第4話 スタート!!
「ええっ!それホント!?」
栞李の口から昨夜の出来事を聞かされた実乃梨は、なぜかさんさんと目を輝かせていた。
「『倭田莉緒菜』って、確か昨日グランドにいたスッゴイ美人な子だよね?」
「うん。まあ、そう」
「へぇ〜、それはまたすんごい偶然だね。どう? お隣さんとしてうまくやってけそう?」
「え、どうだろう。別に隣だからって積極的に関わるってこともなさそうだけど」
「そうかなぁ? ワタシには意外と気が合いそうに見えるけどなぁ」
「気が合うも何も、まだ大して喋れてもないよ」
苦笑いばかりの栞李とは対照的に、その日の実乃梨は終始ご機嫌な様子だった。
「実乃梨ちゃんは随分上機嫌みたいだけど、何かいい事でもあった?」
「え〜、だって今日から部活始まるんだよ! ようやくこのグローブもデビューできる訳だし!」
そう言って実乃梨がいそいそとバックから取り出したのは遠慮の欠片もない朱色に染められたぶ厚いグローブだった。
「……って、実乃梨ちゃんそれキャッチャーミットだけど」
「そう! サトミちゃんと同じやつ! カッコいいでしょ?」
「いや、かっこいいかもしれないけど、そのグローブじゃ他のポジションできないよ? 初心者には扱いも難しいし……」
「え? だってワタシ、キャッチャー志望だし。キャッチャーするならこのグローブだって言われたんだけど」
「まあ、それはそうなんだけど……」
「じゃあ、問題ないよ! これで」
嬉しそうにグラブを叩く彼女の瞳には先の不安など一切映っていないようだった。
「よーし! 初日から張りきって行くぞ〜! “エホー”&“エホー”! “メイクエホー”!!」
「“えほー”……? ってなに?」
「え? 確か努力するとか、そんな意味じゃなかったっけ?」
「もしかして“
「そう! それ! サトミちゃんの座右の銘なんだって。だからワタシも見習って“メイクエホー”だよ!」
「なんかソレ、毎日聞いてたら眉毛太くなりそう……」
ヤル気満々の実乃梨が勢いよく部室の戸を開くと、すぐ目の前で練習着姿の少女2人とはち合わせた。
「なっ!? 誰よアンタたち! ここで何してるワケ!?」
反射的に2人に向かって鈴の音ような声を飛ばしてきたのは平均よりもやや小柄な少女。
引き締まった華奢な身体に、人形のような整った顔立ち。くっきりとした二重まぶたの下にはガラスを嵌め込んだような碧色の瞳。そして、その何よりも目を引く金糸雀色のショートボブ。
その少女は頭のてっぺんから爪先まで、2人の日常からかけ離れた冷たい鮮色で彩られていた。
「多分今日から入部する1年生だよ。ほら、昨日沙月が話してたでしょ?」
そんな金碧輝煌の彼女の隣に立つもう1人の少女は、凪ぎきった海面のような抑揚のない声で金髪少女をたしなめた。
彼女はその声色に比例するかのように極々平均的な体躯をしており、くるみ色の後ろ髪は風にもなびかない長さに切りそろえられていた。
絢爛豪華な容姿の金髪少女とは違い、彼女の表情や顔立ちからは落ち着いた印象を受けるが、その両耳にはピンクペッパーのような小ぶりなピアスを刺していた。
「昨日って、そんなこと言ってましたっけ?」
「言ってたよ。どうせまた聞いてなかったんでしょ?」
「うぅ……ハルカ先輩、もしかして怒ってます?」
「別に。いつもの事だし、そのくらいわたしが代わりに聞いとくからいいよ」
「へへっ、やっぱり先輩大好きですぅ!」
「はいはい。わかったから」
「あ、あのぉ……」
そのあまりにでき上がった空間には、流石の実乃梨もおずおずと小さな声を差し挟むのが精一杯だった。
「ああ、ごめん。今日から入部する1年生であってるよね?」
「あ、はい! 1年の仲村実乃梨です!」
「同じく1年の末永栞李です……」
「わたしは3年の小坂遥香。で、こっちがメイ。2年生」
「あ、ちょお……なんで勝手に教えちゃうんですか」
「はい!これからよろしくお願いします! ハルカ先輩! メイ先輩!」
お互いの自己紹介を終える頃には、実乃梨もすっかりいつもの調子を取り戻していた。
「とりあえず、もう少しで沙月か菜月が来るだろうから先に着替えて待ってて」
「はーい! わかりました!」
実乃梨が歯切れよく返事をすると、2人はまた日常的な会話を交わしながら部室を後にしていった。
「なんだか姉妹みたいな2人だったね!」
「まあ、そうだね」
「そういえば栞李、ずっと黙ってたけど……もしかしてどっちか知り合いだった?」
「……いや、私が一方的に知ってるだけかな」
