第26話
「お待たせしました。お先に紅茶とクッキーです。コーヒーの方は少々お待ちください」
紅茶は非常に香りが良くて、この空間にふんわりと漂う花の香りによく馴染んでいた。
そして、まもなくするとコーヒーの香ばしい香りが当たりを包み始めた。最近コーヒーは眠りたくない時に飲んでいたが、今日は気分転換のコーヒーだ。久しぶりにリラックスしてコーヒーを飲む気がする。
「面白い道具を使ってますね。師匠と作り方が違います」
「ああ、サイフォンだな。ユーリも初めて見るのか?」
「ええ。あんな理科の実験室にあるような道具。初めて見たわ」
喫茶店へ行くとちょこちょこ目にすることがあるサイフォン。あの道具だけで喫茶店の不思議な雰囲気を作り出すことが出来る。
フラスコ内に宝石のような黒が光っている。それを真っ白なカップに注いだ。
それを同様にもうひとつのサイフォンでカップに注ぎ、2杯のコーヒーが完成した。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーとハニーパイです」
ミルクと角砂糖が1つづつ置かれたが、エルはそれに見向きもしなかった。
いや、本当は入れたいけど無理して入れないっていうのが本音だろう。
「な、なるほど。意外と飲むのに緊張するんですね」
「……そんな覚悟が要る物なら砂糖とミルクを入れたらどうだ?」
コーヒー飲むのに緊張するわけないだろ。折角初めて飲むんだから落ち着いて自分のペースで飲めばいいのに。
「な、何言ってるんですか。ミルクとお砂糖なしでも飲めますから。だって、私だってそんな子供じゃないんですから」
「ふーん」
「なんですか? その顔。なんかちょっとイライラッとしますね」
イラッとするんじゃなくてイライラッとするところがエルらしくて可愛いな。
別に大人だってミルクと砂糖入れ無いわけじゃないし、そこまで固執しなくてもいいんだけど。お腹緩い人とかはは絶対ミルク入れるし。
だがそんなことはお構い無しに、コーヒーをフーフーと冷ましてカップに口をつけた。
途端、顔をしかめる。
「うう……にがぁーい」
「砂糖とミルク、ふたつあるからどっちも入れな」
「はい、そうします……」
エルは肩をガクッと落としながら、ゆっくり砂糖とミルクを入れて、そして渋々それを飲んだ。
「……甘くて美味しいです」
「それでいいんだよ。俺も、カフェラテとかは砂糖入れるし。場所によっては砂糖をドサッと沈めて上澄みをすするって飲み方をする国もあるし、別にブラックが正義ってわけじゃないよ」
「そうですね。あまり固執するの良くないですよね」
そんな他愛のない話をしながら、スイーツをつまみコーヒーを飲んだ。甘く包み込むようなパイと、コーヒーの香ばしい匂いに、体が軽くなった。
久しぶりに羽を伸ばせた。それに、知り合いとどこかに遊びに行くって言うのも久しぶりだし、今日は本当に楽しい。
友達とCDショップで流行りの音楽を探したり、ファミレスとかで駄弁ったりする、学生時代に楽しんでいたいつも通りの日常を思い出せた。
だから花畑に行ってみたいというエルの言葉は、本当にありがたかった。
でも、だからこそ未練を感じてしまう。この世界にいると、ことある事に元の世界の思い出が頭に過ってしまう。
まあ、それがどうしたって言えるくらいには成長したかな。
◇ ◇ ◇
おやつを食べただけで昼ごはんは食べずにお花畑でゆっくりと進む時間を感じる。なんか、そういう腹が減ったのを忘れるくらい遊ぶのも、久しぶりに青春してるなと感じる。
傾き出した日を背に受けて、エルは舞うように花畑をスキップする。
結局、帰る直前までエルのテンションは上がり続けた。
「なあ、エル」
「なんですか?」
「さっき、俺の演奏を聞いて弟子になったって言ってたよな。それならさ、俺の弟子になって、その後の具体的な目標は決めてるのか?」
