第5話 宣誓


「うおっ! とと……」


 散々意気込んでグランドに飛び込んだ実乃梨だったが、練習開始から数分でさっそく苦戦を強いられていた。


「やっぱりまだ硬かったんじゃない? そのミット」

「うーん……昨日の夜もだいぶ慣らしたんだけどなぁ」


 不服そうな顔でバスバスとミットの芯を叩く実乃梨。その背後から気配もなく軽々しい声が割り込んできた。


「やあやあ! 困った顔して、どうしたの? 新入生ルーキーちゃん」


 その声の主は、垢抜けた笑顔を誰彼構わず振りかざす幼顔の少女であった。


「あ、葵センパイ」

「お! キミは確か、キャッチャー志望の子だったよね?」

「はい! 仲村実乃梨です!」

「そう、ミノリちゃん! そっかそっか、ワタシもキャッチャーなんだ。よろしくね」

「よろしくお願いしますっ! 葵センパイ!」


 何気なく差し出された葵の右手を、実乃梨は両の手でがっちりと掴んだ。


「それで、ミノリちゃんはいったい何に苦戦してるのかな?」

「そうでした! このキャッチャーミット、買ったばっかりでなかなかうまく捕れなくて……」

「ふむふむ」

「前友達と練習してた時はちゃんと捕れてたんですけど、今日は何だか上手く捕れなくて」

「なるほどねぇ。もしかして、その友達と遊んでた時と比べると今日のボールは軽く感じたりしてない?」

「あ! しますします! 今日のは何か軽いな〜って思ってました!」

「やっぱりね〜。それ多分のボールだったんだよ」


 何気ない葵のその一言は、初心者の実乃梨には驚きをもって受け取られた。


「野球って、男子と女子でボール違うんですか!?」

「うん。同じボールだった頃もあるけど、今は女子野球専用のボールなんだよ〜」

「へー! そうだったんですね! 見た目じゃ全然気づきませんでした!」

「まー見た目はほとんど変わらないけど、重さとか飛びやすさとかが若干違うんだよ」

「へー! へーっ!!」


 未知の世界に興味津々といった様子の実乃梨を煽るように声色・顔色を1トーン明るくした。


「けど、1番の特徴は“曲がりやすさ”なんだよ。ちょっとした回転スピンの違いでも目に見えるほど変化しちゃうから、慣れるまでは捕球も難しいんだよね〜。ちょっとミット貸してくれる? うん、いいミットだね」


 取り上げるように実乃梨からミットを借りた彼女は栞李に向かって大きく右手を挙げた。


「ちょっとボール投げてくれる~? えーっと……」

「あ、末永です。末永栞李です」


 栞李が控えめな自己紹介をしながら放った緩いループのボールを、葵は柔らかいハンドリングでぱちりとミットに収めてみせた。


「うん! ミットをボールにぶつけるんじゃなくてしっかり引き付けてミットの芯で吸い止るイメージだね」

「なるほどなるほど!」

「あと、投げる時もボールの回転スピンを意識するといいよ」

「投げる時もですか?」

「そう。進行方向に向かってまっすぐなバックスピンを意識すると曲がりにくいよ。野手でも相手が捕りやすい球を投げることは大切だからね」


 その会話の最中、何気なしに放った栞李の送球が葵の手元で小さく曲がってミットをはじいた。


「……っと」

「あ、ごめんなさい。葵先輩」

「イヤイヤ。今のはワタシのミスだから」


 一時、二人の間を心地の悪い風が吹き抜けた。


「なるほど……よし! ワタシもだんだんイメージできてきました!」

「そう。ならよかったよ! それじゃあミノリちゃんも実際にやってみて」

「はいっ!」


 葵からミットを受け取った実乃梨は、栞李の放った緩いボールをバチッと小気味よい音を立てて捕球してみせた。


「……ッ!! できました! こうですか? 葵センパイ!」

「そうそう! やっぱりキミは筋がいいねぇ」

「ホントですか!?」

「うんうん。そもそも初心者でいきなりキャッチャーやろうって子はあんまりいないよぉ?」

「へ? そうなんですか?」

「うんうん。なんせキャッチャーは“ゲキム”だからね。さっきも言ったと思うけど、ボールがよく曲がるんだよねぇ。いくらサイン出してるとはいえ、ピッチャーによってスピードも曲がり幅も全然違う。それ全部完璧に捕れるようになった上で、リードやら配球やらを考えないといけない訳だから、ぶっちぎりで難しいポジションだね」


 スラスラと不安を煽るような言葉を並べ立て実乃梨の表情が陰るその瞬間を見計らって、幼顔の彼女はぱっと表情を明るくしてみせた。


「けどさ、チームが勝つためにはどうしたって必要なんだよ。とびっきり優秀なグランドの頭脳役ブレーンがね」


 そのわかり易く小聡明い笑顔に誘われて、実乃梨はこれ以上ないほど満面の笑みを浮かべた。


「やっぱりワタシ、キャッチャーしたいです! みんなから頼れるようなキャッチャーになりたいです!!」

「うん! よく言ったよミノリちゃん! わかんないことがあったら何でも教えてあげるから、一緒にガンバってこーね!」

「ハイっ!! よろしくお願いします!!」


 ほんの数分の間に、口八丁で思うがままに実乃梨の感情を転がす葵を遠目に見ながら、栞李は深く確信した。


 ────『やっぱり、私はこの人が苦手だ』と。






 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~






 その後、‪新入生の初日の練習はキャッチボールやティーバッティングなどの基礎的なメニューを数時間こなして早めの解散となった。‬‬‬‬‬


「栞李おつかれ!」

「ああ、実乃梨ちゃん。お疲れサマ」

「楽しかったね! 今日の練習!」

「え? あー、うん。そうだね」


 ‪ちょっとした練習だったとしても、この日を誰よりも楽しみにしてきた彼女にとってはこの上なく充実した時間だったようだ。‬それはわざわざ言葉を聞かずとも、その表情から十二分に見てとれた。


