第25話 母を追って丹後へ

 この二十年間にわたって、家庭を守り続けていた母が家を空けた。そして彼女はその日、丹後で騒いでいた。一方の実家では、食後に一同は何もない食卓を囲んで、沈痛な面持ちで見つめ合っていた。その中で英一の話がこじれると、母を擁護すべく沙織が経緯いきさつを説明した。これはこの家族にとって唯識問題だった。その責任の大半を導いたのは、他ならずその息子の英一だった。だが義父は一言も彼を批判せず、明日の息子の丹後行きを認めていた。母の動揺を避けて、もちろんこちらからは一報せず、向かう手筈てはずでいた。

 夜の明け切らぬ内に連絡の遅れを詫びながら成美は、久しぶりに会った旧知の二人を見て、戸惑いながら母の所在を告げた。これで彼は探しに行くのでなく、迎えに行く立場に変わった。それでも家族は、母に対する表面上の批判はなかった。その顔からも認められなかった。これは彼に気を落ち着かせた。

 出掛けには「耀子ようこの過去は知らなくても良い、何がそうさせたかも手探りしなくても良い、生きた証しを見ればそれでその人が見えてくるから何も訊くな」と送り出す息子に義父は初めて自分の意見を伝えた。

 義父とは長い時間の中で、この時に初めて親心の一面を覗けて安堵した。もう一つは沙織が、我が家の家庭の味を母からしっかり継承していた。沙織も伊達に摘まみ食いをしていないと感心した。

 朝七時半の特急電車に乗って九時半頃に着いた。早朝の観光地なのに平日でも人が多いのは、それだけ働く人が多いのだろう。さすがは名勝地だけあった。

 彼は片瀬成美から母の逗留を知ると、透かさず一番の特急電車で丹後へ向かうと連絡していた。

 加納は駅からタクシーで行く予定だった。しかし改札口には頼みもしないのに既に、成美が迎えに来ていた。久しぶりに呑み明かす母を気遣って連絡が遅れた。その気後れに彼女自身も相当気になり、苦心してその穴埋めに来たようだ。


成美は母が昨日の午後には来ていたのを知っていながら、独身時代に花を咲かせた二人を見ていると連絡し辛かった。だからそのつもりで対面してほしいと言われた。

「そのつもりで家を出たし家族も穏便に図るつもりだから心配はないよ」

「直ぐに実家へ帰るように諭すはずの内のお母さんが一緒になって歓迎するからあなたはそれどころじゃあなくてヒヤヒヤものだけど旦那さんもそうなのね」

 家族は心配こそすれ怒っていないと云うと、どうやら成美は一息吐いて話題を変えた。

「お母さんの印象だけどこの前聞かされた人と随分と違うわね」

 どう違うのか聞きながら加納は彼女の車に乗った。

 彼女は車を静かに動かした。

「出だしがスムーズだねぇ。今日はあの従兄弟の波多野遼次さんもこんな感じで運転されるので一寸気になったよ」

「そうかしらこの前もそうだったけど、多分内の母は昔から荒っぽい運転だから気になられたんでしょう」

「あの日はお母さん運転してたっけ」

「してないわよでもそんなせわしない雰囲気が伝わっていたから」

「それでさっきの話だけど内の母親はどう違ってたんだろう」

 この前のあなたの話と全然違うからびっくりした。第一によく喋ってかなりユーモアのセンスがあったと、軽やかなハンドル捌きとマッチするように語っている。

「二十年も猫被っていたって云うことはないだろう」

「あのお母さんなら解らないわよなんせ内のお母さんと家で一緒になってはしゃいでいたもんね妹とあたしは早々に引き揚げたけど」

 そんな馬鹿なと何度か眉唾かと否定しても、成美の耀子ようこを擁護する話は尽きなかった。母への認識の変化に戸惑った。

 母はこの二十年間家族のために自由を捨てたのか。本当の自由人は社会と交わりを避けて好きなように暮らす。それが亡父への愛から社会と関わりを持ち、不自由な暮らしを強いられたのか。

「そう言えばお父さんは海の上でたまに帰ってもすぐまた船に乗るしあたしと妹で家事はこなしているから内のお母さんの自由度はかなり高いと思う」

 ーー昨日は夕食が終わると、あたし達は二階の部屋へ行ったけれど、お母さん達は話が弾んで、昔のように夜遅くまで気儘に起きていたらしい。

「いつも家では家事が終われば早く寝ていた母が昨日は相当羽目を外していたってにわかにはピンと来ないなあ」

「そのせいか昨日は自宅に着いたあのママさんたちは平日なのにまだ寝ているの。だからそっと抜け出してきたから多分まだ寝てるかもしれない」


 どうやら二人は昨晩は遅くまで賑やかにやっていたらしい。

 朝起きたらテーブルには珍しく食べ残しと缶ビールの空き缶が残っていたらしい。食事が済むと母はいつも食卓を磨いていると云っても過言ではなく一度も家事をおろそかにしなかった母がそれはあり得ないと一瞬思った。

