第20話 舞鶴にて

 舞鶴へ行く車の後部座席には例の長細い手提げの工具箱が置かれていた。

「オイ、お前これを本当に母親に見せるのか」

 急に何を言い出すのかと後ろを見れば隣の箱を顎でしゃくっていた。

「何で今更念を押すのだ。そのために持って帰るんだろう」

 木下に喋っていたが隣で前を見たままハンドルをしっかり操作している成美も「あたしも木下さんの意見に賛成」と云ってきた。

 なにして二人ともそんなことを言うのだろうと思った。

「俺の別れた女ならそんな物を見たくもないと思ったからだ」

「お前の女とお袋を同等に扱うなよ」

 昨日見せてもらった写真では、特別に気を惹く女ではなかった。それだけ乏しい表情の写真だったようだ。最も木下自身も写真は上手くなかった。だからいつも木下は補足説明をしていた。

 ーー人を惹き付ける魅力は顔や形でなく、彼女しかない独特の柔らかな口調と、謎めいた知的な雰囲気、それが滅多にない美人の要素だと木下は言っていた。

「あたしも、どっちも滅多に居ない人のような気がする」

 隣で成美も言うから、運転に集中して欲しいと注意した。すると大丈夫よと笑って答えていた。

「片瀬さんもけっこう世間で揉まれているんですね」

「エ! どうして」と驚いて一瞬ルームミラーで木下を確認していた。

「そういう話は向こうに着いてからにすればどうだ。今は運転に集中してもらった方がいいだろう」

「加納さんって心配性なんですのね」

 そこへ急に飛び出してきた自転車を躱して、ひゃっとさせられてから、成美は舞鶴に着くまでは街の雰囲気や店の話題に切り替えた。


 舞鶴へはユネスコ世界記憶遺産に登録された引き上げ記念館を訪ねるために行った。舞鶴湾は幅一キロほどの水路で外海から隔離された内海の中に、複雑に入れ組むリアス式海岸で多くの入り江がある箱庭のような港だった。その一角に緑で囲まれた中に引き上げ記念館があった。ここは十三年にわたって六十六万のシベリア抑留者と一万六千人以上の遺骨を向かい入れた。

 ここまで来たのだからユネスコの登録遺産を見ないで帰るわけには行かないと木下の希望でやって来た。引き上げ記念館と言っても南方や中国大陸でなくシベリア抑留からの引き上げ者の記録遺産だった。中は抑留者の遺品やシベリアで苦しい極寒強制労働の絵や、精巧な人形を使った粗末な丸太小屋での生活が再現されていた。

 あの山林で加納が可怪おかしなことを言い出したから、興味があるかとここへ誘ってみたがあまり関心がないのに木下はガッカリしたようだ。片瀬も舞鶴は素通りして港は初めてらしい。

「サッサと放棄すればって言ったあの山林を譲り受けたのね」

「昨日案内してもらいましたが、山頂からの眺めは最高でしたよ。海側の斜面を切り開いてフィールドアスレチックの様な遊戯施設を作ればあの景色を見ながら遊べて十分堪能出来ますよ、片瀬さんは行かれました?」

「行ってない。ここを離れたいの。ねえ加納さん、京都でもいいから小綺麗な部屋を探してもらえないかしら」

「学校はどうするんですか」

「同じ物が有るから転校させてもらうけど」

 粗末な食べ物のレプリカを囲んで鋭い目をした抑留者達の人形が一グラムでも公平に分けるシーンが再現されていた。それを木下はじっと眺めていた。

「卒業まで待ったらどうですか」

「だって加納さんの妹さんもシェアハウスで共同作業を考えているんでしょう、あたしもそういう影響を受けられる場所で勉強できればって思えてきたの」

 片瀬は早く服飾の技術を身に着けて世に出たいと願望を露わにした。それは加納の妹への支援が影響したようだった。確かに妹に比べて彼女は長すぎる、もうとっくに卒業してその方面で働いても可笑しくなかった。

「就学期間が長いけどどうなってる」

「いろいろと引き延ばされてるの。まああたしも踏み切れないところが有ったけど……。先週あなたのお父さんのお墓を案内したときに地元の人から嫌みを言われた話は覚えているでしょう。観光客には分からない一面があるから、だからあなたは深入りさせたくなかった」

「それで遺産放棄にサッサと判を押せば良いと言っていたのか?」

「先のことは分からないけれどいとこの波多野さんだってここをなんとかしたいって頑張ってるのも確かだけど誰も動かないのよ。あなたのお祖父さんだってあの通りだったんだから」

 ただでさえ税収が少ないのにそれで波多野は苦労させられた。

 収容施設を見ていた木下は振り返りながら「もうだいじょうぶだから波多野さんも張り切ってましたよ」

 二人は木下が見ていたマネキンを使ったリアルな食糧配給シーンを見詰めた。

「何してるんですか」

「一個のパンをあの天秤棒を使って正確に切り分けているんですよ」

「人形が五体と言うことはあのパンを五つにわけてその一枚分が一食分」

 これは幼児でも足りない量で栄養失調になる。これで強制労働じゃ身体からだが持たないと言いながら三人は見学を続けた。多くは写真パネルが多かった。木下はそれを丁寧に見ている。

