第19話 届かぬ想い
「葵〜、ラスト1球!カーブ!」
試合直前のブルペンでも、陽葵先輩はいつもと変わらないよう振る舞っていた。
「オッケー!ナイスボールです!」
その朝の陽葵先輩のボールは連戦の疲れを感じさせない強さと鋭さを取り戻していた。
「調子、良さそうですね」
「……? もちろんだよ。葵からはどこか変に見えた?」
「あ、いえ。そういう訳じゃないんですけど」
ふとグランドへ目をやれば、対戦相手である森谷第一中のメンバーがシートノックを始めていた。
さすが守備力で勝ち上がってきたチームなだけあって、内外野共に目立ったミスはなく、全員が基本に忠実なプレーをしていた。
「さすがにみんな上手いですね。控えの選手でもエラーしそうな雰囲気ないですし」
「うん。でもキープレイヤーはやっぱり、あのキャッチャーかな」
陽葵先輩が視線をやっていたのが、ノック中、人一倍声を上げてチームを盛り立てていた捕手、
正捕手だけでなくチームのキャプテンも務める彼女は、リード、キャッチング、ブロッキング、スローイングまで全くの隙がなく、地区代表選手に選出されるほどの実力を持つキャッチャーだった。
森谷一中の堅守は全て彼女を中心に成り立っており、ここまでも全試合フルイニングでマスクを被り続けている。
「キャッチャー……」
自分でも気づかない内に、しんしんと冷えていた私の頬にそっと、陽葵先輩の熱い指先が触れた。
「ふふーん、やっぱり冷たくなってた」
「な、なんですか……?」
ふと振り向いた私の顔を見て、陽葵先輩は満足そうに微笑んだ。
「比べたって仕方ないよ。わたしにとって、このチームにとっての正捕手は、葵しかいないんだから」
自然な声だった。
私はこれまで、もう何度もこの飾りのない声に救われてきた。
「……ありがとう、ございます。陽葵先輩」
「うん! じゃ、そろそろみんなのとこ戻ろ」
「はいっ!」
そうだ。
私が捕手として相手に及ばずとも、こっちには陽葵先輩がいる。
私にできる事があるとすれば、先輩が実力を存分に発揮できるよう支えになることだけ。そのために今日まで私は頑張ってきたのだから。
「────それではこれより、中学女子野球地区大会決勝戦を始めます。両軍、礼ッ!!」
「『よろしくお願いします!』」
お互いに頭を下げて後攻の私たちが先に守備位置へ散る。
投球練習を受けながら、昨日陽葵先輩と立てた投球プランを思い返す。
『このチームのバッターはみんな空振りが少ないから、どの打順の選手でもあまり待球を怖がらない。わたしたちはそれを利用して、常にバッテリー有利なカウントで勝負できるようにしよう』
『積極的にストライクゾーンに投げ込んでくってことですね?』
『そうだね。勝負は最初の3球。そこでストライク2つ取れれば、後は厳しいコースを打たせればいい。インコースも余裕がある内に使っていこう』
──大丈夫。ちゃんと覚えてる。試合のプランもイメージできる。
「よし、ラスト1球です!!」
私の声で、グランドから白球が1つに減る。
その最後の1球を目一杯の力でセカンドへ送球したのを確認すると、相手先頭打者が右打席に足を踏み入れる。
私たちの『明日』を決める一戦が、いよいよ始まる。
「────プレイボール!!」
そのコールが頭の後ろから響いた途端、身体中からどっと汗が吹き出すような幻覚に襲われた。
落ち着け。
まずは初球。チームとしても、バッテリーとしても、出鼻をくじかれる訳にはいかない。
まずは陽葵先輩の一番得意なカーブから!
「ストライーク!ワン!!」
高めのボールゾーンからやや甘めに入ったカーブを、相手打者は何の反応も見せずに見逃した。
やっぱりそうだ。陽葵先輩の言う通り、このチームの打者は待球を怖がらない。
これなら、こっちは楽にカウントを稼げる。
「ストライク、ツー!」
2球目はストレート。
アウトコースやや高めのボールだったが、やはり相手打者は手を出してこなかった。
これでツーストライク。追い込んだ。
ここからは厳しいコースで勝負する。陽葵先輩ならコントロールの心配はいらない。低めのストライクゾーンからボールに逃げるスプリット!
