第3話 海沿いの街で

 ケイトは多くの乗船客とともに、港へ下船した。

 乗客は商人がほとんどで、船底から次々と運び出される積み荷の多さには、驚かされることとなった。政情の安定によって、すぐに経済は勢いを取り戻し、物流が盛んになったことがわかる。

 銀のアーチに刻まれている「オーラヘヴン」の文字をくぐり、街へと足を踏み入れた。

 かつて視察や、旅で何度も訪れた街だった。勝手は知っている。



 通りを歩きつつ眺めると、厚いガラスを多用した商店街や、見晴らしのよい高台に立ち並ぶ高級住宅街は健在だった。

 商人らの家族が一時的に滞在する別荘地として人気の高い街だ。セインベルク混乱の最中、この地には王族も多数身を隠していたのだという。すべてあとになって知ったことだが、今さら腹を立てるのも、ばかばかしいと思った。

 街のシンボルのような青い煉瓦造りの時計台を見上げた。尖塔は天に向かってまっすぐに伸びている。

 王都に比べると、街なかの空気も非常に澄んでいるため、自然と足取りは軽くなった。



 ―「聖獣って、本当に純な生き物なのよ。純粋すぎるから、他の生き物を寄せ付けないの」


 同業者である獣使いの、それも聖獣使いから聞いた言葉だ。

 ながらく人間に依存しながら生きてきた性質のものは、すぐにあの森に適応できるのだろうか。

 自然のなかでなど生きられないと、あれはそう言っていたような気がする。もしそれが本当だとすれば、凍えていないだろうかと気がかりだった。


 事前に手配していた宿につくと、ようやく長い船旅の疲れから解放され、身体を休めることができた。

 しかし、いざ王都を離れ、目的の地が近づいてくると、ますます不安は尽きない。

 彼女の記憶は、毒とともに身体からすっかり失われてはいないだろうか。

 彼女は、契約という名の魔毒を介した呪縛から解放された今、主人を望んでいるか。

 そもそも自分は、たどり着けるのか。

 自分に聖獣使いの素養はない。少なくとも、以前訪れたときは、一握りもなかったらしい。近づいただけで、異常なほどの不安感。動悸。眩暈―


 そのような精神状態となったのは、はじめてだった。だからこそかつて行動をともにしていた連れ合いが難なく踏破して帰還したのには、当時からやるせなさを覚えていた。

 聖獣の庭に近づくにつれて何より耐え難いのは、強烈な負の記憶が押し寄せてくる感覚。

 似たような症状に襲われたフィルは、その後しばらく心身の調子を崩し、立ち直れなかったという。それを聞いたときは、壮絶な過去をもつものほど、その反動に苦しむことになるのではないかと感じたものだった。


 ―そもそも、聖獣使いになれる適性など持ち合わせるわけないだろう。俺のようなのには、道を踏み外した魔獣契約こそふさわしかった。

 今思えば、いつも無謀で独りよがりな生き方しか選べず、それが仇となって何度も犬死にしかけたような、自分には―


 彼女は、瑠璃ラピスラズリは―ラピスは、本当は何を望んでいたのだろう。あんなに片時も離れることなく行動していたというのに、今となってはまるでわからない。


 ―「私、あなたの影になりたいの。それなら、ずっとそばにいていいでしょ?」


 こんな時に限って、自分にとって都合のいい言葉ばかり思い出す。

 今思えば、自分はずいぶんひどいことを言っていた。あれらは完全に甘えだったと思う。


 ―「あのさぁ、契約獣ってのは、こうも主人にべったりなのかね。それとも、あんたは魔獣だから俺から離れると特別困るってわけか」


 ―「言葉通りの意味よ。ただそばにいたいと思うから影になりたいの。私は、あなたに本心しか言わないわよぅ」


 ―「無理に俺の機嫌をとろうなんて思わなくていいよ。疲れるから。心配せずとも、契約はどちらかが死ぬまでだ。お互いに見捨てたりなんか、できやしないんだから」


 ―「私、あなたのことは理屈抜きで好き」


 ―「それはどうも」



 当時の自分は、好意を向けられることに慣れていなかった。

 近づいてくるものの腹の中など知れたものではない。必ず裏があると考えていた。王族でありながら、卑しい出自の自分に好んで近づくものなど、ろくなものではない。信用できるはずがないと思っていた。



 魔獣ラピスラズリの召喚主となったケイトは、彼女の力の源である魔毒を、自身の体に取り込むことで、身体的な負担の半分を請け負った。むろん、強い副作用はあった。一時は器官がぼろぼろになり、生活さえ困難となったものだが、解毒剤のおかげで持ち直した。

 そのようなリスクを承知で主人側が苦痛をいくらか背負ったことにより、彼女にとっては自分が命の恩人のごとく意識に刻み込まれたのだろうと。


 ケイトは、それを利用していた―つもりでいた。実際、そのような自身の愚かさが、契約を本来よりも脆くしていたのだ。それは、仲間の聖獣使いの言動をそばで見聞きするうち、ようやく気付かされたことだった。



 ケイトは今、契約魔獣として主人にすがりながら生きることしかできないのだと自身の召喚獣のことを憐れんでいた頃の自分を恥じている。彼女は、きっとそれらのことをも見抜いていたのではないか。

 むしろ愚者として憐れむべき対象は、自分のほうであった。



 ケイトが悩み苦しむたび、ラピスラズリは魔力を帯びた影をまとい、彼の存在を一時的に世界から覆い隠したのだった。

 そのときは決まって、胸の悪くなるような甘く苦い香がただよい、徐々に肺を満たしていくのがわかった。はじめの頃こそ苦手としていたその匂いも、自身が毒を飲み続けることで、しだいに気にならなくなった。

 強力な魔毒に侵され、嗅覚が麻痺していたのだと思われた。ケイトは平均よりもかなり耐性のあるほうだったが、それでもだ。


 魔毒は、摂取により心身への恐ろしい悪影響をひきおこす。現在は、新国王とその側近の一人である騎士団長の強い意向により、国をあげて厳重に禁じられているのだった。

 そのような劇薬の摂取を繰り返した魔獣契約は、主従のあいだに歪な契約関係を結ばせる。

 ケイトは、ラピスラズリのもがき苦しむ姿を思い出し、自己への強い嫌悪感に苛まれた。そのような状況さえ必要悪と考えていた、契約初期の頃のことを思い出しては、やはり彼女に会う資格などないのではないかと思うのだった。

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