第22話 母の失踪

 話を急かす加納に、木下はそうがっつくな、と注文の昼食料理が揃うと箸を付け始めた。気を揉ましたのはどっちだと言わんばかりに加納は睨んだが、木下はお構いなく咀嚼そしゃくしている。  

「俺の話を訊く前にあの箱をどうしたかそれが大きな問題になるからなあ」

 こいつは朝飯を喰ったのかと見ているとようやく箸を運ぶスピードが落ちた。

「それでお母さんは箱を開けたのか」

 加納は矛先を躱されたが痛い所を突かれて渋々応じた。

「開けたが……」

「じゃあ中を見たのだろう」

「多分なあ」

「何だそりゃあ」

「開けたことは開けたが直ぐ閉めたんだ」

「ハッキリ見なかったのか?」

「多分何か判ったと思う、それにお祖父さんの血糊が付いてたと言えば直ぐにほかすように言われて忌み嫌われた以上は中身を悟ったと思う」

「それでどうするんだあの因縁の入った鎖を」

「ほかせると思うか、父の無念が染み付いたあの鎖をそんな冥加みょうがの悪いことが出来るか? 例えば震災で被災を受けた物を遺すように残せばいい。要は俺に取っては遺品だ。そうだろう」

「お前しか知らんもんを震災と同等に扱うなよ」

「確かにこの災難にはほんの一部の人間しか関わっていない。その存在感を示す唯一の父が居なければ俺は生まれてないんだ」

 彼が更に強調した瞬間に水を差すように携帯のチャイムが鳴った。彼は面倒くさそうに取ったが直ぐに頬が崩れた。木下が怪訝な顔つきになった。送話口を押さえて片瀬からだと伝えて話し始めた。  

「ほおーデートの誘いか羨ましい」

 どうかなあと満更でもなさそうに受けたが、次第に顔色が深刻になっていく。

 電話を切ってからどうしたと聞く。

 耀子ようこさんから母に箱の中身を訊かれて、あなたから聞いたまま伝えたけれどその後、耀子さんがどうしたのかと母が気にしていると云う電話だった。母は鎖の謂われを片瀬に確認した様だった。

「処分しろと言っていた彼女が何で教えたんだ」

「教えたのはお母さんだ。最初は受け流すつもりだっがひつこく追求されて娘から聞いたまま伝えたそうだ」

「やばいなあ、手遅れかもしれんが今日帰ったら直ぐ処分しろ」

「どこへ持って行けばいいんだ」

「取り敢えずは持ち出して会社の着替え室で自分のロッカーに入れておけ」

「やはりほかさんとあかんか」

「あかんやろう」

「昔の女はこんな場合どうするんだろう」

「こんな場合とは?」

 その話は切り上げてくれと云わんばかりに惚けてまどろっこしくて聞き直してきたが加納は止めなかった。

「だからあの箱の謂われを知ったら昔の女ならどうしたかだよ」

「そうだなあ向こうの親族へ怒鳴り込みに行きたいところだが自重してくれるだろう。まだ若いし俺への未練がたっぷり残っているのならだが、今は心燃やした人が居ないお前のお母さんの場合は誰も止められないだろうなあ」

 要するにそれが愛情なんだと木下は言いたげだった。母が亡父の面影を何処まで追い求めるかに依って決まると言った。だから車は暴走する前に止めろ、あのタイヤチェーンは今すぐ会社のロッカーに一旦、移してからどうするか考えろと彼は説教した。


 職場に戻った二人はまたパソコンの画面と睨めっこした。夕方の退社前に今度は沙織から電話が有った。出ると直ぐに要領を得ない妹の声だけがやたら長々と続いた。それで「沙織どうした」と勢い余って強い言葉が飛び出した。すると要約沙織は喋り始めた。

「家にお母さんがまだ帰って来ない。買い物に出掛けた様子もないの」

 ちゃんと確かめたのか、お前何でも母さん任せで家の中がどう違うか分かるのかと並べ立てても間違いないと言うから二階のあの箱が気になった。

「沙織、お前が昨日古めかしい物と云ったそれが二階の俺の部屋に有るか直ぐに確認しろ」

 それとど云う関係なのか御託を並べるから苛立って怒鳴ると沙織は携帯を持ったまま二階へ上がった。

「無いわよ何処に置いたの?」

「ベッドの直ぐ横だ」

「何処にも無い」

「解った真っ直ぐ帰る」と電話を切った。隣で様子を見ていた木下もパソコンが知らぬ間にスリープ状態になっていた。

「手遅れか」

「まだ解らんが、あっ、データー保存にしたか」

 お前はそれどころではないだろうと木下は彼の気遣いを諫めた。それにはっと気付いたのか、加納は自分の落ち度を否定するので無く躊躇しているのだ。だからこれでは気休めにもならない。それを察して木下は問うた。  

