第30話

 ステージ袖には既にエルが待機していた。ピアノを目の前にして少し固くなってはいるが、この程度なら問題は無い。多分、すぐに力は抜けるだろう。


「エル。存分に演奏を楽しもう。俺から言えるのはそれだけだ」


「はい! 師匠、ちゃんと聞いててくださいね?」


 エルの笑みは、無邪気で明るかった。

 言葉を短く済ませて、エルはステージへ向かった。小さな背中で、今にもプレッシャーに負けてしまいそうで、目が離せなくなってしまう。

 だが、ピアノの前に座ると雰囲気が変わる。大きな的に立ち向かうような勇者みたいに頼りになる。

 エルは今日、音楽の全てをかけるつもりだ。

 今まで練習してきた努力と、失いかけていた夢、そして誰かに音楽を届けたいという気持ち。全てが詰まった手をそっと鍵盤の上へ乗せた。


「――師匠の為に」


 呟いて、始まった。

 1曲目はこの世界では有名な曲な分、誰もが安心して聞いている。少し固いような気はするが、それでもエルらしい弾き方だと思う。

 陽気な曲の中に、真面目でとにかく聡明で、だがところどころ無邪気な姿が顔を出す。心を踊らすようなスタッカートも、エルならではと言ったところだろう。

 そして、転調して中盤に差しかかる頃には力みも抜けて、とにかく楽しそうに弾いていた。観客もまるで我が子を見るような目でエルの演奏に聴き入っていた。

 成程、初めは自由に自分を表現するってことか。

 今の時間はあくまでも小休止。観客もリラックスして殆ど興味だけで聴いている状態。だからこそ、若干大袈裟に自己紹介をして自分を覚えてもらうみたいな、そんな感じだろう。

 さっき俺とやっていたこととそこまで変わりない。


「……面白い子だね」


「おおぅ……。レーナ、居たのかよ」


「むっ……。ずっと居たのに」


 レーナもどうやら、エルの演奏が気になるみたいだ。


「ソータの演奏。圧倒的だった。多分、いい意味で今日1番目立ってた」


「そうか?」


「うん。悔しいけど、ソータの実力は本物」


「そうか……ありがとな」


「……次は負けない」


 別に、勝ち負けとかないと思うんだけど。コンクールじゃないんだし。

 それにしても、圧倒的な演奏をしていたレーナまでもが俺の事を褒めてくれるのか。

 本当に、俺が過小評価しすぎているだけなのかもしれない。勿論、だからといって調子に乗りたくはないし、ここは気を引き締めて謙虚にいこう。

 さて、1曲目が終わって次はいよいよ別れの曲だな。練習期間が短くてギリギリだったが、ちゃんと間に合わせることが出来た。

 そして今日は、それを思わせないくらいの演奏をしてくれるはずだ。俺はそう確信してる。


「……!? 雰囲気が変わった」

 

 レーナの言う通りだ。先程とは違い、また一段とギアを上げた気がした。

 本気モード突入ってところか。これは楽しみだ。

 エルはゆったりと溜めて、視線を集めた。そして優しく鍵盤に触れて、優しい音色が宙を舞った。

 

「……綺麗」

 

 冒頭を聞いた瞬間、レーナは呟いた。

 音が洗練されている。無駄が全くなく。テンポの並も綺麗に操っている。強弱は少し独特な部分もあるが、それもエルの世界観の1つになっていた。

 ピアノを弾くその姿も美しい。軽やかに動く指と、揺れるように動く腕と体。その動きに反応するように服もふわふわと揺れた。

 曲も相まって、まるで天使がステージに降り立ったかのように錯覚した。

 今までエルの弾いていたどの演奏とも違う。これが、エル本来の演奏。俺は基本的にテンポや基礎の技術面でしか教えていない。だから、知らぬうちに個性を薄めてしまっていたのかもしれない。

