第27話 形見の供養

 母が諭したように、楽しみの中に幸せを求めても、それが無限であれば限りがない、続かないのだ。だったら苦しみの中に、幸せを求めた麻子は間違ってなかった。だから苦しみの中に幸せを求めなさい。そう言い聞かさせて耀子は英一を諭した。

 彼女をいつまでも待たすもんじゃないわよ、と耀子は表で待つ片瀬の車に、例の手提げ袋を持って乗った。

 ハンドルは娘が握り、隣に加納が収まった。二人の母親は後ろに座った。

 さあぶっ飛ばすわよ、と言いながら車を急発進させた。成美の軽快な運転は、親子の対面を済ませた加納の、わだかまりを吹っ切らせた。

「どう少しはシャキッとしてきた」

「成美さんが心配してくれてるのよ」

 耀子もしっかりしろと活を入れてくる。

「母さんも成美ちゃんも、俺はそんなにひ弱な男じゃない」

 なるほど、と成美は加納の憂いが失せた、前向きな表情を横目で確認して茶化した。

「ホウあたしもちゃん付けになったのね」

 これには照美も慎むように云うと、耀子は親の出る幕じゃないと笑って見ていた。

 照美はチャーターした漁船にこれから行くと連絡した。

「照美のお陰で助かったわ」

「うちの人も沖の船からよろしくって頼んでくれてるから大丈夫よ」

「旦那さんは二、三日帰ってこないんだねえ居れば頼めたのに」

「ムリムリ、旦那の乗る船は停泊していても会社の大型の船だから一人じゃあ動かせないから、昨日チャーターした一人乗りの漁船が丁度良いから、それにうちの人の知り合いでもあるからムリが利くから井久治さんの供養をしっかり出来るわよ」

 因縁のタイヤチェーンを積んだ車は漁港の岸壁へ向かって走らせた。  


 競りの終わった漁港内の市場は活気も失せていた。積み出しが終わった空いた駐車場に車を駐めて、みんな岸壁に向かった。若い二人と母親二人の歩幅で自然と距離が開いた。

耀子ようこ、以外と早く息子さんと話が付いたのね」

「あんな物で情緒が揺れるなんてやっぱりまだ子供なのよ」

「あなたに井久治さんは遠い過去の人でも父に抱かれた温もりさえ憶えていない人にはそれは手厳しいんじゃないの」

「世の中がもの凄いスピードで変わろうとしている時代にあれでは取り残されるわ」

「でも息子さんの会社は毎日パソコンと睨めっこして斬新な物を開発しているって成美から聞いていたけどそれで何か物足りないのかしら?」

「人の情けはいくらモニター画面と睨めっこしても正しい答えは出ないでしょう生身の人をもっと真剣に見られないと」

 それと故人が関わった物から醸し出されるものとは違う、異質でも形見代わりだと思う。この照美の考えは何も残さなかった耀子に非があると、でも伝える言葉が見つからない。

 一方で前を歩く二人は。

「どう少しはお母さんの思い入れが感じられたの」

「苦中に楽あり、死中に苦ありを知らずに実践しているみたい」

「何? それ?」

 忙中に閑あり、苦中に楽あり、死中に活あり、壷中に天あり、意中に人あり、腹中に書ありで陽明学者が中国の古文書から編纂した六中観の一節。心即理。

「ホ〜ウ、伊達に大学へ行ってないのね、でもそれって頭に入っても身に付いてないのよね加納さんはそれをお母さんは嘆いていると思う」

 当たってるだけに反論出来ない。中退の木下よりも学歴は良いのに、彼は橋の袂で菩提樹ならぬ、柳の下で悟りを拓いたらしい。それに引き替えこの俺は、学歴に拘ってこの有様なのだ。母がそれを嘆いていると聞かされれば尚更だった。

「母の嘆きはそれでどうなったの」

「押し負かされた」

「どっちに」

「母に」

 それを聴いた成美は甲高く笑った 

「あなたは母を乗り越えなければあたしとの逢瀬もままならぬと想わない?」

 なんだこれでまた振り出しに戻そうとしてもそうは行かない。頭隠して尻隠さず。一寸悪戯っぽく笑う小悪魔的な様に見えても、成美の顔は本心ではないようだ。ここで一気に反撃を試みる前に、岸壁に係留された照美の頼んだ小型漁船が見えた。