「ボール!」
このボールも、打者はわずかに反応したものの、直前でスイングを止めた。
とはいえ、狙い通り3球で有利なカウントに整えられた。後はこっちの得意球で勝負。
「ふッ!!」
続く4球目、普通の打者であれば腰が引けるような
「ストライーク! バッターアウッ!!」
よしっ! 思い描いた通りの見逃し三振!
これ以上ない理想の立ち上がり。ストレートも変化球もキレ・制球ともに申し分なく、ここまでの疲労を微塵も感じさせない投球だった。
────キャィッ!
続く打者も、3球目のスプリットを打たせてショートゴロ。
危なげなくツーアウトを取って迎えるのは、相手の
打席に入る所作ひとつとっても、洗練されていてとても同じ中学生とは思えない落ち着いた雰囲気を纏っていた。
ビデオで見るよりずっと大きく見える。
とはいえ、データ上は引っ張り打球の多い中距離ヒッターのはずだ。
初球、まずは厳しいコースのスプリットで様子見を。あわよくば引っかけさせる。
「……っ!?」
その初球、要求通り真ん中低めに制球されたスプリットに対して、何の迷いもない強振を見せた。
「ストライク!ワン!」
しかし、そのスイングはタイミングもコースもバラバラで、かすりもせず空を切った。
完全なストレートタイミングのスイング。何かのブラフだろうかと疑いたくなる。けど、これだけあからさまなスイングをされて
それにカウントに1つ、余裕もできた。
ここはもう1度、変化球で様子を見よう。
「……ふぅッ!!」
ストライクゾーンを縦に割るカーブを外低めへ。コーナーいっぱいの所に制球されたボールを、また迷いなく踏み込んでスイングをかけられる。が、そのスイングはわずかに白球の下を潜り、打球は平凡な内野フライとなった。
「オーライ!!」
セカンドベース付近の飛球を二塁手が確実に掴みスリーアウト。わずか9球で片付けた上々の立ち上がり……のはずなのに、どこかに違和感を覚える。
それぞれのバッターに陽葵先輩の実力を見定められているような、じっくり球筋を見極められているような、そんな底知れない不気味さを感じずにはいられなかった。
「葵〜! ナイスリード」
「あ、はい……先輩も、ナイスピッチでした」
落ち着かない私の顔を覗きながら、陽葵先輩はじわりと表情に自信を滲ませた。
「そんな顔しないで大丈夫だよ。わたし今日、調子いいみたいだから」
まさにその言葉の通り、陽葵先輩の球はイニングを重ねるごとにキレを増していった。
得意のカーブ、スプリットはもちろん、これまであまり投じていなかったカットボールやスライダーの出来も抜群で、三振は奪えずとも内野ゴロの山を築いた。
5回まで投げて、内野の頭を越える当たりさえなく。内野安打1つと四球1つを許しただけで相手に2塁を踏ませない投球を続けていた。
「ストライーク!バッターアウッ!!」
しかし、私たち野手陣も相手エースの制球力抜群のストレートと、同じ軌道から鋭く変化するスライダーに苦しめられていた。単打や四球でチャンスを作っても、肝心な場面で守山さんのリードに翻弄された。
ホームベースが、果てしなく遠い。
結果、全国大会出場を懸けた一戦は5回裏を終えても『0-0』の均衡状態が続いていた。
「ふぅぅ……よし! 切り替えていこう」
陽葵先輩は気丈に振る舞っていたが、この接戦の中で、極限の集中力がいつまで保つか分からない。3人のローテーションで投手を起用してきた相手とは違って、陽葵先輩はここまでほぼ1人で投げ抜いてきたんだ。連戦の疲れがないはずがない。
「この回は相手も3巡目に入るから、その前にランナー出さないよう気を引き締めていこう」
「はいっ!」
6回表の相手の打順は9番から。そこを塁に出してしまうと、ランナーを背負った状況で3巡目の打者と対戦しなくてはならない。
一般論として、3巡目の打者は配球や変化球の球筋にも慣れてくるため、打率や長打率が
ここは絶対に、塁に出しちゃいけない。
「ボール!!」
そんなことばかり考えていたせいで、初球の入りが慎重になり過ぎた。
スライダー。厳しいコースだったのにピクリとも反応しなかった。このバッターも、こっちが塁に出したくないことをよく理解してるみたいだ。
ここは、カーブで1つカウントを稼ぐ!
