第21話 母の苦悩

 母は人目を惹くほどの美人と云う顔でもなかった。だがその切れ長の目から醸し出す立ち居振る舞いが母に近付く人の気を惹いた。更に話し出すと穏やかで知的な雰囲気を作り出す韻律の整った言葉の使い方にあった。それが片瀬照美から聞かされた母の面影だが今はその片鱗すら見出せなかった。

 これで元の母に戻れるのかとあの小箱を大事に抱えて帰って来た。別れた女こそ理想だったと主張する木下なら仕方ないが、恋心を燻させる成美まで反対したのが加納には心を痛めた。彼女は何も知らないがお母さんの照美さんはなんといっても父の幼馴染みだった。その娘が言うことは無視して良いとは言いがたかった。 

 すべての出来事は加納の生まれる前から二歳頃までに起こっていた。彼の記憶の外にあり母が沈黙を守るのなら関係者の記憶に頼らなければならない。逸れも真実の言葉で伝えてくれる人でなければならなかった。いや限定する必要があったが黙して語らない母が彼には心苦しかった。その母親を前に家族は揃って対面した。まず義父が労ってくれて沙織と謹治も義父に倣ったが、妹は更に愛想が良くそれが何の合図かも解った。

 バックから土産を出した折に別にひときわ目を惹いたのが手提げの工具箱のような物だった。

「お兄さん何それ?」

「いやこれは……」

 と言葉を濁して直ぐに部屋に仕舞い戻って来た。

 食卓に着いた英一に「何か古めかしい妙な物を買ってきたのね」沙織が尋ねた。

「買ったのでなく貰ったんだ」

「誰に」

「伯父さんに……」

 と言いかけて母の顔色を窺った。家族には判らず、彼にしか読み取れない母を診て動揺した。義父もほんの一瞬だが母を垣間見た。だがそこに何の違和感も見付けられずホット一息付けた。それを裏付ける様に義父は少し口角を広げ向こうの様子を聞いてきた。社会へ順調にその第一歩を踏み出した義息子を満足げに見る親の姿を見せられた。すべてが和やかな内に食事が終わり部屋に引き揚げた。

 机とベッド以外は何もないその狭い空間に無造作に置かれた例の手提げ箱を、ただずっと眺めても一向にどんな父だったのか浮かんでこなかった。無理もない母は一切、父の写真すらを残していなかった。

 椅子に座り頬杖を突いてもふと片肘にしても置かれた箱は父の形見ではなかった。これは祖父が父に許しを請うた品物なのだ。今の加納には父の思い出は何もなく、温もりさえも知らないから浮かぶはずもなかった。

 突然何の前触れもなくドアが開いた。我に返り振り向けばそこに母がいた。彼は椅子を回転させて母の方へ向けた。母はそのまま箱の前へ行き「それはなんなの」と訊いた。

「開けて見れば解る」

 彼の脳裏には母の反応より、まだ見ぬ父の存在をそこに視ていた。

 母は黙ってベットに座ると箱を膝の上に置いて二つのノブを外して蓋を開けて直ぐ閉めた。

「これは何なの?」

 ちょっと間を置いてから「まさかあれじゃないでしょうね」と今度は刺の有る言い方で聞き直してきた。これでも親子かと彼は耳を疑った。

「あれです」

 この一言を聞き終わるまでに母は箱を畳に投げ下ろした。箱の中で重なり合う金属が擦れるような鈍い音がした。

「何でそんな物を持って帰って来るのよ ! 」

「だってお父さんの無念が詰まってる物だからでしょう」

「そんな物お前には関係ない !」

「いいや、僕は母さんの子であると同時に亡くなった父さんの子でも有るんじゃないですか」

「何も解っていないくせによくそんなことが言えるわね」

「でも色々聞かされた」

「噂話ばかり耳に入れてきたんでしょう」

「だって母さん何も喋らないんだもんどうせって言うの」

「さっき言ったけどあんたには関係ないのよそれよりこんな気味の悪い物を良くも持ち帰ったものね」

「気味悪いかどうかしっかり見てないじゃないか」

「ひと目で分かるわよ」

「じゃあ血糊も見たって言うのかい」

「誰の」

「お祖父さんの」

「なら尚更気味が悪いったらありゃしないわよ。サッサと処分しなさい」そう言って母は部屋を出た

 木下の言ったとおりだった。と云うことはあいつの女だってお袋と同じってことか、それが滅多に居ない女ってやつなんて。


 翌朝、母は余計なことは一言も喋らずに送り出された。出社するとさっそく木下がどうだったとあの鎖の印象を訊いて来た。

「君の忠告を無視したむくいが来たようだ」

 加納はそれでも分からず屋は母の方だと言わんばかりに自説を曲げずにいた。これには木下も世間に擦れていない彼を無下に扱わず距離を保った。  

「いや君は真実を母親に問うた。しかしその答えはまだ聞かされていないし知る権利はある。それが本当の父親に関する事実を知る権利だから、それを知るまで君はお母さんと向き合わなければならない。まあその話はいつもの店で話そう」

