第8話 約束

あの日、俺が親父という大切な人を失ったその日を境に、俺の日常は一変した。

『月下天心流 一之太刀――』

『遅い!!』

『ぐぁ……っ!!!!』

俺の剣の鍛錬は今までのお遊びではなく、実戦を想定したものへと変わった。

『まだ一之太刀を振るうには基礎となる筋が足りてない。今日も素振りとすり足、欠かさずやっておくんだよ。』

先生は今までよりも厳しく、鍛錬も過酷なものへとなっていった。


『はい……。』

『まあまずは、ご飯にしようか。』

『うん!!』

それでも、二人で過ごす時間は決して辛いものではなかった。

『……今日も焼き魚に梅干し?』

『明日はサンマの塩焼きだよ。』

少しばかし食に偏りは生まれていたが。


15歳の誕生日の日、縁側にて二人で月を見上げていた。

『なあ、先生は何で刀を振るうんだ…?』

『あまり考えた事はなかったけど……大切なものの為に戦ってる、かな。』

『大切なもの……?』

『いつか、作一にもできるよ。命を賭してでも、一生をかけてでも守りたいものってのが。』

『や、やめろよ先生。』

頭を撫でる先生。

あの時は先生の大切なものが何か分からなかった。いや、今も何か分からないし分かる気もしない。

それでも、この人の太刀が強さや殺しの為などといった安っぽいものの為にあるのではないと、幼いながらそう確信できた。


『作一、必ず君を僕より強い剣士へと育てるよ。』

『……いきなりどうしたんだよ。』

その時の先生の顔は忘れたくても忘れられなかった。

とても悲しそうで、でもそれを必死に隠そうと笑顔で。

こんな顔をした先生を見たことがなかった。

『柳一先生……君のお父さんと約束したんだ。君を必ず月下天心流の十七代目当主として、一人の剣士としてしっかりと育て上げるって。』

『じゃあ約束してくれ先生。俺に全部授けるまでは死なないって。』

『……ああ、約束だ。』

先生と約束を交わした。大切な、大切な約束を。


けど今は何を信じればいいのか分からない。

そんな想いとともに、微睡みから意識は晴れていった……



―――――――――――――――――――――



「……何であんな夢を見たかな。」

稲本は暗くなった部屋のベッドで目を覚ます。

「もう日付回ってるのか……」

彼が時計を見れば針は1時34分を示していた。

身体を起こすが痛みはもう薄れ、眠りに落ちる前の身体の重さなどはなかった。

「一日中寝てたせいで体が鈍ってるな……。」

彼はそのまま服を着ると部屋の外へと出ていった。


「寒っ…」

屋上の戸を開けるとそれと共に、春の訪れを感じさせる梅の花の香りと、冬の余韻を残した肌寒さが稲本を包み込む。

彼は身を震わせることもなく、ただ一点に集中しその右手に刀を生み出した。

「能力の使用に異常はなし……と。」

彼はその刀を構え、虚空へと狙いを定める。

「月下天心流 一之太刀――」

一気に踏み込み、音もなくその刃を引き抜く。

研ぎ澄まされた一閃は空を切り、瞬間的ではあるが無をも生み出した。

「身体の方も、もう問題はないか……」

彼は刃を納め、静かに月を見上げようとした。


その時、ガチャリと戸の開く音が聞こえた。

「誰だ!?」

警戒し即座に刀を抜く稲本。

「ご、ごめん……」

だがそんな彼の警戒とは裏腹に聞こえたか細い声。

「なんだ、部長か……」

そしてドアの陰から出てきたのは河合椿、その人だった。

「ごめんね、ちょっと稲本くんの太刀筋が綺麗だったから見とれちゃってて…」

「そんな綺麗なもんじゃないさ。少なくとも――」

一瞬、口を開くのを憚った。

「陣内さんの方が、もっと……綺麗だった?」

「……ああ。先生の方がもっと、綺麗でしなやかで、鋭かった。」

それも今となってはもう、偽りの太刀のように思えたが。


「……でも、私は稲本くんの太刀の方が好きだな。」

「ほ、褒めたって何も出ないぞ。」

稲本は照れ臭そうに答える。

「ねえ……」

「ん?」

「稲本君は怖くなかったの?」

「この力がか?」

「……それに、戦う事とか、人を殺す事とか…」

稲本は一瞬黙り込んでしまう。