「どうする」

「今晩、帰ってこなければ実家に連絡して明日、早朝に丹後へ行く」

 こうならないと祈っても自業自得と言って仕舞えばそれまでだが、それでも加納は亡父の形見を処分しきれなかった。

「解った。その前に実家に帰ったならいいが。まあ行くなら朝、電話くれ、俺から会社へ適当に理由を付けて休みの報告しておく、あッお前、車、乗れないんだなあ緊急なら電話しろ何とかしてやる」

 木下は夫への愛が身勝手な暴走を止められると言う。義父にその力は存在しないだろうと加納は思った。その血を唯一受け継ぐのは加納英一しか居ないのか。だが母は自分を一番粗略に扱っていると英一は捉えていた。丹後の旅では英一だけは過去を知られたくなかったと推測した。それは母が守った沈黙の一部を知った彼だから言えるものだった。母がもし失踪したとするなら、そこから母の行動に思いを寄せてみた。この試みは当たらないに超したことはなかった。

 直ぐに退社時間になった。木下はまだやり残しがあって暫く待てばこれで終わるけれど待てねえよなあ、それを聞いて加納は急ぎ会社を出た。

 家に急ぎながら考えた。果たして何処へ行ったのだろう。母は今まで食料や必需品の買い出しでこの時間まで家を空けた事がなかった。実家も近いが殆ど夫への気遣いもあって帰った事もなかった。昔からの友人で有る菊池麻子とも滅多に会っていなかった。こうして母の日常を顧みれば家族の為に人生をふいにしていたのか、それとも家族が健康に育つのが生きがいだったんだろうか。何の見返りもなくやり過ごしてきたスポットの当たらなかった母の生き方に彼を含めて家族はどう見ているのだろう。

 ここでは母の第一子である英一を除く加納家になんの変化もなかった。がもし母が失踪すればその重責は英一に掛かってくる、家族に不和を持ち込むのならやはりあれば持ち帰るべきではなかったのか。全ては母に掛かっていたが彼は何処まで母を理解していたかこれでハッキリ解明されるかも知れない。これらの想念が脳裏に渦巻く中で帰宅した。義父はまだ帰っていないし、謹治きんじは補欠だが夏の予選大会に向けて部活で頑張っていた。妹の沙織だけが先に帰っていた。

「お母さんはまだ帰ってないのよこんなことは初めて」

 そこで迎えてくれた沙織のひと言で彼は絶望の淵に叩き落とされた。取り敢えず真っ先に二階へ飛んで上がり確認して階下に降りた。気の済んだ兄を確認するように沙織は言った。

「ねえ、さっき電話で訊いて来た物って何なの、あの箱の中には一体なにが入っていたのよ!」

 まるで不幸を連れ帰ったように沙織は兄を見て捲し立てた。尋常でない澱んだ空気が漂う家内を見回すと気分が暗くなり誰のせいかと身に詰まされた。

「あれはこの家族とは無関係なんだ俺の問題だ」

「じゃあ何故お母さんはあの箱を持って出たまま帰って来ないのよ、お母さんはお兄さん一人のお母さんじゃないのよ家族みんなのお母さんなのよ。だからお兄さんハッキリしてよ」

 沙織の呼びかけに目が覚めた。そうだ俺一人の母ではないこの家族を支える人なのに、俺はみんなの信望を元から崩そうとしているのか。この家族にとって亡父は全く関係がない。ただ母を迷わせる、いや災いの原因を持ち帰った俺に有った。

 沙織は落ち込む兄を見て気を取り直して夕食の支度を始めた。手伝おうとする兄に「今のお兄さんを見ていると自分の手を間違って切りそうだから危なっかしくて見ていられない」と厄介払いされてしまった。彼は用があれば呼んでくれと自室に引き揚げた。

 彼は机への前に座り、波多野からの一通の手紙から始まった自分探しの思索にふけた。

 母はいつから夢を見なくなったのだろう。いや途切れているだけでまた続きを今日から見るのだろうか。遠い昔の夢の続きを、その為にあのタイヤチェーンが入った箱を持ち出したのだ。あのタイヤチェーンは愛する人を奈落の底へ落ちかけたのを止めてくれるはずだった。奈落の底へ導いた祖父の血糊が付いた物を母は何処へ持って行くつもりなのだ。


 

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