第31話
「もう〜! なんで寝ちゃうんですか〜! 師匠、起きてくださーい!!」
ゆっさゆっさと体を揺らされ、キンキンとした子供特有の高い声が耳を突き刺し、俺は思わずそれを手で押しのけた。
「う……うるせぇわ! 会場でそんなにワイワイ騒ぐやつがいるか……ってあれ?」
会場には既に誰もいなかった。居るのは俺と、プンスカ怒っているエルと、エルの父親だけだった。
……いやちょっと待てよ? もしかしなくても不味くないか?
「……こ、これは飛んだご無礼を」
「気にしなくともいい。私のエルの面倒をしっかり見てくれていたみたいだからな」
「あ……まあ、そうですね」
良かった。近くに立っていた時はマジでどうなるかと思ったけど、怒っているわけではなさそうだった。
エルは怒ってるみたいだけどね。特に俺に顔面を押されたのもありかなりふくれっ面をしていた。
「さて、ここにずっと居座ると後片付けの邪魔になってしまう。ランペード様が部屋を用意してくれたそうだ。そこで話そう」
「あ、はい」
そうだよ! ランペードさん部屋準備したって言ってたよ! やっべなんで爆睡してんだよめっちゃ迷惑かけてんじゃん。
未だにおっかない顔をしているエルを連れて、エルの父親の後ろを着いて行った。
「師匠、酷いです」
廊下を歩いていると、エルがこしょこしょと囁いてきた。
「何がだよ」
「だって、師匠。寝ないでって言ったのに寝ちゃいますし、それに起こそうとしたら酷いことするんですもん」
「……ハッ」
「鼻で笑いましたね!? 師匠!! それは流石に怒りますよ!!」
「もう怒ってんじゃん」
「……2人は何をしているのかね。もう部屋に着いたんだが?」
「あ、すみませんつい……」
前と同じ応接間だった。エルの父親は椅子に腰掛けたのを見て、俺も椅子に座った。
気疲れが残ってるのに、またすぐに訪れる緊張した雰囲気。もうこれっきりにしてくれ。
「えっと……エルの演奏はどうでしたか?」
「ふむ……思った以上だったよ。素晴らしかった。君の演奏も中々だったな」
「あ、ありがとうございます! では……」
「まあ、良いだろう。エルが君の弟子になることは認めよう」
エルが息をゆっくりと吐き、頬を弛めた。
良かった……。ほぼ大丈夫だろうとは思っていたが、万が一って考えると気が収まらなかったからな。これでやっと一安心だ。
でも、そんなにあっさりとは終わらなかった。
「――だが……1つ条件を付けよう」
条件? そんなのいるのか? あれだけ弾けるのなら文句ないだろうに。
まあ、別になんかちょっと条件出されるくらいならいいけど、無理難題とかだと流石にキレるんだけど。
「条件……なんですか?」
「なに、簡単な話だ。エルには……二度とうちの敷居は跨がせない」
「あーなるほど……。ちょっ!?」
それって勘当ってことかよ!?