その表情を見るにまるで心当たりがない様子の実乃梨のために、栞李はたいそう重たげに口を開いた。
「実乃梨ちゃん、『アグノラ・ロジャース』って知ってる? 元陸上選手の」
「あー! 知ってる知ってる! 昔オリンピックとかで活躍してた人でしょ? テレビで見たことある。すっごいキレーな人だよね! 確か引退してから日本の野球選手と結婚して……って、まさかあの先輩が!?」
「うん、そのまさか。あの人のフルネームは『メイ・ロジャース』。確か中学1年生の時とかはそこそこ話題になってたから、知ってる人は知ってるんじゃないかな? なんでか最近はあんまり聞かないけど」
「そう……なんだ。そんなにスゴい人だったんだ、あのセンパイ。けど、そんなサラブレットさんならどうしてここの部にいるんだろ? もっと強い高校からの誘いとかありそうなのに」
「さあ? 私もそこまでは知らないけど」
そう言って首を振る栞李の瞳は、やはり遠くの他人事を眺めているかのように白くくすんでいた。
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「これから、新入生を加えて最初の練習を始めようと思う」
それから30分としないうちに上級生を含めた14人の女子生徒がグラウンドに集まっていた。
「結局今年も5人だけかぁ……」
説明会の時には十を超えていたはずの入部希望者も、その場に残っていたのは栞李たちを含めたわずか5人にまで減っていた。
「うーん……今年はメイちゃんもいるし、もうちょっと来てくれるかと思ったのになぁ」
「なっ!? 菜月センパイはワタシのことパンダに使おうとしてたんですか!?」
「あっ! ご、ごめっ!! そんなつもりじゃなくて……」
「こらメイ、落ち着いて。そんな訳ないでしょ」
「むぅ、まあハルカ先輩がそう言うなら……」
「でもまあこれで今年も一応
そんな先輩たちの会話を聞きながら、栞李は早くもこのチームの限界を感じていた。
全国大会への最大の鬼門とされる4試合のリーグ戦を勝ち抜くには複数枚の投手が必須とされる。
そのため、全国常連と呼ばれる強豪校は大抵の場合、実力のある投手を6〜7人ほどベンチに揃えており、その上さらに左右の代打や第二、第三捕手などを含めた20人の選手をベンチ入りメンバーに選出する。
この選手の豊富さこそが強豪校の絶対的な優位性となっており、明姫月のような部員の数がメンバー登録上限以下の弱小校がリーグ戦を勝ち上がるための大きな壁となっていた。
「初日の今日は新入生に自己紹介をしてもらってから、全体練習を始めていこうと思う」
イマイチまとまりのないチームの中でもブレることのない沙月の声に促されて、副部長の菜月もわざとらしく咳払いをしてその後の説明を引き継いだ。
「えっと……じゃあまずは1番左の子から! 名前と、希望ポジションと、あと何か一言あれば。あ! ポジションは自由でいいからね。私たちの学年にも高校から野球始めたって子もいるし、初心者の子も難しく考えないでやってみたいポジションとか憧れの選手と同じポジションとかでもいいからね!」
細部にまで必死に気遣う彼女の姿に心落ち着かされてか、新入部員の自己紹介はリラックスした雰囲気で始まった。
「はい! えっと、猪口舞花です。中学は軟式で、内野と外野どっちもやってました。まだまだ下手くそかもしれませんが、よろしくお願いします」
真っ先に指名されたのは、ぱっちりとした大きな一重が印象的な少女だった。彼女は経験者のためか、練習着の着こなしも様になっていた。
「スゴい! ユーテリティ選手なんだね!」
「そ、そんな大層なものじゃないですけど……」
「ううん! この部に来てくれて嬉しいよ。よろしくね! 舞花ちゃん」
「あ、はい! よろしくお願いしますっ!」
「それじゃあ次の子どうぞ!」
続いて指名されたのは、こだわりのありそうな三つ編みおさげと大きめのスポーツグラスが特徴の少女。
「あ、はい! えっと、田村彩楓です。中学までは陸上やってて、野球経験はほとんどないですが、よくテレビで試合見て憧れてたので思い切って高校から入部してみました! 初心者ですけど、どうぞよろしくお願いしますっ!」
「よろしくね〜。初心者の子も大歓迎だよ! 一緒に頑張っていこうね、アヤカちゃん」
初めの二人ががそれぞれ無難な自己紹介を終え、いよいよ順番が実乃梨の元へ回ってきた。
「はい。じゃあ、次は……」
