死ぬということ

生きるということの後に書くには甚だ遠い話なんだけれど、生物的な死はもうどうしようもなく確定しているので100年生きれれば幸いかと思う。だから私の人生もあと70年ちょっとということになる。私は結婚をしていないので、死ぬときは孤独死になることがほぼ100%の確率で確定している。誰かに看取られるとしたら多分、交通事故死をするときだろうか。だとしても私は交通事故で死にたくはない。死ぬならこの手で死ぬことを望んでいる。何かしら病気をして死ぬのが精々なのだろうが、まぁそれは先の話だし、今死ぬことを考えたって死ぬことに対して何のアクションもできないので考えない方がいいだろう。そうじゃないと先が真っ暗である。

私が言いたいのはそういうことではなくて、社会的な死、精神的な死についてである。精神的に向上心のないものは馬鹿だ理論を私は推奨しているので、精神的な向上心は常に持つことが大切だと思う。そういう向上心がなくなった時点で人は死ぬんだろうと思う。特に私の職業なんかだと、本を書き始めたらいよいよ死であるとされている。第一線から離れたらもうそれは死なのである。こうこう本を書いているから死んでるのでは?と疑問を投げかけるかもしれないが、死というのは専門書を書くことで、専門家が専門書をかけるようになるのは自分の考えをまとめ始めることだから新しいことに取り組む気がないともいえる。それ故に死なのである。少々精神的な死について語ったので期待に応えて身体的な死について書こうかと思う。

私は人生で5回くらい死のうとしたことがある。一つ目は中学生の頃、そのころはネガティブシンキングだったので死ぬことに少々の躊躇いはあれど死ぬことに何かあこがれを感じていた。当時お付き合いしていた人も同じ類の人間で、類は友を呼ぶというのはよく言ったもので、死ぬためのお付き合いをしていたといっても過言ではない。お互いに包丁をもってお互いが刺しあえば誰の罪にもならないしいいんじゃないかと考えていた。何かと面白くないし、私はいじめられっ子だからこの世から消えてしまえばどんなに楽だろうと思った。一回目は低空飛行のまんま高校まで死ぬことにあこがれを感じながらのうのうと生きていたわけだけれども、二回目は高校の時だろう。自分なんて無力だ。生きていても食事だけして生かされているような気がして死んでしまおうと思った。この時は電車に轢いてもらおうと考えていたのだけれど、電車に轢かれたら遺族にすごい金額の請求が来ると知っていたので、これって死んだあと迷惑をかけるかなって思って思いとどまった。そう、今思えば車の中で自殺するのが一番効果的である。建物の中で死んでしまえばそこは事故物件になってしまって、誰かに迷惑をかけることになる。迷惑をかけずに死ぬことができるとするならば樹海か車の中で刺殺が一番いいのである。でも私はそんなに苦しんで死にたくもないから、多分絞殺を望むだろう。そうすると誰か殺してくれる人が必要だし、それにどんなに懇願してお願いしたところで、死人に口なしなので相手は殺人罪に問われてしまう。だから私は死ぬことをあきらめていた。今はわりとポジティブシンキングというかポジティブすぎるのだけれど、これはあるお付き合いしてた人の言葉を今でも覚えていて、私が死ぬことがどれだけ人を悲しませるのかを考えた結果だろうと思う。自殺がいけないなんて法律には書いていないし、いつ死んでも構わないのだけれど、前にも書いたように今は楽しくて仕方がないので今ここで死にたいとは思わない。死にたい人は私に連絡してくれたらいい。何かしら救済はできるんじゃないだろうか。死にそびれた私が命ずる、生きろ。というところだろうか。

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