 一日の仕事を前にして二人は机に着いて目の前のパソコンを睨み始めた。

 休憩時間と共にみんなは電源を切り、デスクを離れだした。その社員たちの流れはエレベーターへと向かう。木下もいつも通り昼食に加納を伴ってビルの五階フロアーからエレベーターに乗った。

 昨日はレンタカーを返却した後に木下は夕食に誘ったが、彼は直ぐに夕飯に間に合うように帰ると自宅に電話を入れた。

「昨日直ぐに帰ったのは俺たちの忠告が気になったんだろう」

 曖昧な返事をする加納に「図星だろう」だてに女道楽をやっていないとニヤリと笑った。

 通りに出ると社員はみんな早々に馴染みの店へ散ってゆく。二人もいつもの店へ流れて行った。

「お前はともかく何で片瀬さんまで同調したんだろう」

「多分、俺の推測だがお前のお父さんと幼馴染みだった照美さんの影響だろう」

「それだけでお袋が判るか」

「そりゃあお前のお父さんの恋仇、いやライバルともなりゃあ色々と相手はどんな女か研究するだろうその結果が好敵手に成り得たんだから、そこへ往くと二十年も傍に居ながらにしてまったく進歩してねぇなあ」

 加納が弁明する前に「義父と母との板挟みの気苦労でそれどころじゃなかったのだろうが」って言い足してくれた。

 そこまで察しが付けば何も言う事はなかった。

「そこまで読めればどうして昔の女に別れの予感がなかったんだ」

「それは前にも言っただろう俺が留守の間にとんでもない事をしでかしてくれたんだからなあ」

「予兆はなかったのか」

「まあなあ、出会った頃の初々しさは消えたがそんな物いつまでも尾を引いてりゃあ先へ進まないだろう。これから恋の駆け引きにのめり込むお前に言っても判らないのと同じ様に母親でも女心てっ云うものは本当の恋するときはいつも初心うぶなんだから要するに邪心が有る恋は純粋の恋じゃないんだ」

「父との恋は邪心がなくて義父との結婚には邪心が有ったと云うのか」

「お前の母親を知らない俺にそこまでハッキリと言える訳がないだろう」

 まあそれはそうだろうなあ、木下のは推測に過ぎない。

 二人は店に入るとテーブル席に座り、いつものおばさんが注文を取った。頭頂部の生え際に白いものが僅かに見えたおばさんは、くわえたばこで新聞を読むシェフに注文書を見せると、コンロに点火してフライパンを載せ手際よく具材を掘り込み出した。

 長年連れ添い、年輪を重ねた夫婦の趣を感じさすこの店が木下には何とも言えない癒やしを憶える。

「あの夫婦にも四十年以上前には何も要らないという二人だけの世界を成就させられたから今日が有ると調理場に居るシェフを見比べるたびに俺は勝手に思い浮かべているが半年以上通い詰めると満更でもないと思えてきたよ」

 おばさんの後ろ姿を見送り、調理場で注文を伝える夫婦のやり取りを見ると木下の言ったことに頷けそうだった。

「木下、中退したお前と違って俺は大学は出たがこの四年間いったい何をしてたんだろう、親の庇護で行った高校までの人間形成とは違うものをバイトに明け暮れた中で身に着けたつもりで居たが……」

「幸か不幸か、お義父さんが今の家庭で義息子にそう云う心配を掛けまいと努力された結果だから何も気にすることはない、俺みたいに何のわだかまりもない言いたい放題の家庭なら世間で通用しないと早く悟れた。その違いだと思えばいいんだ。別に恥ではないもっと世間慣れしていない奴は五万と居るからなあそいつらの方がたちが悪い。あとは思い通りならない人生に自棄やけを起こす奴だ。そういう奴は純粋な恋に陥らないだろう」

「僕は相手次第だと思う、理想を求める者の恋は突き詰めると無い物ねだりじゃないのかなあ」

「それは愚直な人間であって、恋はもっと高尚なものだ。理屈で成就する恋に愛はない」

 百人居れば百通りの愛があり、木下の女性論は過去の女に対する彼の美学に過ぎない。実際に焦がれるほどの対象がない今は第三者の恋愛談義であって、そんな悠長には言っていられないだろう。ここの夫婦像はそれくらいにして、母親の怒りが木下の云う稀な女と同類に扱う根本を訊きたいと迫った。

 

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