答えに迷ったからか、真実を伝えるのが怖かったからか。

色々と何度も頭の中で答えては止まり、数回それを繰り返した。

けれども、この人になら話せる――

「……今もまだ怖い。自分が自分じゃない何かになってしまうような、そんな感覚もあるよ。」

「稲本君でも、やっぱり怖いんだね……」

「でも恐怖に負けたら誰かが死ぬ。だから必死に押し殺して、押し殺して戦ってるんだ。少なくとも部長が怖いって思うのは当たり前のことさ。」


全てを打ち明けた。

自身の弱さも、何もかもを。

なぜ打ち明けられたかはわからない。

それでも、彼女になら構わない。そう思えたのだ。

「ありがとう稲本君。あと部長じゃなくて椿でいいよ。」

「……なんか照れ臭いけど、そうだな。これからは椿って呼ぶよ。」

今だけは胸の奥底が暖かく思えた。

疲れ切った心が癒されるような、そんな気がしていた。


「あ、いたいた!!サクちゃんと部長!!」

そこに駆けてくる飛鳥天。

彼女が来ることで稲本の心はまたどこか温まったような気がした。

「二人で何してたの?まさか逢い引きとか?」

「違うよ。俺は最後の調整をしてたんだよ。」

瞬間、二人の顔が陰った。

「本当に……陣内さんとまた戦うの…?」

「……ああ。」

「ダメだよサクちゃん……!!先生と戦ったら……サクちゃんが……サクちゃんが!!」

「……分かってるよ。今の俺に勝ち目はないって事くらい。このまま挑んだら死ぬって事くらい……」

諦めたくなんてない。

だが実力差は歴然だ。

戦えば確実に生きて帰って来ることなどできないだろう。


けれども――

「それでも、お前たちが平穏な日常を過ごせるならいいんだ。俺はな。」

覚悟は決まっていた。

今まで家族のように過ごしてきた天、日常の象徴となっていた椿、二人の平穏が保たれるならば構わない、そう思えたのだ。

今、たった今二人を目にした時から復讐よりも守りたいという想いの方が強くなっていた……


「なら、約束してサクちゃん!!必ず、必ず生きて帰って来るって……」

「私とも約束して稲本君……」

「分かったよ。指切りだ。」

果たせぬ約束を交わす。

それでも、少しでも、彼女らの不安を和らげられるなら。

そんな思いで二人と指を交えた。

「さあさあ部屋に戻って休め!!後4時間後には作戦開始だからな!」

「うん……サクちゃんもちゃんと休んでね。」

「また、明日ね……稲本君。

「ああ、また明日な。」

二人はそれぞれ部屋へと戻っていく。

見送った後、自分も身体を休めようと一歩踏み出す。

だが心なしか足枷がついたように、その足取りは重かった……


―――――――――――――――――――――


3月10日 4:38 N市 セントラルビル 屋上


N市どころかH市や付近の市街も見渡せるビルの屋上に立つ一同。

屋上のヘリポートに轟くようなローター音とともに一台のヘリが舞い降りる。

「手筈通りに頼むぞ。稲本。」

「言われなくても分かってるよ。」

二人は拳を合わせ、ルプスの面々は次々とヘリに乗っていく。

「本当に、一人でやるのか?」

「ああ、俺の仇だからな。」

「……死ぬなよ。」

「分かってるって。」

多くを語らないうちにヘリは飛び立つ。

「もし、俺が帰らなければ妹を――」

「もし、俺が負けた時はこいつらを――」

「「頼む。」」

二人は再度約束を交わす。

己が大切なものを、互いに託しあいながら。


そしてヘリの音は遠くなり、もう一台のヘリが舞い降りる。

「ねえサクちゃん……生きて、帰ってこなかったら許さないからね。」

「私もよ。稲本君、必ず、生きて帰ってきてね……」

「ああ、必ず生きて帰るよ。」

二人ももう一台のヘリに搭乗する。

ドアが閉じられ、半泣きの二人に稲本は笑顔で手を振る。


「さて……」

彼は静かに振り返る。

そして目の前に立っていたのは――

「やあ、作一。」

「……来たな、先生。」

仇敵、陣内劔だった……


今、二つの約束が交錯する。


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