第6話 Queen on the Mound
「んん〜ぅ! ついにこの日が来たよ! 栞李!」
早朝。校門前で顔を合わせたその瞬間から、仲村実乃梨は満面の笑みで自慢のポニーテールをらんらんと踊らせていた。
「今日はまた一段と元気だね、実乃梨ちゃん」
「いやぁ、だってもうずーっと楽しみにしてたんだもん! 今日の試合!」
「それはわかるけどさ……」
そんなポニテ少女とは対照的に、隣を歩く栞李の表情はどこか憂鬱そうに見えた。
「────おっはよぉ! 2人とも」
その憂鬱をかき消す勢いで2人の間に飛び込んできたのは年下にも見える幼顔の先輩、津代葵だった。
「葵センパイ! おはようございますっ!」
「やあミノリちゃん。その様子だと初めての試合だからって緊張でガチガチって心配はいらないかな?」
「はいっ! 今日の試合、葵センパイに教わった通りに頑張ります!!」
「うんうん! 頑張ってね! ワタシもばっちり応援してるから!」
満面の笑顔で実乃梨の肩をポンポンと叩くと、葵はふいと栞李のほうへ視線を移した。
「シオリちゃんにも、ワタシは期待してるよ?」
「え、私にですか?」
全て見透かしていると言わんばかりの視線を押しつけられて、栞李はそっと首をすくめた。
「当然だよ〜。だって栞李ちゃん、“全国経験者”なんでしょ?」
その言葉に栞李が返答するより速く、隣にいた実乃梨が鼓膜の爆ぜるような大声をあげた。
「えーーッッ!! 栞李って“ゼンコクケイケンシャ”だったの!?」
「うっ……」
至近距離でその声圧を浴びせられた栞李はたまらず耳を覆った。
「そうなんだよ〜。中学の時シオリちゃんのいたチームは結構な強豪でね、3年生の時には全国大会まで進んでるんだよ〜」
「へー! スゴいね、栞李! どうしてもっと早く教えてくれなかったの!?」
「いやだって自慢できることじゃないし……というか、なんで葵先輩がそんなこと知ってるんですか?」
「んー? ちょっと調べただけだよ。新しく入ってきた子たちはどんな子なのかな〜って。まさか全国経験のある子がいるとは思ってなかったけど」
「あれは、別に私が凄かったわけじゃないです。試合にも出てなかったですし……」
「謙遜しなくてもいいのに〜」
「べつに、してません」
腹の探り合いのような煮え切らない会話を交わす2人の間に、実乃梨の何気ない呟きが割って入った。
「あれ? もう誰かグランドにいる……」
その視線の先、誰よりも早くグラウンドで身体を動かしていたのは、見間違えようもないつややかな黒髪を揺らす月白肌の少女だった。
「莉緒菜ちゃん……」
試合開始までまだ数時間あるというのに、彼女の表情はすでにマウンドの上に立っているかのような緊迫感を吐き出していた。
「楽しみだねぇ、あの子のピッチングも」
その背中を見つめる葵の瞳が一瞬、ほんの一瞬、大きく色を変えたような気がして。栞李は人知れず背筋を震わせていた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「それじゃあ、みんな! 今日の試合のスタメン決めるよ〜」
高校に入学して初めての対外試合となる1年生に余計な緊張を与えないようにと、輪の中心に立つ菜月はいつも以上に優しく丸っこい声を発していた。
「今日の試合は基本的に1年生中心に決めてくね。だからえーっと、莉緒奈ちゃんが先発ピッチャーで、舞花ちゃんがライト。彩楓ちゃんがレフト、栞李ちゃんがサードね! 後は……」
「はいはーいっワタシ! ワタシがまだです! 菜月センパイ!」
眩しいほどの真っ赤なアームサポーターを装着した実乃梨が食い気味にその右腕を振りあげた。
「そ、そうだね。えっと、実乃梨ちゃんはこないだ話した通り、最初はバッターで試合の流れ見てキャッチャーに入ってもらうね」
「ハイ! それじゃあまずはバッターを頑張りますっ!!」
そんな菜月の気づかいのおかげもあってか、試合前の新入生たちは皆リラックスした表情をしていた。
────ただ1人、倭田莉緒菜をのぞいては。
「あれ〜、リオナちゃんもしかして緊張してる?」
「……別に、してません」
わざとらしく煽るような言葉をかける葵に対しても彼女は素っ気ない返事を返すばかりで、じっとベンチの中からまっさらなマウンドの上を見つめていた。
その姿はまるで、彼女ひとりが誰の目にも映らない大舞台を眼前に描いているかのようで。栞李とて迂闊に声をかけることができなかった。
「よし。行こう」
「『はいっ!』」
相手校への挨拶から戻ってきた沙月の声を合図に、後攻の明姫月のメンバーがグランドへ飛び出す。
「それじゃあみんな! 今日の試合、ガンバっていこー!!」
「『おーーっ!』」
それぞれがそれぞれのポジションに向かい、ボール回しやキャッチボールで身体を慣らす中、栞李は一人、投球練習をする莉緒菜の姿をぼんやりと見つめていた。
「……本当、キレーなフォーム」