「今そう云われても信じられない」

「そうなのそれじゃああたしのお母さんとは正反対の生活を強いられてたの?」

「おいおい、そんな人聞きの悪い、それじゃ内の母は家政婦じゃあないんだよ」

「それじゃあうちの家で二十年分の憂さを晴らしたのかしら」

「そっちの方が余計にたちが悪い!」

 つい熱(いき)り立ったが、母はいったいそんな風にただ年老いて往っていくなんて……。

「ねえ昨日のあなたのお母さんを見ていると、今の旦那さんってなんなのと思えてきたのよ」

「初めてそんなバッカ騒ぎする母親を知って今俺も同じことを考えてた」

「でもこの事はお母さんに云っちゃダメよな〜んにも知らないって顔していなけゃあダメよ」

 成美が言うには耀子さんがあれ程に羽目を外す裏には家族には見られたくないものがあった。それは英一さんあなたを同じ家族として受け容れられてもらうその為に、あの人は新しい人生を影のように尽くしたのよ。それをあなたは母の気持ち子知らずに、あんな物を持ち帰るから、それこそ戦前に投下されて地中に長い間埋もれていた不発弾を持ち帰ったようなもの。その鎖が燃え尽きた恋に、もう一度火を点けたらしいの、それで二人は昔の思い出話に花を咲かせていた。 

「そのやり取りを妹と二人で聞いてるうちにホロっときたのよ」

 懐かしさの余り照美と耀子は胸襟を開いて話し合っていた。それは二十年以上の年月を隔ててもつい昨日のように目を輝かせて、酒の力も無くあの昭和の想い出に浸っている。そこに懐かしさ以上の哀しみも語られていた。二人が共通する悲しみとはあのタイヤチェーンに行き着く。そこからはしんみりとして酒のピッチも上がっていった。


 ーーあの日は吹き荒れていたが、冬にはまだ早かったから、いつもの様に見送った。発達した低気圧が通り過ぎて、少しずつ寒くなった。それでも丹後は氷雨だった。これじゃあ丹波の山は雪になっても、そう積もらないと思っていた。実際に積雪は少なかったが、日陰には雪の吹き溜まりがかなり有り、あの人はそこにタイヤチェーンもなく突っ込んでしまった。自宅の陽溜まりの中で、このニュースを聞いて寒気が襲った。直ぐに照美が気をしっかり持つように電話で励ましてくれた。あれがどれだけ心強く響いたかを耀子は今も心に深く留めていた。

「なるほど母にとっては心強い友なんだ、だからあのタイヤチェーンを持ってここへ真っ直ぐ飛んで来たんだ」

 武力のある者は力で伸し上がる、力のないものは駆け引きで伸し上がるが、あなたはどちらも備わっていない。だからこんな物を後生大事に持ち帰ってと母から言われた。

「言い得ているわね」

「そうか」加納は一寸拗ねた。

「そうよ第一あなたは苦労したようだけどあたしに言わすとその苦労が身に付いてないのよ、まだ大学を中退した木下さんの方が身に着いてる、あなたは世間を深く知ろうと努力しなかった。お母さんはそれを嘆いているのよ」

 そのお母さんは短いながらも生涯最大の恋をした。その戦いに燃え尽きても尚も激しいほむらを上げ、その執念の片鱗を夕べは見せてもらった。内のお母さんだとそうは行かなかった。耀子ようこさんだからこそ、燻り続けるあの人を奮い立たせた。だから男は女によって磨かれる、と云う持論を夕べは二人で話し合った。

「あなたは好いお母さんに恵まれたことを胸に秘めて迎えてあげて欲しいの」

 ハンドルを持つ成美の横顔が、この時ほど愛おしく見えた。

「亡き父が想いを寄せたように、君にも母に似たものが備わっているような気がして仕方がないんだけど……」

 云われて成美は加納の強い視線を感じて、直ぐに車を側道に止めて真面に見返した。

「それって交際宣言、随分と回りくどい言い方をするのね」

「気に入らないですか?」

「あなたがそうやって私に返事に詰まらせようと謂うところが」

 気に入りませんか、と間髪を入れずに彼女の語尾を繋いだ。

 呆れて成美は「特定の人への感情は本人には伝えませんそんなもん知るもんですか」と澄ましながらも胸の内ではバカ! 察しろ! 鈍感! と叫んで車を今度は勢いよく走らせた。急発進に加納は頭を座席枕に強く打ち沈めながも彼女の目を見た。一度刺さったら離れられない木下の云う真っ直ぐな矢絣やがすりの目を……。





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