六星目
カリカリカリ。名塩の駆るオンボロ軽四が、灯りのない峠道を下っていく。ちゃんとブレーキが効くのかどうか怪しいところであるが、頭のブレーキが全然効いてない名塩よりは幾分マシに思えるのは気のせいか。
僕は再び後部座席に深く腰を掛け、ななかとのやりとりを反芻していた。
──これ、もし迷惑でなければ。
手渡された名刺サイズのカードを、ポケットに手を突っ込んで確認する。
……ある。間違いなく、そこにある。
どういうつもりで、ななかはこれを僕に渡したのだろう。もちろん、ななかが言ったとおりという可能性は高い。つまり実家が自営業で、やろうとすれば経営の真似事ができる人間と知り合いになりたい、というあのセリフだ。それは間違いのない大本命。
──しかし。しかしである。目の前のアホ二人に比べれば若干マシな(ハズの)僕と、ななかが仲良くなりたいと思ってくれている……そんな可能性はないだろうか。ナノレベル、いやピコレベルくらいでそれは存在するのではなかろうか。
もしそうだったとしたら。もしも僕という人間を、ななかが気に入ってくれたのだとしたら。僕は──、
「さっきからどうした。様子が変だぞ」
出し抜けに聞こえた名塩のセリフ。僕に向けられていると気がつくまでに、少しの間を要してしまった。僕は咄嗟に、それでも努めて冷静に言葉を返す。
「え? 変? どこが?」
「どこがってそりゃあ、お前の頭ん中だろうよ」
「いや待て。それ加西だけには言われたくないからな」
「ひでぇな三木ィ。でもよ、確かに名塩の言うとおり本当に様子が変だぜ? なんかさっきからニヤニヤして、やたらと嬉しそうな顔してんじゃねぇか」
「そんなにあの女と出会えたのが嬉しかったのか。物好きだな、三木も」
「いやそんなんじゃないって、」
「だが、あの女には気をつけた方がいい」
僕のセリフを遮るような名塩の声。バックミラー越しに、また目が合った。その眼差しはいつになく真剣だ。
名塩はまだ疑っているのだろうか。ななかが幽霊だと、本気で思っているのか。
だとしたら僕は心を鬼にして、この友人に良い病院を探してやらねばなるまい。もちろん頭の方の、である。
「名塩、まだ疑ってるのか? あの子はどう見たって人間だったろ。言葉も交わせるし、もちろん触れられる。それで鼻血出してたのはどこの誰だよ」
「そういう意味ではない。さすがに俺も、あの女を幽霊とは思っていない」
「それじゃあどう言う意味だよ」
「それはだな、」
「──オレもよ、あの子は人間だと思うぜ?」
名塩の言葉を遮ったのは、意外すぎる助け舟。まさかの展開。期せずしての援護射撃である。僕は続く加西のセリフを傾聴する。
「だってよ、あの子めちゃくちゃいい匂いがしたんだぜ。なんつーんだ、あの透き通るような爽やかな香り。ライム? シトラス? マンダリン? とにかくフルーティな柑橘系の香りだよ。あんないい匂いの幽霊がいる訳ねぇ。あぁ、叶うのならもっと近くでスーハースーハーしたかったぜ! お前もそう思ったろ、くんかくんか三木ィ!」
助け舟は泥舟で、援護射撃は紛れもないフレンドリーファイアだった。反省。コイツらに少しでも期待をしてはならない。
というかその「くんかくんか三木」ってなんだ。ネーミングセンスが酷すぎる。だいたい僕は、そんなにくんかくんかはしていないのに。
「……ふん、三木も加西も毒されているな。よく考えろ、あの女の動向を。おかしいところがごまんとあるだろう」
「いやお前が言うなよ名塩。お前なんておかしさの塊じゃないか」
「ククク、そりゃ言い得て妙ってヤツだな、三木ィ」
「いやいや加西、『自分より名塩の方がおかしい』ってもし思ってるなら、残念だけどその時点でお前も充分おかしいからな」
「なんだと……? オレぁ名塩より『上』だって言いてぇのか?」
「頭のおかしさが『上』とか思ってる時点でもうお察しだよ。普通の人間なら『下』って言うだろ、頭おかしいんだから」
「うるせぇよ、三木ィ! 今のお前だって充分おかしいからな!」
ぎゃあぎゃあ。僕と加西の泥試合のような言い合いが始まった。さっきまで味方をしてくれるかもと少しでも思った僕がバカだった。
あぁ、そうか。僕もバカなのは間違いない。いやコイツらよりは絶対にマシだけど。
「……落ち着け、二人とも。今は下らん言い合いをしている場合ではない。あの女のおかしな動向について論じる必要がある」