「あれを見ているとつくづく良い時代に生まれたのね。でもここを離れたい自己主張は我が儘じゃないでしょう」

「宮津の町で目に留まる服装なんか見当たらないなあ、都会へ行った方が勉強にはなるなあそこへ行くと沙織さおりなんか甘やかしすぎか」

「とにかくあなたを見てから考えが変わったの」

「転校先にもワンルームマンションならそこそこ有るかも知れないから探しておくよ」

 成美なるみは一息つくと木下が展示されている継ぎ接ぎでヨレヨレの防寒服を見ていた。

「抑留者は日本へ帰るまで着替えがないらしい」と下の説明書きを読んだ木下がこれりゃあたまらんなあと抑留者の厳しい環境を嘆いていた。最低限身に着ける物さえ恵まれなければデザイン以前の問題だった。成美は返す言葉もなく行き過ぎた。

 復元された引き上げ桟橋も見たが、これでは小型の舟しか横付けできなかった。引き揚げ船は沖に停泊してピストン輸送したのか。当時はもっとも大きな桟橋だったのか、それとも直接横付け出来る岸壁がなかったのか違和感があった。


 赤煉瓦パークが見えるカフェで昼食を摂った。海軍カレーがここの自慢だけ有ってそれに肉じゃがもおすすめの一品らしかった。何より気兼ねなくテーブル席が適当に置かれて自由な雰囲気が気に入った。ここで買い込んだ丹波の地図に成美は母から聞かされた事故現場を記入した。

「これで加納さんの慰霊の旅はすべて終わるのね」

「さっきも言ったがそのタイヤチェーンはそこに埋めた方がいいような気がするがどうしても持って帰るのか」

「あたしもさっきの続きじゃないけどお母さん悲しむだけだと思うのだけれど」

 伯父は祖父が亡くなるまでこの因縁の有るタイヤチェーンがまだ我が家に有ったとは知らないで臨終の間際に知らされたらしい。それをあっさりと手放したのはやはり見るに忍びない弟への何かが湧いて来たのだろうか。伯父さんでさえそうなら母はどうするだろうかそれが気になったが。

「取り合えずその現場に立ってから考えるよう」

「加納、それで波多野さんからの一通の手紙で始まったお父さんを求める旅は終わるなあ」

「これで亡きお父さんを求める旅もこれで堪能できたのかしら。でもあなたの心の旅はこれからなのかもしれないわね」

 成美が何を言おうとしているのか解らなかった。

「あなたは何事もひとつ間を空け反応を見てから決める決断の遅い人なのね、うちの母に言わせればそこが耀子ようこさんを知るまでの井久治いくじさんに似ていると言っていたわよ」

 その中途半端な生き方をあなたなら変えてあげられる、とも母は私に言っていたと成美は付け加えた。  

 成美に案内されて舞鶴市内でレンタカーを借り、そこで彼女に見送られて帰路に就いた。

 帰りは木下の運転で若狭湾沿いを西に走り、小浜と舞鶴の中程の若狭高浜辺りから県道十六号線に入り、小浜市と京都を結ぶ百六十二号線と合流した後はそのまま京都まで結ぶ国道だが、高速の縦貫道が出来てから益々通行量が減っていた。 

 お父さんが亡くなった場所は若狭高浜から六キロ先の山中で、下り勾配の急な曲がり角だった。その先の直線道に退避用に切り拓かれた空き地に車を止め、片瀬が用意してくれた花束を捧げて黙祷もくとうして車に戻った。形だけでも慰霊が出来て成美の献花の助言はありがたかった。

「加納、やはりそのタイヤチェーンは持って行くか」

 車を発進する前に木下は今一度念を押して「急に祖父が自分の手を痛めた物だけで死んだお父さんが本当に浮かばれると思うか」と訊いてきた。

 加納に取って父と繋がる遺品はこれしか残っていなかった。しかし木下の云うのももっともだった。

 そんな物を大事にして、未練を残すなと木下は言うが、お前だって昔の女に未練を残しているではないか。別れた彼女はこの世に二人といないと木下は言ったが、全ての人がこの世に二人といない者なんだと対抗上喰ってかかってやった。お前にも心に残るものが有るように俺にもあるんだ、だからこの鎖は母に見せる。

 それとこれとは別問題だと問うても無駄で、これには木下も呆れた。

 父を死に追い詰めた代わりとしてその手を痛めるだけで罪が消える、抹消されるなんて許せない。そう思い直さないと父は浮かばれないのか、いやもう父は許しているのか。それは自分の心に問うて答えを出すしかなかった。その為には母の助言を必要としていた。だから木下のひと言で大きく変えられるものでもなかった。


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