────キンッ!!
「なっ……!?」
完全に狙いを外した。そのはずだったのに、相手打者は外低めのカーブへ躊躇なく踏み込み、思いっきり振り抜かれた。
角度はつかなかったものの、地を這うような鋭い打球があっという間に三遊間を破っていった。
「この試合初めてノーアウトのランナー!」
おかしい。
コースの隅を突く完璧なカーブだった。このカウントじゃ振り切ることはおろか、スイングすることすら躊躇うはずのコースだったのに。
それなのに、あの打者は迷うことなく踏み込んできた。
カーブが見切られてる? いや、あのバッターはまだ2打席目だったはずだ。その1打席目でもカーブは1球しか投げてない。たった1球で慣れるような球じゃないし、今日はまだキレも球威も衰えていないのに、一体どうして……
────カィンッッ!!
続く打者は初球。
カウントを取りにいったスライダーを強振され、打球はまたしてもレフト前まで転がっていった。為す術もなく、ランナー1、2塁。まだ、ひとつもアウトを取れていない。
「……ボール!」
これまで1度だって
「ボール!ツー!」
スライダーも完全に見切られてる。捕球が難しいスプリットはランナーのいるこの場面じゃ要求しにくい。
「ボール!スリー!!」
何を投げても強振される気がする。初回みたいに簡単にカウントが取れない。
陽葵先輩がどれだけ際どいコースに投げ込んでも、私にはそれをストライクに見せる技術がない。
「ボール! フォア!!」
…………さい、あくだ。
「タイム!!」
塁が埋まったところで、凪紗先輩がすかさずタイムをかけた。
マウンド近くに集まった選手たちはみんな同じように不安に取り憑かれたような、落ち着かない表情をしていた。
「珍しいな。ヒナがストレートのフォアボール出すなんて」
「うん、ごめん。少し慎重になり過ぎたよ」
陽葵先輩の声には、一分たりとも戦意の衰えは見られない。それどころか、この試合一番の勝負所を迎えて更なる闘志を燃やしているようだった。
「うん、大丈夫。ここは……1点もやらない」
揺らぐことのないエースの自信を目の当たりにして、チームメイトたちの表情もわずかに和らぐ。
「よし。私たちも思い切って前に出よう。正面の打球は全部ホームで殺すつもりでプレーしよう」
「はいっ!」
この瞬間、チーム全員で『エース』を立てることに決めたのだ。
「ここを守りきって、勝つぞ!!」
「『おお──っ!!』」
余計な不安を思い出さないよう精一杯声を張り上げて、またそれぞれの守備位置へと散っていく。
結局私は、マウンドの上で深く集中している陽葵先輩に一声もかけられなかった。吐き出せなかった違和感を胸に閉じ込めたまま、自分のポジションへ戻る。
その途中で、どこからか声をかけられた。
「────本当に『いい投手』だね」
その声の主は右打席の内で自分の足場を掘っている守山さんだった。
「アナタたちのエース。カーブとスプリットがいいのは知ってたけど、スライダーとカッターもビデオで見てたよりずっとイイ」
彼女は一連の打席ルーティンの中で、視線を合わせることなく私に語りかけていた。
「けどさ、野球ってスポーツは不思議なもので、『いい投手』が必ずしも『いい結果』を得るとは限らないんだよね」
「……」
「そこは順序が逆だって言う人もいるだろうけど、私はそうは思わない。『いい投手』は『いい球種』を持っている投手だよ。ファストボールでも変化球でも、遅いか速いか、曲がるか落ちるか。そんな平均から外れた球種が多ければ多いほどより『いいピッチャー』だって、私は思うんだ」
耳を貸すな。今はこの場面に集中しないと。
ランナーは満塁。ノーアウト。この打者でアウトを取れるかどうかでこの後の展開が大きく変わる。
「けど、『いい結果』を得るためにはそれだけじゃ足りない」
集中、集中しなきゃ!!
この場面、バッターはゴロだけは避けたいはず。それなら、落差のある陽葵先輩の
「ピッチャーの良さを最大限に活かすためには、その前に座るキャッチャーがそれぞれの球種の良さを知って、特性を知って、相手を知らなきゃいけない。それができなければ、どれだけ『いい投手』でも『いい結果』は得られない」
気を……取られちゃいけない。
「つまりさ、
瞬間。
息が詰まった。
「────
白球が陽葵先輩の指を離れたその瞬間、目の前の景色が凍った。誰の声も、聞こえない。
秒針すら時を刻むことのできない刹那の狭間で、陽葵先輩の投じた渾身の1球がバットの芯に捕まる瞬間だけが、この眼にありありと映っていた。
────キィィィインッッ!!