「名塩もしつこいな。あの子におかしなところなんてないよ」
「それでもあえて言わせてもらう。あの女はおかしい。それに何かを隠しているとしか思えない」
「隠す? いったい何をだよ。どこもおかしくないし、何かを隠しているようには思えない。あの子はお前らと違って、ごく普通の人間なんだぞ」
僕は腕を組みながら名塩に返す。自分でもその言葉がキツめになるのがわかるが、しかしここは譲れない。名塩はバックミラーに投げていた視線を前方に戻すと、軽やかにステアリングを捌きながら言った。
「いや、そうではない。あの女がごく普通の人間か、あるいはそうでないのかは今の問題ではない。俺が言っているのは、あの女の行動のおかしさについてだ」
「行動?」
「あの女、いったいどうやってあのペンションまで来たんだ?」
「──え?」
「あのペンションまでは一本道だ。あの女も言っていただろう、車がないと来られないと。加えて言えば、あのペンションは山の頂上に程近い上、別ルートは存在しないはずだ」
「するってぇと、何か? あの子はあそこまで歩いて来てたってことかよ?」
「いや無理だ。麓からあのペンションまで、どう考えても人力では登れまい。いや登れないことはないかも知れんが、あの女の姿を見たか。驚くほどの軽装だっただろう。あの装備で夜の山行は無理に等しい」
言われてみれば。確かに不思議ではある。ななかは、あの場所にどうやって行ったのだろう。もしかして、ななかは……。
「オイオイオイ、それじゃあの子はやっぱり幽霊なのかよ!」
「いや、幽霊だとしたら具体性が過ぎる。廃ペンションを再生させたい夢を持つ幽霊など、俺は聞いたことがない」
「名塩ォ、お前はどう思ってんだ? あの子はどんな存在だって言うんだよ?」
「現時点では俺にもわからん。しかしもう一点不思議なことがある。恐らくだが『織姫』の噂の元となった存在は、あの女で間違いないだろう。だがそうなると願いを叶えてくれるという噂はいったいどこから来たんだ、という問題が浮上する」
確かに名塩の言うとおりだ。火のないところに煙は立たない。つまりななかに会った誰かは、噂を流し始めたその誰かは、少なくとも何らかの願いが叶ったのだろう。でもそれはどういうことなのか。
「クソッ、わかんねぇ! 頭ァこんがらがってくるぜ!」
いつもなら「もともとだろ」と加西に突っ込んでいるところだけど、今回ばかりはそうできなかった。
──謎だ。ななかは謎だ。それは大いなる謎。
しばらく、無言の時が流れた。しかしそれもほんの少しのことで、沈黙を破ったのは名谷のセリフ。
「──まぁ、ここであれこれ論じても結論など出ないだろう。世の中には不思議なことがある。今回はそういうことにしておこう」
「今回はってことはよ、名塩。次回再び、あのペンションにカチ込む気か?」
「いや、俺はこの件から降りる」
「降りるだと?」
「あぁ。好奇心は猫を殺すというからな。俺とて命は惜しい。それにあの女は苦手な部類だ。確かに顔は可愛いが、底知れん。触らぬ神に祟りなしとも言うからな」
「なるほど。お前がそういうんだったら、オレも次回はパスだ。改めて考えてみたらよ、オレも不思議だったんだよな。あそこで女の子に出会ったらよ、普通、捜していた『織姫』だって思うよなァ? だがよ、オレにはそうは思えなかった。なんかこの子は不思議だって、直感だがそう感じたぜ。お前はどうだ、三木ィ?」
話を振られて、僕は困ってしまった。
二人の言うことが、珍しくマトモに聞こえてしまったからだ。
どう考えても二人の方がおかしいのに。どう考えても僕の方がまだマトモなのに。
──いや、そうだ。正しいのはいつだって僕だ。
いつものように、僕が証明しなければならない。おかしいのはアホ二人の方であると。
──なにが「あの子は不思議な存在」だ。お前らの方がよっぽど不思議、いや不可解な存在だよ。
だから僕が証明してやる。あの子がまともで可愛くて素敵な女性だってことを、この手で証明するのだ。
僕はもう一度、ポケットに手を突っ込む。
ある。間違いなく、ここにある。
カードに触れた指先が、ちくりと痛む。これが紛れもない現実であると、僕に教えてくれているようだった。
【続】
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