「2人とも、おつかれさま〜」

「あ、菜月センパイ! おつかれ様です」


 ‪そんな対称的な表情をした2人の元に丸っこい笑顔が特徴的な少女、緋山菜月が声をかけにきた。‬‬‬‬‬


「どうだった? 初日の練習。つらくなかった?」

「はい! とっても楽しかったです! 葵センパイに色々と教えてもらえましたし」

「そっか、ならよかった。そういえば実乃梨ちゃん、初心者って言ってたわりには打つのも投げるのも上手だったけど、誰かから教わってたの?」

「あ、はい! 中学の友達に野球部の子がいたんで、その子から!」

「そうだったんだ。なら週末の試合も大丈夫そうだね」


 ‪彼女の口からその言葉が出た途端、実乃梨の瞳がぱりりと輝きを増した。‬‬‬‬‬



「────シアイっ!? 試合があるんですか!?」



「う、うん。まだ言ってなかったっけ? 今度の週末に近くの高校と試合やるから、その日は新入生中心のチームでいこうかなって」

「やったぁ! さっそくの試合! 今から楽しみでしょーがないですっ!!」


 ‪両手を上げて子供のようにはしゃぐ実乃梨。その様子に栞李は既に慣れつつあったが、まだ慣れていない菜月はその期待を壊すまいと慌てて言葉を付け加えた。‬‬‬‬‬


「あ! で、でも、いきなり1試合キャッチャーやるのも大変だろうから最初はDHで、最後ちょっとだけキャッチャーって感じになると思……」

「わかりました! じゃあワタシ、打ちます!思いっきり遠くまでかっ飛ばしてみせます!!」


 ‪どうやら今この瞬間の実乃梨からは、誰が何を言おうとその満点笑顔を引き剥がせそうにはなかった。‬‬‬‬‬






「じゃあね栞李、また明日〜!」

「うん。また明日」


 ‪満面の笑みを浮かべたままの実乃梨をバス停まで見送って、栞李も新しい自宅へと踵を返した。

 まだ慣れない夕暮れの帰路はほのかに潮風の香りがした。

 10分ほど歩いてそろそろ昨夜と同じ葡萄茶色の建物が見えてこようかという頃合で赤信号が栞李の足を止めた。大通りに面したその信号機は何かを待っているかのように色を変えず。その間栞李が今日一日を振り返りながら行き交う車を眺めていると、不意にそのすぐ隣に誰かが並び立った。


「りっ!?」


 その少女はふわりと吹く夕風に自慢の黒髪を靡かせながら、あの日と同じようにまっすぐ背を張っていた。


「練習おつかれさま、栞李」

「……お、つかれサマ。莉緒菜ちゃん」


 つい先程まで同じ部活動をしていて、借りている部屋も隣同士であれば想定し得る何の不思議もない出来事だったが、栞李にとってはさながら出会い頭の衝突事故だった。


「……? どうかした?」

「いやっ、なんでも」


 2人が肩を並べたのを見届けると、頭上の信号は後腐れなくさっさと色を変えた。

 散々自分を待たせておいて莉緒菜には媚びへつらうように色を変える信号機を、栞李は恨めしそうに睨みつけておいた。


「い、いこっか……」

「うん」


 栞李と莉緒菜が2人きりで話すのは入学式の日以来。あれ以降、隣の部屋で暮らしていてもこれといって会話を交わすことはなく。いや、ないように栞李が避け続けていたのだ。


「……そ、そういえば莉緒菜ちゃんは聞いた? 今度の試合のこと!」


 そのせいか、思いきって切り出した栞李の一言目は為す術もなく上ずってしまった。


「うん。帰る前に、キャプテンから」

「そ、そっか……まあそうだよね」


 そんな栞李の緊張など気にもかけない表情があまりに彼女らしくて、憎もうにも憎めなかった。


「その試合、1年生中心のメンバーでいくらしいよ。だから私がサードで、莉緒菜ちゃんが先発ピッチャーだって」

「それも聞いた」

「あ、うん。えと、菜月先輩が相手も新入生中心のチームだって言ってたし、入部してすぐの試合だからホントの『練習試合』って感じなのかな」


 特別何を意識したわけでもない、たまたま栞李の口をついただけの言葉に、莉緒菜はわざわざ脚を止めた。


「莉緒菜ちゃん……?」


 つられて振り向いた先で出会ったのは、あの日と同じ眼、同じ顔。


「言ったでしょ、私は誰にも負けるつもりはないって。練習試合でも、それは変わらない」


 深く大きなその瞳に胸の奥深くを直接握りしめられるような心地がして、身が凍った。

 凍えて、息を呑み縮こまる栞李の胸へ、莉緒菜はまっすぐ人差し指を伸ばした。


「見てて栞李。その日、グランドの1番上に立つ私の姿を。1球だってムダにはしないから」


 その宣誓は声色こそ穏やかで落ち着いていたものの、その皮の内には計りきれないほどの熱を孕んでいて。それを受け取った栞李さえも、うっかりその熱の欠片を伝染もらってしまいそうだった。



「────だから、見てて」

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