第7話 心に灯る『熱』
「────本当、スゴかったですよね!今日の倭田さん」
それは試合後、グランド整備の合間に実乃梨の口から出た踊るような高声だった。
「そうだね! 三振ばっかりでほとんど外野まで飛んでなかったもん」
隣に立つ菜月もそれにうんうんと大きく頷く。
彼女の言葉通り、この日の倭田莉緒菜の投球成績は4イニングを投げて許したヒットは内野安打1本、無四球、無失点と文句のつけようもない出来だった。
その圧巻のピッチングの中で最も際立っていたのが、5者連続を含む9つもの奪三振。
変化球全盛の女子野球において、
「ベンチから見ててもスゴい球でしたもん! こう、ブンブン浮き上がるみたいな! はぁ〜! ワタシも捕ってみたかったなぁ〜あの球!!」
「その前にっ! ミノリちゃんはもーちょっとキャッチングの練習しないとね~」
「わわっ! あ、葵センパイ!?」
興奮冷めやらぬ様子の実乃梨の背中へ、特別な前触れもなく幼顔の先輩が飛び込んできた。
「ま、2イニングでエラー2つなら初心者のデビュー戦にしては上出来かな」
「そ、そうなんですか?」
「うんうん。私の初めての
茶化すような笑みを浮かべる彼女こそ、莉緒菜の球を誰よりも間近で目にして受けていた
「そうだ! ちょうどよかったです! 葵センパイから見てどうでした? 倭田さんの球!!」
「んー? リオナちゃんの球?」
「そーですよ! ワタシは横で見てるだけでしたけど、実際に受けてみてどんな感じでしたか? あのストレート!」
熟した林檎のように頬を紅潮させた実乃梨からの問いかけに、葵は一度小さく息をついてから素直な表情で答えを返した。
「ミノリちゃんも見てた通り、なかなか良い球だったよ。1年生にしては速いほうだし、コントロールも安定してたしね」
「言われてみれば今日
「そうだね。確かにストレートのキレは凄かったよ。リオナちゃんのストレートはシュートもカットも少ないから、本当にまっすぐ浮き上がってるみたいなボールだったよ。相手のバッターも結局最後までその軌道についてこれなかった訳だし」
「へー! へーーっ!!」
食い入るように話を聞いていた実乃梨へ、その言葉はやはり前触れなく、剥き出しのままの状態で投げつけられた。
「……まあ、ワタシは嫌いだけどね。あーいう
実乃梨はその瞬間初めて彼女の本気の感情を見た気がして。ほろりと漏らしただけの小さな声に、以降一切の言葉を奪われてしまった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「はぁ、今日は何だか一段と疲れたような」
試合後も日が傾くまで実乃梨の自主練習に付き合わされた栞李は、自室のドアに手をかけたところで大きなため息を漏らしていた。
その重たい瞼の向こうにふと、隣の309号室の扉が映った。
「……結局、何も声かけられなかったな」
その鋼板の無機質な扉を見つめているだけで、マウンドの上に立つ彼女の瑞々しい表情が脳裏に甦る。
莉緒菜はあの日の宣誓通り、いや、その期待を大きく上回るほどの輝きを見せてくれた。そんな彼女に栞李は試合中も、そしてその後の自主練習の時間もありながら、未だひと言も声をかけることができずにいた。
「まあ、明日も部活あるし、別にその時でも……」
誰にも聞こえないような声で言い訳しながら栞李が自室の戸を開こうとした途端、隣の戸の向こうから天地でもひっくり返ったかのような慌ただしい騒音が飛び出してきた。
「なっ、なに! なに!? なんの音!?」
部屋の奥から聞こえてきたその耳障りな音にはガラスの割れる音や金属製のものが床に落ちる音なども混じっており、何やらただ事ではない雰囲気だった。
「り、莉緒菜ちゃん? おーい、大丈夫〜?」
扉の外から遠慮がちに呼びかけてみるが、もちろん返事はない。
音の大きさから、中で何かしらのアクシデントが起きている可能性もある。
鍵は、開いていた。
「あーもうっ! 迷ってても仕方ない! お邪魔しまぁす!」
栞李は一度は躊躇いながらも、意を決して309号室の戸を引いた。
万が一の場合に備えて玄関にあった木製の靴べらを両手で握りしめ、音を殺して部屋の奥へ進んでいく。
「り、莉緒菜ちゃ〜ん?」
その一室は玄関からとても誰かが生活しているとは思えない程こざっぱりとしており、飾り気の欠片もない質素な部屋だった。
「んぅ……」
そんな部屋のどこからか、今にも消えそうな弱々しい呻き声が聞こえてきた。
「なっ! ちょっ、莉緒菜ちゃん!?」
その廊下を抜けた先、夕陽射すキッチンの真ん中でいつかと同じ背中が力なく床に突っ伏していた。
「莉緒菜ちゃん! どうしたの!? 大丈夫っ!?」
「……っ、ぅう」
ぐでりとしたまま栞李に抱え上げられた彼女は、青冷めた唇を微かに震わせた。
「おなか…………すいた……」
「は?」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「はい。あんまり凝ったものは作れないけど」
「……ありがとう。いただきます」
話を聞いたところ、彼女はここ数日の間まともな食事を取っておらず、その空腹が限界に達しキッチンで力尽きていたらしい。
「おいしい。これも、それも」