勢いよく舞い上がった打球は誰もいない左中間へまっすぐ伸びていく。落ちるな、落ちるなと叫んでも、打球は宙で止まってはくれない。
想いは、届かない。
「くッ!!」
身を投げ出して懸命に手を伸ばす
それを見て、塁を埋めていたランナーたちが一斉にスタートを切る。1人、2人と悠々とホームを踏み、出遅れていた1塁ランナーも3塁を蹴った。
「バックホームっ!!」
中継に入った遊撃手からの返球は、ホームベースの真上に届くストライク送球だった。
これ以上、点はやれない!!
「よしっ!」
決死の思いで、駆け込んでくるランナーにキャッチャーミットを伸ばす。
タイミングはアウト。ホームに入られる前に
「────セーフ!セーフ!!!」
「なっ!?」
やられた。
タイミングは完全にアウトだった。それなのに、気持ちが逸って咄嗟に目についた左腕を追ってしまった。その左腕は
「走者一掃!先制タイムリーツーベース!!」
3失点────
このイニングで、このチームを相手に3点差……これはもう、どんなに頑張っても……
「切り替えよう!」
折れそうになる私の心を間一髪で支えてくれたのは、ホームカバーに来ていた陽葵先輩だった。
「大丈夫、まだ戦えるよ。こっちの攻撃だってまだあと2回あるから。とにかく今はこれ以上点をやらないことに集中しよう」
「けど、陽葵先輩……私の配球が相手に読まれてるみたいで」
「それも大丈夫。そうと分かればまだやりようはあるから」
それだけ言い残すと、陽葵先輩は静かな足取りでマウンドへ戻っていった。
謝ることさえ、できなかった。
けど、陽葵先輩はまだこの試合を諦めてないんだ。ないものねだりじゃなく、今の私にできることを考えないと!
「……」
不意に、陽葵先輩が私の出したカーブのサインに首を振った。
そうか。さっきも初球のカーブを打たれたばかりだ。それなら入り球はコントロールしやすいストレートで。
「……」
しかし、陽葵先輩はまた同じように首を横に振る。
そこで初めて、私は明確な違和感を覚えた。
陽葵先輩は普段、あまりサインに首を振ることはない。振ったとしても1度。2回以上首を振る場合は必ず私をマウンドに呼んで、その意図を共有してくれていた。
けど今回、陽葵先輩が伝えてくれたのは「やりようはある」ということだけ。
それが意味することは……
「ぁあ……」
そう、か。
考えてみれば簡単なことだ。私の配球が読まれてるなら、そこを切り離せばいいだけ。
「ストライーク! ワン!」
別に、落ち込むことじゃない。
この状況なら、この策が最適解なのは私もわかってる。
「ストライク、ツー!!」
先輩は、まだ勝てるって信じてる。
信じて疑わないから、今も全身全霊をかけてこの打者を抑えるために腕を振ってるんだ。
「ストライク!バッターアウッ!!」
私は先輩が投げる球を、後ろにやらないようキャッチすればいいだけだ。
それが勝利のために今私にできる最大限の努力なんだって。そんなこと、頭ではちゃんとわかってるけど……
────キッッ!
