第23話 母・耀子


 耀子はいつも通り片付けを終えると、英一の部屋に有る例の箱が気になり、見つめる内に照美に電話して中の鎖の経緯いきさつを訊いた。そしていつもより念入りに化粧を済ませ、着替えて家を出た。

 JR二条駅から天橋立へ向かう特急列車に乗った。動き出すと直ぐ嵯峨駅を通過した。トンネルを抜けて次の亀岡駅を過ぎると、車窓は丹波山地の山間を走り続ける。所々の開けた場所には、遠くの見飽きた山と入れ替わり田園風景を映し出してくれた。この単調な景色が遙か昔へといざなってくれた。 

 その一角は着物を扱う室町の問屋街だった。四階建てビルの一階の受付には二人の若い女子社員が繁忙時間を除いて交代で受付をしていた。その男は二人で勤務していたときにやって来た。実に愛想が良くて人懐っこくよく喋る人だったが時たま見せる心寂うらさびしい表情が気になった。一緒になるとその寂しさが全面に現れてう〜ん騙されたと思ってもそれが憎めないほどのお人好しだった。しゃあない、この人を盛り立てようと彼の実家に移り住んだ。そこがまた都会とはかけ離れた閉鎖社会でそれを打破しょうとがむしゃらに燃えた結果不幸を招き入れた。それから一切世間に背を向けて家族一筋でやって来た物を、息子が長年燻り続けた下火を燃え上がらせてしまった。まるで何かの物のに憑かれた様にただ丹後に向けて列車はひたすら走った。

 二十年以上前に式を挙げた翌日に、二人で行った同じ線路の上を、あれ以来耀子は一人で向かっていた。何が彼女をここまで二十年以上も張り詰めた糸を切らして思い詰めたのか。女の幸せは築いた家族にあるのか、それとも青春の全てを掛けて恋した相手に捧げた愛にあるのか。彼女はその愛の結晶がもたらした物を天秤に掛けた結果、こうして丹後行きの列車に身を委ねていた。もう二度と往くまいと誓った旅路に、古都なら一年で一番美しい貴族の祭りである葵祭が行われる皐月さつきの風を受けて、列車は北へ北へと丹波路の山並みを爆走した。

「英一へ届いた遺産相続権をあの子が放棄すれば何もこんな思い詰めた心を北へ走らせることはなかったのに」

 耀子は馳走する列車の窓から吐き消すように呟いた。

 あの日は晴れていたが北風がやけに吹き荒ぶ天気だった。それでも良人は反物を積んで若狭から京の室町へ廻る予定を立てていた。まだ冬装備にするには早過ぎる季節だった。それでも貴方は用意周到に早くからタイヤチェーンを積んでいた。あの人を見送った後から日本海には北からの季節風がいつもより早く吹き荒れた。海沿いは別にして丹波山地は雪になるかも知れなかった。あの人は念には念を入れる人だから案ずることはなかった。でもその日は帰りの遅いあの人を待つあたしに悲報が舞い込んできた。全てはあの人の人智の及ばない所で物事が起こっていたと後で知っても誰も警察さえも動いてくれなかった。何て云う土地なのと子供を強引に引き留める声を振り払ってもう来るまいと飛び出した。なのにその子にまた呼び戻されるなんて何か因縁めいて、いやあの人が呼んでいるのよと思わずこの汽車に乗せられてしまった。

「あなたそうなんでしょう」

 耀子は冥界からの叫びに引き寄せられるようにただ丹波越えをする。それは強固な意志に基づく物なのか、単なる昔の面影に引き摺られているだけなのか。車窓に映る濃緑にすべての瞑想が吸い込まれて無心にただ線路の軋みに身を任せていた。

「自分の考え以外は何も考えなくていいこんな日々が訪れるなんて、昔に帰れるなんて……」

 中学の時には決まって野外の写生大会はいつも周りは緑に覆われていた。その中で三原色を使いなさいと先生は言っていたけれど、どう考えても青の出番は零れ陽から覗く空しか無かった。がそうじゃないと他の使い方を模索していると変わった緑の世界が描けた。お陰で誰も描けなかった凄い風景画が出来て入選した。あたしの性格が前向きに変わりだしたのはそれからかしら。その頂点に達した頃に昔のあたしと似た井久治と出会って彼の改革に乗り出し脱皮させた。この二人三脚で人生を乗り切れる自信が着いた矢先にあの人は逝って仕舞った。


 列車は天橋立駅に着いて照美が赤い軽自動車で迎えに来てくれた。耀子はパンツルックにブラウスでショルダーバッグと手には自棄に重そうな手提げ袋を持っていた。何なのそれって照美に聞かれて「息子が持って帰った手土産。それよりなんか派手な色ね」

「娘の車なのよ」

「あっ、その娘さんには息子がお世話になったわねお礼を言っとくわ」

「どういたしましてそれでとうとうあなたがやって来たのね」

 町の賑わいは数分で消えてしまい荒涼たる海岸と山裾を削った一本道になった。

「昔と変わってないのね、ちゅうか変わりようが無いわねそんなところによく居るわね」

「仕方ないわ、漁師と一緒になったのですもの」

「いい人?」

「いいも悪いも子供だけ作ってほとんど家に居ないんだもん」

「海の上か。毎日定刻に帰ってくる人よりそれも良いわね」

「なんか疲れたの気怠けだるく聞こえる」

「そう?」海を見ながら耀子は遠い彼方へ投げるように応える。

道幸みちゆきさんは居るかしら?」

「工場でいつも織ってるから多分居るでしょう、やっぱり乗り込むの」

「その前に墓参りに行きたいけど寄ってくれる?」

 照美は手提げ袋の中身を察しているのか、献花以外は墓地には相応しくないわと諫めた。もう何十年とご無沙汰していた彼の墓前に捧げるつもりで居たけれど、変な趣味と思われるのは生に合わない。

「あんな物を持ち帰ってあいつはいつまでメソメソしてるんだ!」

「耀子、なに言ってんのあの小さかった子が立派に大きくなって井久治さんにそれを報告するだけでいいんじゃないの」

「じゃああれはどうするの」と顎で後ろの荷物を示し「息子にあんな物を持たして怒鳴り込んでやる」と意気込む耀子ようこを諫めた。後でじんわり効く方法があると照美は言った。

 どうしてもと言うなら鍛冶屋で鎖の一部だけにして祖父とあの人が眠る場所へそっと納骨すればと勧められた。照美が知り合いの個人経営の鉄工所を兼ねた工場で、血糊がある場所を選んでこの鎖が輪廻になると言って切ってもらった。七つだけ繋がった鎖と残りを持って墓地へ向かった。

「あそこは自動車の整備もやっていてこの車も面倒見て貰ってるの」

「道理で親切だと思った。最初に提案されたときは変に見られると尻込みしたけれど、これで安心したわ」

 墓地では墓石をずらして遺骨の横に七つ繋がった鎖を入れ閉めて墓石に献花して黙祷した。

「これで気分がすぐれた。次にこの墓石に納骨するときはいつになるかしら」

「多分奥さんが体調が良くないからその時に道幸さんが見つけるでしょうねそれで残りはどうするの」

「さあ、それは波多野に会ってから考えるわ」

 

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