眼はハナから快音残して飛んでいく打球の行方なんてまるで追っていなくて。
「……ッゔぅぅ」
この瞳はただ、マウンドの上で肘を抱えてうずくまる人影にぼんやりと焦点を合わせているだけだった。
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