久々の食卓につく彼女は、ひとつひとつゆっくりと栞李の作った料理を口に運んでいた。
「別に、ウチの冷蔵庫にあったものテキトーに炒めただけだし……」
「ううん。おいしい。私にとっては、どれもとても」
2人分の料理を卓に並べ終えた栞李も、ゆっくりと莉緒菜の向かいに腰を下ろした。
食事をしている時の彼女に張り詰めた緊張感はなく、マウンドに立つ『倭田莉緒菜』とはまったくの別人のようだった。
「それにしても、どうして倒れるまでちゃんとご飯食べなかったの? 私危うく救急車呼ぶところだったよ」
「試合が……今日の試合があったから。それで、わすれてた」
「えぇ……わすれ? というか莉緒菜ちゃんってさ、そもそも料理できるの?」
「したことないから、わからない」
「それで今までどうやって生きてきたの……」
「気づいた時に、栄養補給して」
そう言って彼女は部屋の傍らにある栄養補助食品とサプリメントの山を指さした。
「……莉緒菜ちゃんって、野菜ジュースさえ飲んでれば他に野菜は食べなくていいと思ってるタイプでしょ?」
「え……ダメなの?」
「ダメだと思う」
「だってアレ、1日分の野菜が摂れるって……」
「そりゃ数字の上ではね?」
「ダメなんだ」
「うん。ダメ」
「そう……」
「そうだよ」
ひとつ、わかったことがある。
どうも彼女は誰もが羨むような野球の才能に反比例して、ヒトとして必要な『生活力』というものを欠片も持ち合わせていないらしい。
「けど、今日のマウンドは楽しかった。私にとってはそれが1番。それ以上のものはない」
呆れることに、きっとその言葉に嘘はない。
倭田莉緒菜は並々ならぬ意気込みで今日の試合に臨んでいたことは栞李もよく知っている。それに見合うだけの結果も掴んでみせた。
そのことに、本当に何の後悔もないのだろう。
「莉緒菜ちゃんは……」
計らずも偶然に、思いがけない偶々が重なったせいで、誰よりも間近で『倭田莉緒菜』の輝きに目を焼かれてきた栞李だから、
「莉緒菜ちゃんは、どうして1人でそんなに頑張れるの?」
そんな栞李だからこそ、その芯に灯る
「今日なんて、たかが練習試合で、みんな新入生のデビュー戦だって言って誰も真剣に勝とうとなんてしてなかったのに……どうして莉緒菜ちゃんは、1人でそんなに真剣でいられるの?」
栞李から不意に言葉を投げかけられて、莉緒菜は静かに箸を置いた。それからそっと、栞李へ視線を寄せた。
「私は
その瞳は恐ろしさを覚えるほどまっすぐで、どこか寂しげな涼色をしていた。
「この熱を失えば、私は私でいられない。それはきっと、死ぬよりも辛いことだから」
彼女が惜しげもなく口にした『死ぬ』という言葉が、ついさっきの出来事のせいでとても誇張のようには思えなくて。
静かに、背すじが震えていた。
「だから私は『1番』になりたいし、『1番』でいたいし、『1番』であり続けたい。この気持ちだけは誰にも偽りたくない。それが他人であろうと、自分自身であろうと」
────そうだ。
説明会の日に、主将の彼女も言っていた。
高校3年間、一生で一度しか訪れない貴重な時間の全てを費やしたとしても、特別な何かが手に入る保証はどこにもない。それでも尚、その『ナニカ』に躍起になるのはきっと、救い難い病いに侵されているからだろう。その病いの持つ『熱』が何よりも強く人の心を奮わせる。他人には信じられないほどのエネルギーを心に与えてくれるのだ。
けれど、その『熱』をいつまでも失いたくないと願うのならば、『1番』である他、道はない。
そうでなければ、いつか誰かに『現実』という名の薬を打たれて、その『熱』を失ってしまうのだろう。
栞李はそのことを痛いほどよく知っていたから。
だからこそ────
栞李はその子供のように無邪気で、向こう見ずで、おまけにひどく独善的な願いを、どうしようもなく応援したくなってしまった。
栞李にまだ自覚はなかったが、月並みにはその感情を『憧れ』と呼ぶのだろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「じゃあ、私はそろそろ帰るね」
食後の後片付けまでを1人で済ませた栞李は、ローファーへ右足をぞんざいにつっ込んだ。
「今日はありがとう。栞李がいなかったら、どうなってたか……」
「……やー、まあ別に、たまたまそこに私がいただけだから」
テキトーに謙遜しながらもう片方の靴を履くと、左肩の鞄をわざとらしく担ぎ直した。
「一応、残った分は冷蔵庫に入れておいたから、今度は倒れる前にちゃんと食べてね」
「わかった。ありがとう」
「もしまた何か困ったことがあったら今度は早めに声かけてよ。どうせ部屋となりだし」
「ありがとう。けどへーき、大丈夫」
なんの意地かは知らないが、本当に『大丈夫』な人はそもそも空腹で倒れたりはしないだろう。
「まあいいや。それじゃまた明日の部活で」
「うん。また」
中途半端な笑顔のまま部屋を出ると心地の良い夜風が栞李の頬を撫でた。
その冷気に充てられてふと、今日の試合の感動を伝え忘れていたことに気づいた。
「ま、まあ……またいつかでいっか」
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