 だが俺が自由に弾きまくったことによって、エルも釣られて自分なりに表現をして、更に基礎が固まったことにより正確性も一段と上がっている。

 何よりエルの思いがダイレクトに伝わってくるのがいい。

 ピアノを弾くのが好きで好きで堪らない純粋無垢な少女の思い。まだずっとピアノを弾いていたいという強い思い。それが会場全体を包んでいる。

 この会場の雰囲気を全て、エルが作りかえてしまった。

 幻想的な音は、更にこの空間を別世界へと姿を変えていく。異世界から更に異世界へと姿を変えるわけだ。

 その演奏に、誰もが呼吸を忘れるほどに夢中になった。紡ぎ出す綺麗な音に耳を離せなくなった。

 そして、気付けばそれは終わりを告げる。2曲って言うのがなんとも惜しい。もっと聴きたかったと、そう思わせる演奏だった。

 凄い。これは本当に凄い。元々の才能なんてどうでもいい。これは、エルだけに出来る演奏だ。


 今日演奏した人達の中で1番の大きな拍手がエルへと降り掛かった。

 エルは全く予想してなかったのか、大きな音にビクゥッ!! と体を震わせて驚いて、慌てて礼をして小走りで戻ってきた。

 全く。最後の最後で締まらないやつだな。


「おいおい……。そんな急いで帰ってこなくても良かったのに」


「あ、あはは……。ちょっとびっくりしちゃいました」


 全く。どんなにすごい演奏をしたとしても、エルはエルなんだな。


「にしてもすごい盛り上がりだなぁ。休憩時間とは全く思えない。エルの演奏は大成功だ」


「いえ、師匠のお陰です。師匠が前で凄い演奏をしてたので、その流れで聞いてくれました」


 エルって結構謙遜するんだな。俺なんか居なくても、評価は変わらんだろうに。一体誰に似たんだろーね。


「この後はもう俺たちの出番はないわけだけど、その後の演奏をゆっくり聞いておくか」


「はいっ。そうですね! ふぁー……。ちょっと安心です」

 

 演奏が終わってひとまず安心できたのか、エルはいつもの笑顔が戻っていた。

 正直俺もホッとしてる。気疲れも凄いし、1度ゆっくりしておきたい。

 観客席の柔らかい椅子に背中を預けて、俺は目をつぶった……らエルに頬を摘まれた。


「寝ちゃダメです。ちゃんと聞きましょう」


「分かった分かったから離せ。痛い」


 疲れたんだから少しくらい寝かせてくれよ。エルは眠たくないのかよ。買い物の時ははしゃいであんなに爆睡してたのに、俺は寝かせてくれないのか。

 仕方なく、閉じそうな瞼を何とか耐えていると、隣に誰かが座るのが見えた。

 ランペードさんだった。


「お疲れ。素晴らしい演奏だったよ。やっぱり、君はああやって弾くべきだよ。それに、あの飲食店での演奏から更に良くなっているね」


「そうですか。喜んでいただけたのなら良かったです」


「うん。本当に良かった。それにお嬢さんも中々……いや、お嬢さんに関してはちょっとびっくりしたよ。まさか、あそこまで演奏が変わるとは思いもしなかった。フランソワ家とは少々繋がりがあってね。お嬢さんは覚えていないかもしれないが、良く演奏を聴いていたんだよ。その時のはまるで全く違う人が弾いているみたいだ」


「そうだったんですね。こうやって演奏ができるのも全て師匠のお陰なんです。本当に感謝してます」


「君の事を本当に慕っているんだね。これだけいい弟子も珍しいだろう。大事にしなければね」


「勿論。ちゃんと預かりますよ。まあ、エルがピアノを続けられればの話ですけど」


 一番の問題だ。エルは、父に認められないとピアノを弾くことが出来ない。


「そこまで気にする必要は無いだろう。きっといい返事が返ってくるはずだよ」


 ランペードさんは優しく笑いかけるように言った。


「そうですね」


「部屋は準備してある。この演奏会が終われば、そこで話を聞けばいい」


 休憩終了後の1曲目は、終わりに差し掛かっている。まだ、演奏会が終わるまではたっぷり時間があるし、やっぱり寝ないとやってられない。

 のんびりとした弦楽器の音を聴きながら、俺はゆっくりと微睡みに落ちていった。

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