「ハイハイっ! ワタシ! 仲村実乃梨です! 中学までは水泳やってました! 今はまだ未経験ですけど、いつかレッズのサトミちゃんみたいになりたいのでキャッチャー希望です! 皆さんどうぞよろしくお願いしますっ!!」
相変わらずハキシャキと言葉を発する実乃梨に、先輩たちからも好意的な拍手が送られる。
「スゴいね〜、キャッチャー志望かぁ。それじゃあうんっと頑張らないとね」
「はいっ! ワタシ、頑張ります! そのために野球部のある学校に来ましたから!」
「そうなんだ! 来てくれてありがとうねミノリちゃん! えっと、それじゃあ次の子……」
その拍手に紛れるように、栞李はのっぺりと口を開いた。
「えっと……末永栞李です。中学はサードと、ちょっとだけショートもやってました。よろしくお願いします」
何の衒いもない栞李の言葉は、当たり前のように場の空気の中へ消えていった。
「うん。ありがとう。ちょうど内野手は数が少なくなってたからありがたいよ。よろしくね、シオリちゃん」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「うん! それじゃあ、次でもう最後の1人かな? その右の子、お願いします」
そうして、気づけば新入生の自己紹介も最後の1人に差し掛かっていた。
「倭田莉緒菜です。ポジションは、
そこまで言い終えた時、栞李は彼女の瞳が静かに熱を帯びる瞬間をその頬肌で感じ取った。
「けど、マウンドに立つ以上は他の誰にも負けるつもりはありません。相手の打者にも、同じピッチャーにも……」
例え周りの目がどうあろうと、彼女は『彼女』であり続けた。
「私はここで、日本で1番の投手になります」
とても現実的とは言い難いその宣言に、その場の誰もがすぐには反応を見せることができず。
それでも、きっと誰もが一度は夢見た先を無邪気に信じるその瞳に、栞李だけでなくそれぞれがそれぞれに心浮かされ、動かされていた。
それは良い方ばかりではなく、人によっては暗く、重たい方へ。
その沈黙の中心で、彼女はそっと頭を下げた。
「あ、ありがとう。リオナちゃん。それじゃあ、後の説明は葵ちゃんに……」
「はいはい。お任せください!」
耳に残る莉緒菜の言霊に圧されたままの雰囲気の中、菜月の言葉に応えて栞李たちの前に出たのは同級生かそれ以下にも見える幼顔の少女だった。
「ただいまご紹介にあずかりました、2年の津代葵です。とりあえずしばらくは初心者の子も含めてワタシがみんなのサポート係になるから! わからないことがあったら何でも聞いてね~」
ただでさえ幼く見える容姿が余計に引き立って見えるのは、眉の上でパッサリ切り落とされた前髪のせいだろうか。実際の身長は栞李と大差なかったが、ひと回りかふた回りほど小さいような錯覚を受けた。
そんな彼女はふと、これといった前触れもなく倭田莉緒菜へと視線を向けた。
「君……確か、リナちゃんだっけ?」
「莉緒菜です」
「そっか、リオナちゃん。うんうん。いい宣言だったと思うよ。『日本で1番にピッチャーになりますっ』なぁんて、何の実績もない高校に入った娘がそうそう口にできることじゃないからね」
皮肉めいて聞こえるが、彼女の
その笑顔を浮かべたまま、彼女は莉緒菜の手を取った。
「一緒に頑張ってこーねぇ? ワタシも実績がないからとか人数が少ないからとか言い訳できるからって、負けてもいいなんてこれっぽっちも思ってないから」
けれど、その瞳だけは偽りのないホンネを映しているようで。
栞李の眼には彼女の本性がこれっぽっちも見えてこなかった。
「葵は野球に関しては間違いなくこの部の誰よりも知識がある。初心者も経験者も困ったら遠慮なく頼ってほしい」
「はーい、任されましたキャプテン! それじゃあみんな、外野でストレッチから始めるよ~」
明朗快活な彼女の笑顔を見て、実乃梨はひっそりと栞李に耳打ちした。
「優しそうな人で良かったね」
「さあ、どうなんだろ」
実乃梨としては、てっきりいつも通りの気のない同意が返ってくるかと思っていたのだが、その時の栞李はどこか苦酸っぱそうにその先輩の顔を見つめていた。
「えー、どうして? いい人そうじゃん、葵センパイ」
「まあ、そうなんだけど……何か私、あの人のこと苦手かも」
栞李がそう口にしたそばから、2人はばっちり葵と目が合った。葵の顔は何も知らないとばかりに笑ってはいたのだが、栞李はそこに得体の知れない不気味さを覚えて一人こっそり肩を縮めた。
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