滑らかで無駄な力感のないフォームから、投球練習にしておくのが勿体ないほど美しい軌道のまっすぐがホームベースに向かって走っていた。
これから始まる試合のためにただ消費されるだけのその光景を、栞李は一時たりとも見逃さぬほど必死に両の目で追っていた。
「それじゃあ初回、しまっていきましょー」
当然、周囲がそんな栞李の事情に気づくはずもなく、あっという間にそのひと時は終わりを迎えてしまった。
捕手である葵の掛け声で投球練習を終えると、相手先頭打者が打席に入った。本塁の後ろに立つ球審が
菜月を始めとする先輩たちの気遣いの甲斐もあってか、その試合は至極穏やかな雰囲気の中で始まった。
誰もがこの試合は勝ち負けに拘らず、まずは野球の試合を楽しもうと、そう意気込んでいるようだった。
「スぅぅ……」
そんな空気の真ん中に立つ彼女は、深々と息を吸い込みながら、腕を大きく高く振りかぶった。
「────んンっ!!」
滞りのないフォームから放たれた白球は、ピンと張ったピアノ線のような美しい軌道を描いた。
「……ストライーッック!!」
弾けるような痛快なキャッチャーミットの音に遅れて球審のコールが鳴り響く。
「まったく。初球からどこ投げてんのさ」
葵のミットが固まっていたのは清々しいまでのど真ん中。本来なら反省すべきコースだが、彼女は、倭田莉緒菜はグランドの頂上で誇らしげに胸を張っていた。
「……なっ、ナイスボール! 莉緒菜ちゃん!」
「ナイスボー! ピッチャー!」
「いいとこいってるよ! 倭田さん!!」
一斉に、沸く。
味方の明姫月ベンチだけでなく、それまで静かだった相手ベンチまでもが一斉に感嘆の声を上げていた。
ただの1球の投球で、莉緒奈はその試合の主役に名乗りを上げたのだ。
「……んッッ!」
莉緒奈はまた、微塵の躊躇いもなく似たようなコースへ直球を投じる。
「──っ!」
相手打者も今度は積極的にスイングをかけるが、莉緒菜のまっすぐはその更に上を通過した。
「スイング!」
「なっ!?」
甘いコースだと思って手を出したボールも、キャッチャーミットに収まる時には打者の胸の上まで伸び上がっていた。
それほどまでに、この日の莉緒奈のまっすぐは生きていた。
「んッ!!」
打者に戸惑う隙も与えないほどの小気味いいテンポで放たれた3球目は、一切の曲折なく葵が構えたミットの芯を突き刺した。
コースは変わらずど真ん中。にもかかわらず、バッターボックスの彼女は青ざめた顔でその1球を見逃していた。
「────トライーック!バッターアウッ!!」
試合開始からわずか3球のピッチングに、両チームのベンチからまた一段と大きな歓声が沸き起こる。そのほとんどが大胆不敵なマウンド捌きを見せた彼女への喝采の声で。
気づけば莉緒菜はそのグランドの注目と興奮とを一身に浴びていた。栞李なら真っ先に萎縮してしまうであろう舞台の上でも、彼女は注目を集めるほどに天衣無縫の輝きを増していく。
一球一瞬、渾身の力を込めて左腕を振るい、なぎ倒すように空振りを奪うその姿は、敵味方関係なく見る者全ての胸をひどく勝手に高鳴らせた。
「ストライーク!バッターアウッ!!」
「これで二者連続!!」
続く打者にも同じように高めのストレートを4球続け、バットに触れることすら許さず空振りの三振に仕留めてみせた。
「スゴい……」
入部して1週間の
「菜月センパイ?」
「バットが全部、ボールの下をくぐってる。シュートもスライドもしないまっすぐな軌道……」
すぐ隣に座る実乃梨からは、普段穏やかな彼女の頬がほのかに赤らんで見えた。
「他のピッチャーの“ファストボール”とは違う、ホンモノの『ストレート』────」
その唯一無二の投球スタイルに驚かされていたのは菜月ばかりではなく。傍から見ていた実乃梨も、後ろを守る沙月も、メイも遥香も。皆それぞれがそれぞれの想いを秘めながらマウンド上の彼女へ視線を送っていた。
「……」
その輪の中で、彼女の最も近くに立つ栞李も、マウンドの上で翠く煌めく莉緒菜に目を奪われていた。
深く、どこまででも深く。
底のしれない深海に潜水していくがごとく、栞李は呼吸も瞬きも忘れてただ彼女が腕を振るう姿だけをしんと見つめていた。
「────
「……ッ!?」
そんな栞李に冷水をかけるように、
栞李が慌てて視線を上げると、高々と舞い上がった打球が自分のすぐ傍らへと落下を始めていた。
数歩走ったファールゾーンで何とかその飛球を掴むと、一斉に三塁側の明姫月ベンチが沸き立った。
「アウト! スリーアウト、チェンジ」
1回をたったの9球、被安打0で三振2つ。
蹂躙とも呼べる初回のピッチングを終えた莉緒菜は、グランドの頂上でわざとらしくその艶やかな黒髪を靡かせてみせた。
────『私こそが、この
そう言わんばかりに堂々と、そして不敵に。
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