第5話 はじまりの記憶

 オーラヘヴンの裏手には、神秘的な森が広がっている。背の高い針葉樹が多い。

 ケイトがこの森の入り口まで足を運ぶのは人生で二度目だ。朝もやのなか、すれ違うものはなかった。拍子抜けした。

 かなり緊張気味ではあったが、恐怖心は今のところ起こりそうになかった。樹々は穏やかな風に吹かれて、心地よい葉擦れの音を頭上に降らせている。

 ―このまま何事もなくたどり着くことができればいいが。

 以前は、このあたりですでに引き返すことを決めていたような気がする。当時は幼少期の暗い記憶が脳内に巣食い、猜疑心で気が狂いそうになったのだ。続く眩暈と頭痛により、立っているだけで苦痛をともなう状態だったと思い返し、苦笑した。

 今、ケイトはしっかりとした足取りで歩いていた。方角も冷静に把握することができていた。



 しかし、ケイトがそのように考えていたのもつかの間だった。しだいに朝もやと思われたものは濃霧に変わり、薄れたと思うと見覚えのある世界が広がっていた。目の前の景色は、セインベルク王宮の中庭だった。さらには、重々しく息も詰まるような先王統治時代に時が巻き戻っていた。

 自分の意志に反して、景色は流れてゆく。彼はついに来たか、と思った。奇妙な感覚だ。肉体が自分のものである感覚は失われていないのに、目を閉じようと眼前の光景から逃れることができない。

 今、自分は庭を抜け、暗い地下道へ降りているところだと思った。おそらくあの忌まわしき毒を飲む前だ。魔獣研究の場と化す地下室へと向かっているのだと。延々と続く鉄格子の前を通り過ぎる。檻の中は暗く、奥まで見通すことはできなかったが、どの区画からも、不気味なうごめきが感じられた。あたりには獣の臭気と薬品の香に満ちていた。



 光の届かぬ地下において唯一煌々と明かりの絶えない研究室に足を踏み入れると、ある人物が椅子から立ち上がった。当時、王都でいたく重用されていた魔獣博士の男。名をハユルドといった。年は若く見えるが、実際の年齢は不詳だ。細い銀縁眼鏡をはずし、嘘っぽい笑みを浮かべながら、品定めするかのようにこちらを見ていた。

 ケイトはこの男のあとについて、関係者以外立ち入り禁止とされる最深部へと足を進める。岩肌はむきだしのままで、まるで洞穴のような印象だった。



 ―あなたには、一目で適性があると思いましたよ。

 ハユルドの自信に満ちた言葉は、ケイトが聞き返すまでもなく、すぐそのあとにこう続けられた。

 ―似ていますから。我々の性質と。

 ハユルドは、最も厳重に管理された巨大な鉄格子の鍵を慎重に開けた。その奥には、さらに人間の背の高さほどの柵があった。

 ―私がいいと言うまで、後ろにいてください。挙動次第では、喉笛を噛みちぎられますよ。

 男は腰位置に携えていた鞭を手に取ると、鋭く地に打ちつけた。その音は地下空間中に響き渡り、遠い壁に反響して戻ってくると、いつまでも耳に残った。

 暗闇の中から、ぬらりとやってくる生き物がいる。魔獣だ。

 次第に、姿かたちがはっきりとわかった。

 ぴんとたった耳、全身をおおうグレージュの短毛、蝙蝠あるいは悪魔のような翼と尾。猛禽の爪。人間よりも大きな身体をしていた。黒竜のような、しかし歪な獣だった。

 ハユルドは、魔獣が興奮していない様子を確認すると、すぐにケイトへと道を開けた。

 ―ほら、ご挨拶なさい。

 魔獣に覇気はなかった。瞳はとろんとしており、尾はだらりと垂れ下がっていた。

 ―すみませんね。今日のご令嬢は、お疲れのようで。すぐに魔毒を与えさせましょう。

 この後ケイトにとっても恐るべき苦痛が待っていたはずなのだが、幸いなことに、耳鳴りとともに気が遠くなるのがわかった。

 これが、彼にとって自身の召喚魔獣との最初の出会いとなる記憶であった。

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