エルは声が出ず、口を開けてただ目の前の父親のことを見ていた。
「それが最低限の条件だ。なにか文句があるかね?」
文句あるに決まってるだろ! そんな、横暴すぎる条件。負けを認めたくないってことかよ。
エルは口を覆って、目を見開いている。目には涙が溜まっていて、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
「可笑しいでしょ、冗談じゃない。エルも顔青ざめてるじゃないですか。こんなの、絶対父親のすることじゃない」
「これはあくまでも家の総意だ。家に芸術家などいらん。さあ、エル。どうするんだ?」
「え……? えっと、その、分からないんだけど」
「分からないなんてないだろう。そのままの意味だ」
「パパ、なんで……? 認めてくれなかったの?」
「認めているとも。それで、どうするんだ?」
「エル……」
エルは何も言えなかった。私はそれでもピアノをやりたいと言えばそれで全てが終わる。別に、やっぱりピアノを辞めるでもいい。でも、選べない。
気持ちはよくわかる。俺も、少し前までは大事なものの二択で迷ってしまった。
エルの場合、1番大事なのは自分にとって何が幸せで満足できるかどうか。
エルにとっての幸せなんて決まっている。ピアノを弾くことだ。でも、今家族と比べてしまって、失うものの大きさに迷ってしまっている。
俺がなにか声をかけるとしたら、なんて声をかければいいのだろう。
「……あれ?」
エルは悲痛な顔を浮かべていた。それは当たり前だ、こんな小さいのに勘当だなんてありえない。
でも、俺には何故か引っかかることがひとつあった。
なんで……なんでエルの父親までもがつらそうな顔をするのだろう。
「あ……」
やっと、やっと分かった。別に、エルにピアノをやって欲しくないわけじゃないんだ。
寧ろ、エルの父親はピアノをやって欲しくてたまらないんだ。
じゃあなんで、こんなことをするのか。
それは、エルに一生ピアノの道を進ませるためだ。
エルの家は名門貴族。エルにそんな気はなくともふとしたところで心が折れそうになった時、家を頼ろうとするかもしれない。そう考えてもおかしくはない。
エルの父親はその根本を絶つことによって、エルをピアノの、音楽の道へと歩ませようとしているんだ。
これは、フランソワ家からの最後の試練なんだ。
でも、このままではエルは何も出来ずに終わってしまう。だから、俺は声を掛けることにした。
「エル。ちょっといいか?」
「……はい」
声には明らかに覇気がない。もう、何もかも諦めてしまっているような気がした。
でも、こんなになっても目はまだ諦めていない。諦めの悪い所は流石だな。これなら絶対に、音楽の道で成功できる。
「別に、ピアノをやんなくても生きていける。それは絶対にそうなんだ。だから、今までやってきたことを捨てたって何も悪くは無い」
現実に考えてみれば至極当たり前な話だ。
でも、俺達にはもっと大事なことがある。
「でも、なんで態々家出してきたんだ?」
「……!」
気付いてなかったのかよ。ま、そこはまだ子供ってことだな。
そう、初めから答えなんて決まってるんだ。本当なら、俺がヒントを与えるより自分で見つけた方が良かった。でも、このままじゃ本当に潰れるし、流石に声をかけた。
エルが家出をした理由。そんなの簡単だ。音楽が大切で、その大切なものを何としても守りたかったから家出をしたんだ。
それだけの覚悟があったから、ここまで頑張れたんだ。練習が満足に出来ない日が続いたこともあったし、演奏会のリハーサルでプレッシャーに押し負けそうにもなった。
何より師匠が折れかけていた時に、エルは信じて手を差し伸べてくれた。
衝動的なものだったら、そんなことがあれば後悔してすぐに帰りたくなる。でも、笑顔でいてくれたり、プレッシャーにも打ち勝ってきた。
だから、答えに迷う必要なんかないんだ。
多分、エルの父親はそれを敢えてもう一度確かめに来ただけ。
だからエル、最後のひと押しだ。
――頑張れ!!!
エルの雰囲気が、明らかに変わった。もう、心配する必要はなさそうだな。
エルは俯いていた顔を上げた。迷いなんて微塵も感じられなかった。
「パパ。私、ピアノを続けたいです」
「なら、条件は……」
「はい。私、家を出ていきます」
エルは言い切った。その一言を言うのは多分、怖かっただろう。でも、エルは強かった。多分俺なんかよりずっと、強い。
「そうか。なら話は終わりだな。――君、エルを頼んだよ」
そう言って、エルの父親は先に外に出ていった。そして、俺とエルだけが取り残された。
今度こそ訪れた静寂だった。
「……師匠。私、ちゃんと言いました」
声が震えていた。じんわりと、瞳からは涙が溜まっていた。
「そうだな。よく頑張ったと思うよ」
「でも、すっごく怖かったです。怖くて、泣いちゃいそうでした」
エルは正面から飛びついて、俺の胸に顔を填めた。
いや、お前もう泣いてるけど。とは、言わないでおいた。
穏やかな風がどこからか迷い込んできて、ゆらゆらとエルの髪をさらった。
そして、震えるように鼻をすする音だけが、この薄暗い部屋の中に響いていた。
まるで時が止まっているかのようだった。時が止まっていて、俺とエルだけが動くことができる。2人だけの世界だ。
気付けば、エルは疲れて眠ってしまっていた。それも仕方がない。今日は色々ありすぎた。正直、俺も早く帰って寝たい。
俺はエルの軽い体を背負って、部屋を後にした。
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