「なんだ、沖に出るのか」

「それが永久とわに残したい耀子おばさんの望みなの、傍に置きたいあなたの上を行ってるとは想わない?」 

 想う人しか寄れない場所へなのか、それで母は歪な偶像崇拝は認めないのか……。 


 昨日からの約束通り漁港に行くと、頼んだ漁船はもうスタンバイして待機していた。若狭湾でぐじ(甘鯛)を捕る二十トンほどの延縄の漁船だった。

 チャーター船の漁師は、ご主人とは昔同じ船に乗っていたそうだ。自宅で照美さんからそう聞いていた。船頭は日焼けした破顔で迎えてくれた。岸壁と並行して接舷された漁船は舫いに繋がれて、僅かな隙間を漂っていた。飛び乗れそうだが甲板が埠頭より低いから、舷側に足を掛けて船頭の手を借りて一人ずつ乗った。

 蓋をされた船倉ハッチに腰を掛けた。舫い紐を外して、漁師は狭い扉のない操舵室に着くと、軽快なエンジンを響かせて、船は突堤を抜けて沖へ出た。

 照美は、漁師から半島と複雑に入り組んだ若狭の地形を、操業海域の目印として憶えていると聞かされていた。丹後半島側と若狭湾の海岸線の二カ所を記憶しないと、正確な位置は割り出せ無いらしい。ひとつの目印では距離がどれだけ離れているか正確には解らないのだ。

 耀子は突堤を抜けてからどの場所にするか、周りの景色を注意深く見つめていた。山の稜線を眺めながら、目標を決めかねている内に入り江を離れると、一つ一つの山の頂がなだらかに見えて区別が付かなくなった。海岸は単調すぎて何もない海が広がっていた。その中で少し沖合にある、三つの大きな岩が海面から突き出ていた。草木もちょこっと生えて小さな島にも見えた。あれを目印にと思っても、角度に依って形は変化して憶えにくい。諦めて漁師の云う山を見つけても、もう一方の目印が見つからず、また一から出直していた。

 それがある時、さっきの三つの岩がふと一つに見えた。残りの二つが消えて、それを船主に尋ねた。

「角度によって島が重なり合い一つに見えるのでっせ」

「それは此処以外でも起こりますか?」

「三つが一緒に重なるのは此処しかありませんよ反対側に回っても手前の島が少し大きいですから段々に重なって三つに見えて決して一つには見えませんよ」

「じゃあここなら二カ所探さなくても一カ所だけ憶えていれば正確な位置がいつも解りますのね」

 防波堤を抜けて沖へ真っ直ぐに進み、三つの岩が重なるところを見つければ良かった。

「云われてみればそうですね奥さんはいい目印を見つけましたね」

「じゃあ巡礼スポットとして良い目印になるから此処にしましょう」

 耀子はここで船頭に船のエンジンを止めてもらった。風を切って走っていた船は舷側を叩く波と風の音に揺られて現場を漂い始めた。耀子は手提げ袋から鎖を出すように息子に促した。タイヤチェーンは途中で切れていた。

「母さんこれどうしたん ?」

「あたしとあの人の想いを引き離した物だから一番血糊が多いところを選んで切り取ったのよ、だからその残りよ」

 輪廻は六道を彷徨う。死者が次の生を受けるまで七日間彷徨い、これを七回繰り返して、四十九日であの世へ旅立つ。その七つだけ切り取った残りと説明した。これは彼女独特の死生観らしい。

「あたしが先ずほかすからあんたは残りをほかし」

 取り出した物を海に差し出し、握る力を徐々に抜いて往くと、その手を擦り抜けるように鎖は碇を落とすように音もなく海に消えていった。加納も母に続いて海に差し入れた。耀子は前後に合掌して鎖を入れた。片瀬親子は傍で見送った。

「これで天に召されましたのね」と成美は神妙にした。

「重たいからあの鎖は空でなく海の底へ落ちて行ったけど」 

 加納がボソッと呟いた。彼には一人阻害されて育った意識が強く、こう言う場面で無意識に全く冷やっとさす言葉を吐く癖があった。  

 ぶち壊さないでよと成美が屹度して睨んだ。余りにも形式に拘る母の肩の荷が下ればと思ったが、逆効果だったと加納は反省した。  

 引っ込めるぐらいなら最初から言うな、それがあなたの欠点だと指摘された。有難い成美の指摘だと肝に銘じた。

 母はただ笑って見てくれていた。この二十年間見せなかった本当の母が見せた笑顔だった。

「あなたのお父さんだった人はモーレツにあたしにアピールして物にしたのよ、同じ血が流れているのならみっともないことを見せては負けるわよ」

 これを片瀬親子は愁眉を解いて聞き流して加納を暖かく見守った。流石は耀子と感じた照美も、じゃあ何で二十年も沈黙していたのかと野次った。呪いが解けなかったのよと耀子は澄まして言い返した。

 耀子は船頭に戻ると宣言して、再びエンジンを始動した船は風を切って港へ戻って行った。 

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