「はい! 勿論ですよ。師匠にピアノを教えて貰って、それで凄く上手に弾けるようになったら、ウルムストで演奏がしたいです」
「ウルムスト?」
「はい! 音楽の聖地って言われるくらい、凄い場所なんですよ! 世界中の音楽家が、そこで演奏するのを夢見て曲を作ってるんです」
「なるほど。ウィーンとか、ライプツィヒみたいなもんってとこか」
「ウィーン……ですか?」
「ああ。例えば俺の弾いてる曲の音楽家達が過ごしていた場所とかそういう感じかな。音楽家の卵はみんな、そこで演奏したいって思ってる。ピアノとか、俺と同じ国の人が弾いてたけど、凄いんだよ。もはやレベルが違う。音の粒が一つ一つしっかり聞こえるのに、滑らかに流れるように演奏する。あんなの、簡単に真似できるもんじゃない……というか真似出来ないな」
「へぇ……そんなところがあるんですか。知らなかったです」
そりゃ知らんよな。
中学の時はヨーロッパでピアノを演奏するのを夢見ていた。上には上がいて諦めることになるのだが、なんだかんだチャンスがここに転がっているわけだ。
まだ、そのウルムストの価値は分からないが、きっと素晴らしい場所なんだろうな。
俺も、ぜひそこで演奏がしてみたい。
「まあ、そのレベルになれるかどうかってところだと正直分からない。これに関しては練習量次第なんて無責任なことは言えないし。俺も、そういう聖地とかで演奏してみたいな」
「いえ。絶対になりますし、師匠ならウルムストで演奏できます。だって、師匠がいるんですから。私も、いつかそのウィーンという場所で演奏がしてみたいです」
「そっか。ありがとうな」
ウィーンで演奏。そんなことがあったら本当に面白そうだが、戸籍とかってどうなるんだろう? そう考えると、エルの願いは叶わなそうな気がしてきた。
それでも、何故かエルが見知らぬ会場でで大きなグランドピアノの前で座り、ピアノを楽しそうに弾く姿が思い浮かんだ。
そして、会場は沸き立つ。その中にに、俺はいる。
「私、絶対にパパをあっと言わせます。でも、ピアノがやりたいっていう自分の思いだけじゃ。自分のために弾くだけじゃ認めさせられないと思うんです。だから、私は私以外の誰かのために弾きます。私は……私は、師匠の為にピアノを弾きます」
その時、俺の中にあった1ピースだけ足りなかったパズルが埋まった。
そうだ。俺は、エルの為にピアノを弾きたいんだ。俺のピアノで、1人の音楽が救われるのなら、俺の腕を指を、使わないわけにはいかないだろ。
「師匠が私のピアノを聞いて、少しでも楽しく音楽を聴いてくれるように、私の音が綺麗な音だと思えるように弾きます」
「俺もしっかり聴くよ。エルの音を、本番にぶつける思いを全部聴かせて欲しい。俺も、エルの思いに全力で応える」
「なんか、くさいセリフで恥ずかしいです。でも、ありがとうございます。私、頑張ります」
「ああ。俺も頑張るよ」
太陽のような笑顔が俺の瞳に映し出された。そして、花びらは色とりどり舞った。
シャッターを切ったみたいに、その光景が俺の脳裏に強く焼き付いた。
「はいはい。臭いって分かってるなら2人とも言わないの。そういうの聞かされる身にもなってよね」
「ああ、ごめん」
「全く……」
「まあでも、ユーリも今日はありがとうな」
「ああ! そういうこと言うのやめてくれない? なんか調子狂うわね。さっさと帰るわよ」
ユーリはずんずんと馬車へ戻っていってしまった。ちょっと2人だけの雰囲気にしたのは失敗だったか。
それでも、ユーリの後ろ姿が少しだけ心踊っているように見えたのは気のせいじゃなかったと思う。
この日から、俺の演奏は全く違う音に変わっていた。
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