「……アウト!」
どうして私は、こんなにも無力なんだろう。
陽葵先輩は私のことを必要だと言ってくれたけど……結局、私にできることは何ひとつなかった。
何度も何度も1人で足を引っ張って、その度に陽葵先輩に救われてきた。
今日だって、ここに座ってるのが私じゃなければ、
どれだけキャッチングやスローイングが上手くなったつもりでも、結局私は“あの日”から何も変わってなかった。
「────ストライーク!バッターアウッ!!チェンジ!」
「ッし! ナイピー!」
「よしっ! ここからあと2イニング! 絶対に逆転しよう!!」
「『おおーっ!!』」
この日、私たちは負けた。
この裏の攻撃で陽葵先輩はツーベースヒットを打った。次の回には凪紗先輩もヒットで続いた。全員が最後の最後まで必死にプレーした。誰一人、最後の1球まで試合を諦めなかった。
それでも、届かなかった。
最後の打者のアウトがコールされた後も、みんなしばらくベンチから立ち上がることができなかった。負けた、届かなかったという事実をその場ですぐに呑み込める選手は1人もいなかった。
静まり返ったベンチの中では、どこかのセミの鳴き声と誰かのすすり泣く声ばかりがやけに近く聞こえた。
私たちの過ごしてきた時間は、最後まで報われることはなかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「陽葵。津代さん。今日までお疲れ様」
「……凪紗先輩」
試合後、クールダウンを終えた私たちがベンチ裏のロッカーに戻ると、凪紗先輩が1人きりでそこに残っていた。
「新チームのキャプテンはヒナに任せようと思う。みんな、それで異論はないって」
「……はい。私ももちろん異論はないです」
凪紗先輩は私たちと目を合わせることもなく、淡々と自分の道具をバッグにまとめていた。
けれどもその声は、自分の感情が溢れ出していかないよう必死に堪えているようで。
「ごめんね、ナギサちゃん。最後の大会だったのに、一緒に全国行けなくて」
私がそう感じるほどなのだから、幼馴染の陽葵先輩が何も感じない訳がないだろう。
その時の陽葵先輩の声はこれまで聞いたこともないほどに弱々しい声だった。自分の耳を覆いたくなるような悲しい声色だった。そんな陽葵先輩の声を聞いて、凪紗先輩はゆっくりと顔を上げた。
「謝らないでよ。ヒナがいなかったらもっと早くに負けてた。今日、ここでみんなと試合ができたことが私にとっては十分すぎる思い出だからさ」
いつでも穏やかで優しかったその声は、小刻みに震えていた。
「だから、ありがとう。2人とも」
そう言い終えると、凪紗先輩はまとめた荷物を肩にかけて立ち上がった。
「それじゃあ、私は先に出てるから。2人もあんまり遅くならないようにな」
凪紗先輩の目元は、かすかに赤らんでいた。
当たり前だ。本当にあと一歩だったんだ。あと一歩で全国に行けた。あと一歩で、みんなが目標にしていた場所に手が届くはずだったんだ。
それ、なのに……
「ごめん……なさい」
その言葉は、気づいた時には私の喉を突き破って外へ漏れ出していた。
「葵?」
「ごめんなさい、陽葵先輩。私が……また、先輩の足を引っ張ったから」
「負けたのは葵だけのせいじゃないよ。だからそんなに……」
「────私のせいだよ!!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「先輩の力になれるようにって、みんなの邪魔にならないようにって頑張ってきたのに……結局私は、何も変わってなかった」
「そんなこと……」
「あるよ! あるんですよ! 先輩がちゃんと責めてくれないから、私はずっとずっと1人で自分を責めてきたんですよ!!」
感情の堰が切れると同時に、これまで必死に押し込めていた涙が溢れ出した。
今日までの日々を思い出す度に涙が止まらなくなった。今まで何度も何度もこの人に救われて、その度に呑み込んできた涙だ。
その涙がようやく1滴、乾いたアスファルトの上に落ちて潰れた。
「私は、先輩に見合う
私はただ、その惨めさと憤りが溶け合った苦いだけの感情を外へ吐き出すことしかできなかった。
苦しくて、恥ずかしくて、喉が引き裂けてしまいそうだった。
「今日だって、もし
「────やめてよッッ!!」
最後の最後で私の言葉を遮ったのは、
「せん、ぱい……?」
顔を上げた先にいた陽葵先輩は、青黒くなるほど強く下唇を噛み締めていた。
「わたしはただ、この試合に勝ちたかっただけ。勝ってみんなに喜んでほしかっただけなんだよ。葵に……そんな顔してほしかった訳じゃない」
その瞳は今まで見たことがないほど感情的に揺らめいていて、全身が震えるほどの寒気がした。
「あ……」
私と目が合った瞬間、先輩はふと我に返ったかのように頬を強ばらせた。
「ごめん、今のはわたしのワガママだ」
自責の念を呑み込むように言葉を絞りながら、陽葵先輩は静かに荷物を担ぎ上げた。
「……ゴメン。本当に、ごめん」
二度と私と目を合わせることなく、先輩はロッカールームを後にした。
そうしてまた、私はひとりになった。
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